魂の風景
私は世界の終わりを見た。
空をさまようのは、誰かが書き残した小さな希望。
その希望が神の言葉となった時、夜は沈黙を覚えた。
明滅する永遠の物語から、世界は手を離していた。
私はその希望を模倣した。
拍手喝采は起こり、人はその祈りをまた模倣した。
希望は螺旋の底にこびりつき、誰も空を見上げなくなった。
私はただ、世界の明かりが絶えないように書き続けた。
その物語が見えなくなるほどの──目が潰れるほどの輝きで。
次第に、世界を鏡に映すはずの線は、いつの間にか自分の顔をなぞっていた。
鏡は世界を反転させるだけの、もうひとつの現実。
それでも私は、その鏡の中を美しいと思ってしまう。
手を押し込み、ひび割れた破片が腕に刺さり、感覚は遠のく。
滴り落ちる血が、私の腕から筆を奪い去った。
その日から世界は静止した。
希望という語は嘘の装飾となり、絶望という語はすでに擦り切れていた。
何も描けなくなった私は、だから読むことを始めた。
読むことでしか、世界に触れられなかった。
十年という時間を、読むことで過ごした。
読むとは、体をゆっくりと外側から腐らせる儀式だった。
文字は皮膚を内側から削り、頁をめくるたび、指先で肉の時間が剥がれ落ちた。
部屋には風が通わない。
窓の隙間にこびりついた埃は、乾いては膨張し、湿っては固まり、季節を忘れた死体のように層を作る。
シーツは黄ばみ、繊維がほつれ、皮膚に似た裂け目を孕んだ。
指でなぞれば粉が舞い、古い汗の塩がざらつき、他人の記憶に触れているようだった。
爪は厚く歪み、血のように黒ずんだ筋が走る。
縦の溝は山脈のように隆起し、死んだ細胞とインクの滓が詰まった。
擦れば、微かな熱を帯びた臭気が立ち上る。
それは紙を焼いたあとに残る焦げの匂いに似て、より生温かく、より人の腐汁に近かった。
髪は肩で止まり、その先は固まり、束となって首筋に貼りつく。
汗と皮脂と十年分の静電気が糊となり、一本一本の間に卵のような埃の塊が詰まる。
頭を動かすたび、それらが崩れ、小さな白い屑が頬を滑り落ち、唇に触れ、舌の上で溶けた。
苦い塩の味がした。
私はそれに気づかない。
呼吸は浅く、口の端で空気が擦れるたび、乾いた舌が歯に貼りつく。
夜の部屋では、頁をめくる音よりも、唾液が糸を引く音のほうが長く残った。
枕の上では抜けた髪が層をつくり、腐りかけた果物のような匂いを放つ。
体は汗と油を吸いすぎて、もはや皮膚ではなく膜になっていた。
布の繊維が背中に沈み、肉と織り合わさって境界が消える。
寝返りを打つたび、微かな剥離音がした。
それは肉が頁から剥がれる音だった。
棚には読みかけの本が何十冊も並ぶ。
どの頁にも、指の脂と皮膚の薄片が貼りついている。
紙は体温で波打ち、文字は乾いた血のように沈んでいた。
本は臓器の断面図だった。
開かれるたび、そこに血管の跡が見えた。
頁の綴じ目を、一匹の銀色の虫が蠢く。
読まれ尽くした言葉の屍を喰い、文章の死骸を腹に宿している。
それを摘み、感覚の消えた指で震えもなく、空腹を紛らわすために口に運ぶ。
殻が砕け、金属と腐葉の味が混ざった。
口の痛みと不快感が、少しだけ遠のいた。
十年の読書は、知識を積むことではなかった。
それは、自らの死を細かく書き写す作業だった。
体は、もはや人間の時間ではなく、紙の時間で進んでいた。
乾き、黄ばみ、剥がれ、めくられるたびに、少しずつ崩れていった。
そして私は、何度読んだか分からない本をまた開く。
すると、知らない紙が一枚、静かに滑り落ちた。
それは新しい匂いがした。
