月と笙貝
微かに見えていた地球が、今はもう見えない。
白い砂の海は、どこまで歩いても終わりがない。
踏みしめた足跡も、すぐに光に飲まれて消えていく。
「あんたの言ってることは、よーわかんねぇなぁ」
声がやけに響く。月の地面は固いのに、音だけが沈んでいく。
ここでは、言葉は空に溶けず、石の下へ潜り込む。返ってくるのは、自分の声の影だけだ。
「そうやそうや、もっと分かりやすく教えてくれ」
誰かが笑った。けど、その笑い声も、風がないから散らばらずに、俺たちの足元で溜まっていった。
笑いは地面の奥で震えて、まるで地底から誰かが応えるようだった。
「そんなことは今はどうでもいい。
ただ、百鬼夜行をやらんと、元いた場所には戻れねえんだ」
「そうか。なら、とっとと終わらせようぜ。先頭は俺でいいか?」
「いいや、先頭は拙者が。」
「黙れ、今年こそワシが先頭になる。」
声が交差するたび、月の砂がかすかに揺れた。
空気がないのに音があるのは、声が震えではなく光だからだ。
月の上では、言葉は光に変わって漂う。
罵声も議論も、みんな青白い燐光になって、影の縁を滲ませていく。
「じゃあ、今年もこいつに決めてもらうか」
そこで誰かが、笙の形をした貝を取り出した。
銀色にくすんで、まるで光を吐き尽くした後の月そのものだった。
誰も息を吸い込まない。みんな、息を覚えていないのだ。
それでも、いくつもの妖怪が貝に口を寄せ、空気の代わりに魂を吹き込んだ。
口のないものは、最初からこの儀式の輪に加われない。
沈黙は参加資格を持たない。
「よし、身ができた頃だ。炙って開かせるぞ」
「大変だ、ここ火がつかねぇ」
「仕方ねぇ。じゃあ、刺身で食うか」
沈黙が、ひとつ息を呑んだように波打った。
誰かが笑い、誰かが首を傾げ、棍棒を持つタコの鬼がが笙の形をした貝を握りつぶした。
粉々に砕けた音が、地表に吸い込まれていく。
音は広がらず、ただ、沈んでいった。
「よし、食べるぞ。誰か醤油をもってこい」
「ワシには、塩をもってこい」
割れた笙貝の身は、まるで光の果肉のようだった。
ひと噛みするたびに、舌の裏でかすかに音が鳴る。
その音は味に似ていた。
「この味はワシの味だな」
「いいや、拙者の味だ」
「嘘をつくな。これはどう考えても俺の味だろ」
妖怪たちは言い争いを始めた。
それぞれの舌の上に、似たような懐かしさが残っていた。
地上で食った夜の味、焚き火の味、雨の匂い。
それが自分のものだったのか、誰かのものだったのか、もう誰にもわからなかった。
粉々になった貝を、誰も目にしなかった。
誰も拾おうともしなかった。
光のない破片たちは、ただそこに散らばって、まるで月の表皮に戻っていくようだった。
私が見つめていると、貝の粉がふと意思を持ったように揺れた。
ひとつひとつの粒が寄り集まり、ゆっくりと形を変えながら、言葉をつくり始めた。
おと
でない
かち
ない
こな
すな
まざる
きえる
こわい
かろうじて見える、色の違う銀色の粉。
私はしゃがみ込み、地面に落ちた粉をそっとかき集めた。
手のひらで集まった粉は、光るでもなく、温かいでもなく、ただ静かに震えていた。
「貴方の音を聞いてみたかったな。
どんな音を奏でるんだ」
そう語りかけても、砂の粒はもう答えを持たなかった。
粉に混じった土が、文字の形を保てなくなり、崩れていく。
さっきまでの言葉が、もう思い出せない。
それでも、手の上で何かが確かに蠢いていた。
小さな震えが、皮膚の上で線を描いた。
それは文字でも、音でもなく、ただ輪郭をなぞるだけだった。
もう形を持たない。
触れられることのない沈黙の形を、真似し始める。
向こうでは、真実や矛盾を並べるだけの言い争いに、誰も歯止めをかけられなくなっていた。
誰もが自分の中に物語を持っていた。
小さな正義、小さな傷、小さな神。
それに縋るもの、信じるもの、重ね合わせるもの。
それぞれの胸の中に、違う灯がともっていた。
けれど、灯りが多すぎて、夜が見えなくなった。
ある者は光の正しさを説き。
ある者は影の美しさを称え。
またある者は、自分こそが闇を照らす側だと信じて疑わなかった。
誰もが、誰かの声を聞いた気になっていた。
だが、月には風がない。
だから、声はどこにも届かない。
ただ漂い、互いの光を焼き尽くす。
言葉が光を放てば放つほど、他の言葉の影が濃くなる。
そうして、世界は光に飽和していった。
ここでは、発することこそが正義だった。
語ること、叫ぶこと、答えること。
それ以外の沈黙は、裏切りとされた。
だから、誰もこのやり方に異を唱えなかった。
光を拒むことが、最も早い死を意味したからだ。
粉々になった貝のように、正しさを吹き込まれたものから順に、役目を終えて消えていった。
それでも、誰も拾おうとしなかった。
──そして、消えていったものたちの沈黙は、いまも地の下で光っている。
けれど誰も、それを見ようとはしない。
地面を照らしているのが、自分たちの失われた声だと、誰も気づかないまま。
──そして、誰も拾わない沈黙だけが、私の手の中に残った。
それは粉とも砂ともつかない重さをしていた。
光の欠片を集めるように、私はそれを掌の上で転がした。
やがて、私は自分の傷口から、血を垂らした。
ゆっくりと乾いていき、砂と混じり合って、新しい形をつくった。
私はそれを細く伸ばし、笛のようなものを作った。
形は歪で、脆く、ひと吹きすれば壊れてしまいそうだった。
私は唇を寄せて、そっと吹いた。
すると、光の粒が笛の孔から零れ落ちた。
それは赤く濁り、血の色をしていた。
だが、その光が地面に触れた瞬間、遠くで続いていた言い争いが、止まった。
汚らしく、濁った、どこにも届かない音だった。
けれど、それは確かに響いた。
音がないはずの世界で、はじめて、誰もが耳ではなく、心の内側で同じ震えを聞いた。
笛は一度きりで壊れた。
粉々になった破片が、また月の砂に還っていく。
それでも、その響きだけは、しばらく空の底に残っていた。
言葉にも、光にもならず、ただ、ひとつの震えとして。




