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光の裁縫師

月に朝が訪れた。

 だがそれは、夜の終わりではなく、夜の焼け跡だった。

 笛の震えのあと、妖怪たちはしばらく何も言わなかった。

 音が止んだ世界で、みんなが息を整えるように、沈黙がゆっくりと呼吸を始めていた。


 最初に話したのは、いつも騒がしい鬼だった。

「なあ……今度は、どうやって喧嘩すりゃいい?」

 声は柔らかく、怯えの混じったものだった。


「争わないための約束を作ろう」

 と、影のような妖が言った。

 その提案に、誰も反対しなかった。


 やがて彼らは石を並べ、光を集めて、平和の掟を縫い始めた。

 だがその布は、縫えば縫うほど破れていった。

 針は言葉、糸は理性、そして縫い目の隙間から滲み出すのは

 まだ癒えぬ恐怖の色だった。


「争いを避けるには、どう戦えばいい?」

「安全に、静かに、正しく」

「では、正しさを量る天秤を作ろう」

「その重さを測るための光も必要だ」


 月面の真ん中に、光を分ける裁縫師たちが現れた。

 彼らは光の角度を決め、照らすべき者と照らされすぎた者を区別した。

 そして、光の届かない場所にいた妖たちを、ひとり、またひとりと夜の側へ追いやった。


「夜に残るのは怠け者だ」

「影の下で休む者は、声を持たぬものだ」

 そんな囁きが、いつの間にか掟になった。


 私は遠くから、それを見ていた。

 笛の破片は、まだ砂の中に埋まっている。

 あの音が沈黙を溶かした夜から、何も変わっていないのに、彼らの顔は、少しだけ人間に似てきていた。


 昼の中で、彼らは平和な争いを始めた。

 光を盾にし、理性を刃にした。

 血を流さずに、名を削り合った。

 正しさのために嘘をつき、嘘のために正しさを語った。

 そこには痛みがなかった。

 痛みがないから、誰も止まらなかった。


 私はその様を見つめながら、

 胸の奥で、ゆっくりと何かが腐っていくのを感じた。

 それは後悔というより、呼吸のような懺悔だった。



 昼の光が強くなると、空は白く濁り、境界が消えていく。

 誰の顔も輪郭を失い、誰の声も似通っていく。

 声は光に変わり、光は規則に変わり、規則は紙になって風に舞った。


 それを拾う者は、拾うたびに少しずつ透けていった。

 透明になればなるほど、皆が称えた。

「お前の心は澄んでいる」と。

 けれど、澄んだ心は熱を持たない。

 冷たいまま、溶けることも燃えることもなく、ただ、積もっていった。


 私は、その光の山の中を歩いた。

 そこには、名前のない掟が幾千も積み重なっていた。

 どれも似たような文字で、どれも似たような正しさの形をしていた。

 私はひとつを拾い上げ、読んでみた。


「善を守るための争いは、争いではない」


 私は笑いながら、声が震えているのがわかった。

 この光の中では、もう誰も泣くことができない。

 涙が乾くよりも早く、太陽がそれを蒸発させてしまう。



 太陽は、私を落胆させる。

 地平線の向こうから顔を出すたびに、私は自分の影を失っていく。

 影のない私は、どこにも帰れない。

 あの夜の沈黙も、あの笛の震えも、光の中では、ただの過去の事故のようにしか見えない。


 人生と他人に苦しむのは、きっと影を持つ者の特権だ。

 現実を直視できないのは、現実の方があまりにまっすぐだからだ。

 太陽は理屈の塊だ。

 私はその理屈の光に焼かれながら、いつの間にか、皮膚の下の闇を恋しく思うようになった。


 夜、一人ぼっちで引きこもり、忘れ去られ、迷子になり、現実のものや有益なものとの繋がりを失うとき、初めて私は自分自身を見つける。

 光の中では見えなかった、自分という影を。

 それが慰めだった。

 悲しいのに、どこかで安心していた。


 妖怪たちは、新しい掟を作り続けた。

 誰もが自分の声を正義の形に変え、それを積み重ねて塔を作った。

 塔は太陽を指し示し、その高さこそが、秩序の象徴とされた。


 だが、塔の影は長かった。

 月の裏側まで伸びるほどに長く、

 その影の中では、かつて沈黙を拾った私のような者たちが、次々と見えなくなっていった。


 光を信じる者たちは、影を赦せなかった。

 影を赦すことは、自分たちの明るさが作り出した暗さを認めることだから。



 私は砂の上に座り、かつての自分の絵を思い出していた。

 あの頃、私は架け橋を書こうとしていた。

 救済と無知を繋ぐ橋。

 けれど、いま思えば、あれは橋ではなく、泳ぐことを禁じる柵だった。

 比喩で人を導くつもりが、ただ、髪を引き摺り回し対岸へ渡らせただけだと。

 私の芸術は、渡らせることしか知らず、泳ぐことや橋を築かせる事をさせなかった。


 いま、目の前で繰り返されているこの滑稽な光景──

 それは、私が描いた絵そのものだった。

 誰もが安全に戦い、誰もが正しく堕ちていく。

 正義の火に焼かれながら、まだ誰も死を知らない。



 夕方、太陽が傾く。

 光は弱まり、長い影が戻ってくる。

 その影の中で、私はようやく息をした。

 砂をかき分けると、あの壊れた笛の欠片が、指先に触れた。


 まだ温かかった。

 誰も見ていないのを確かめて、私はそれをそっと吹いた。


 音は出なかった。

 けれど、風がないはずの月で、ほんの一瞬だけ、砂が揺れた気がした。

 まるで誰かがそこに戻ってきたように。



 私はそのまま目を閉じた。

 世界が音を失い、光が溶けていく。

 善と悪の区別が混ざり合い、正しさが眠気のように重くのしかかる。


 砂の下では、誰かの手がまだ動いている。

 掟を書き足す手。

 それは止まることを知らない。

 治らない傷が、薬を産み続ける。

 消えかけた世界は、なおも自分を治そうとして、次の掟を産み落としていた。


 けれど、治そうとするたびに、少しずつ死に近づいていることに、誰も気づかない。

 光はあまりにまぶしく、焼け跡を照らしながら、やさしく頬を撫でていく。


 理想という名の朝が来る。

 それは、夜を忘れさせるほどまっすぐで、あまりに正しくて、もう誰のものでもなかった。


 私たちは今、その罰の中で息をしている。

 息をしていることさえ、いつかは罪になると知らずに。

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