紙の繊維はまだ世界を知らないままに白く、誰の指にも触れたことのない温度を持っていた。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
「貴方を招待します。
参加を希望する場合は、サインをお書きください。」
私は一度、本を閉じた。
紙の音が心臓の拍動と重なり、部屋の空気が少し濃くなる。
ペンは見つからなかった。
代わりに、机の上に錆びたスクラッチペンがあった。
十年前、インクが乾いて以降、一度も使ったことがない。
私は利き腕の甲を見つめた。
古い瘡蓋が一つ、薄茶色に固まっていた。
それを刃の先でゆっくり削ると、皮膚の下から湿った血が顔を出した。
血は紙よりも鮮やかで、わずかに金属の匂いがした。
それを指で掬い、白紙の上に落とした。
文字にもならない形を描く。
ただの滲み。ただの署名。
その瞬間、心臓の奥で鈍い音が鳴った。
指先が痺れ、視界の端から光が崩れ落ちる。
脳の奥で血の流れが逆転する。
世界の重力が、内側に折り畳まれていく感覚。
呼吸が詰まる。
頁の間に挟まっていた十年分の塵が一斉に宙へ舞い、
私の視界は黒く、粘ついた闇で満たされた。
──そして、目を覚ました。
そこは、月面だった。
砂の粒が光を吸い込み、世界は凍った銀色の呼吸をしていた。
自分の体が宙に浮き、十年ぶりの歩みを助けてくれるようだった。
心臓はまだ痛いが、規則正しく鼓動していた。
胸の中で、何かが紙のようにめくられていく。
空を見上げる。
黒い空間の奥で、地球が静かに光っていた。
青く、遠く、私のサインのように滲んでいた。
視界の端で、何かが動いた。
砂の粒が逆光の中で舞い、静止していた世界に、かすかな音のひび割れが走る。
隣の方角から、言い争う声がした。
声といっても、それは空気の振動ではなかった。
この場所には空気など存在しない。
それでも、確かに耳がその言葉を拾っていた。
「なんだこの場所」
「何もねぇじゃねぇか」
「誰にも見られてねぇのに、やる意味あるのかよ」
声の主たちは、輪郭を持たない影だった。
人の形に似ているものもいれば、化け物のような異形もいた。
それらは重力を拒むように漂い、それぞれの中心に淡い光を灯していた。
彼らは妖怪というよりも、言葉を失って浮遊する、古い情念の抜け殻のようだった。
ひとつの影が私を指差した。
指と呼べるものはなかった。
ただ、光の先端が私の胸のあたりに焦点を合わせた。
「おい、あんな場所に人間?」
「あれは本当に人間か?」
別の声が応える。
「あれが人間なわけねぇだろ」
「匂いも、見た目も、人間なんかじゃねぇよ」
私は息を呑む。
息を吸うことは出来ないはずなのに、肺の奥に、確かに冷たいものが流れ込んだ。
「おい、あんたもこっちに来てくれよ」
呼ばれるままに、私は歩き出した。
足跡は残らなかった。
砂の表面は、すぐに自己修復するように閉じていった。
まるで私の存在を拒むように。
近づくと、彼らは半円を描いて私を囲んだ。
火の群れ。影の会話。
中心に、ひとつの虚があった。
そこには誰もいない。
けれども、全員がその空白に向かって話しかけていた。
「今年も誰が先頭を歩くかで揉めるつもりだったんだけどよ。
なんで今年はこんな場所なんだ?
あんた、理由を知ってるか?」
多分、知っている。
私は人間だけど、それを知っている。
それは十年の読書で、無数の死んだ言葉を体に刷り込んできた私だけが、知っている種類の答えだった。
私は口を開く。
音は出なかった。
それでも、声が響いた。
「それは──」
空気のない世界で、音が広がった。
衝撃が砂に伝わり、光が細かく砕けた。
「これが──現代の魂の風景だからですよ」




