第九話
空の王者、ウィンドイーグルとの死闘を制した俺は、名実ともにこの森の空の新たな支配者となった。まあ、支配者と言っても特に何かをするわけではない。固定資産税を徴収するわけでもなければ、領土拡大のために隣の森に喧嘩を売りに行くわけでもない。要するに、この広大な空を誰にも邪魔されることなく自由に飛び回る権利を手に入れた、というだけの話だ。だが、その『だけ』が俺にとってはとてつもなく大きな意味を持っていた。
「にゃははは! 速い! 速いぞ、チカ! Gを感じるか!?」
「ちきゅー! 目が回るー!」
俺は雲一つない青空を、弾丸のようなスピードで駆け抜けていた。風魔法によって身体そのものを翼と化す、俺だけの飛行術。ウィンドイーグルとの戦いを経てその技術はさらに洗練され、もはや俺の身体の一部として完全に馴染んでいた。きりもみ回転、急上昇、背面飛行からの急降下。どんなアクロバティックな動きも思いのまま。人間だった頃、ゲームの中で戦闘機を乗り回していた時のあの感覚にそっくりだ。
肩の上にしがみついているチカは、最初こそ大はしゃぎだったが、俺のあまりの無茶な飛び方に今ではすっかり目を回している。全身の光がぐるぐると渦を巻いているように見える。大丈夫か、こいつ。
「にゃあ(すまんすまん、少し抑える)」
俺はスピードを緩め、優雅な遊覧飛行へと切り替えた。眼下に広がるのはどこまでも続く緑の海、エターナル・フォレストの全景だ。こうして空から見下ろすと、この森の広大さが改めてよく分かる。俺が今までいた外周部や中層域など、この森のほんの一部に過ぎないのだ。
空からの探索は、地べたを這いずり回っていた頃とは比べ物にならないほど効率が良かった。危険な魔物の縄張りを上空から確認し、安全なルートを選んで進むことができる。まさに偵察衛星を手に入れたようなものだ。
「にゃーん(さて、と。そろそろ次の目的地を探しますかね)」
輝石の洞窟での試練、そしてウィンドイーグルとの戦いを経て、俺の力は飛躍的に向上した。純化された魔力から放たれる黄金の『フレイムアロー』。風と一体化した三次元機動術。そして、二つの力を組み合わせた複合魔法の萌芽。今の俺ならこの森のさらに深部、今まで足を踏み入れることすらできなかった未知の領域に挑戦できるはずだ。
俺は高度を上げ、森全体を見渡す。
森の深部に行けば行くほど木々の緑は深みを増し、大気に含まれる魔力の密度も濃くなっていくのが肌で感じられた。そして、その中でもひときわ異様な気配を放つ一角があることに、俺は気づいた。
「にゃん?(あれは……なんだ?)」
森の南西の方向。
その一帯だけ木々の色が明らかに違う。
生命力に満ちた鮮やかな緑ではなく、まるで病に侵されたかのような淀んだ黒ずんだ緑色。そして、その中心部からは紫色の瘴気のようなものが陽炎のようにゆらゆらと立ち上っているのが見えた。
見るからにヤバい場所だ。
普通の生物なら本能的に避けて通るだろう。
だが、今の俺は普通の生物ではない。
そして俺の猫としての本能と、元人間としての好奇心が口を揃えてこう囁くのだ。
『面白そうだから、行ってみろ』と。
「にゃはっ(決まりだな)」
「ちきゅ?(え、どこか見つけたの?)」
「にゃあ!(ああ、とびっきりデンジャラスな香りがする、最高の遊び場がな!)」
俺はにやりと笑うと、機首を、いや、顔をその瘴気が立ち上る方向へと向けた。
そして再び魔力全開。
黒い流星となって、その不吉な土地へと一直線に突き進んでいった。
◇
目的地に近づくにつれて空気は粘度を増し、鼻をつく異臭が強くなってきた。
何かが腐ったような甘ったるい匂い。そして、硫黄のようなツンとする刺激臭。それらが混じり合って吐き気を催すほどの悪臭となっている。
「にゃっ……うぷっ(こりゃ、ひでえな……)」
俺は思わず前足で鼻を押さえた。猫の優れた嗅覚が、ここでは完全に裏目に出ている。
チカも俺の肩の上で「ちきゅ……」と苦しそうな声を上げていた。全身の光が心なしか弱々しくなっている。
「にゃあ(大丈夫か、チカ。無理そうならここで待っててもいいんだぞ)」
「ちきゅ、ちきゅ!(だ、大丈夫! これくらい平気!)」
気丈に首を横に振る相棒。その健気さに俺は少しだけ救われる。
やがて俺たちは、その異様な土地の全貌が目視できる距離まで到達した。
そこは広大な沼地だった。
水面は油が浮いたように不気味な虹色の光沢を放っている。あちこちから紫色の泡が、ぽこりぽこりと不気味な音を立てて湧き出ては弾けていた。弾けた泡からは先ほどよりもさらに濃密な瘴気が立ち上り、周囲の空気を汚染している。
沼の周囲に生えている木々はどれもねじ曲がり、枯れ果て、まるで亡霊のようにその黒い枝を天に突き上げていた。生命の気配が一切感じられない。死の大地。まさにそんな言葉がふさわしい場所だった。
俺の脳内に情報がポップアップする。
【ポイズン・スワンプ】。強力な毒素が満ちた、呪われた沼地。ここに生息する生物は独自の進化を遂げ、その多くが猛毒を持つ。
ポイズン・スワンプ。毒の沼か。そのまんまだな。
俺は沼の上空でホバリングしながら、その水面を注意深く観察する。
この沼のどこかに主がいるはずだ。この死の大地を作り出した元凶が。
しかし、水面は静まり返っており何の動きも見られない。
「にゃーん(留守にしてるのか? それとも俺たちに気づいて、息を潜めてるのか……)」
俺は試しに、威嚇のフレイムアローを沼の中心に向かって放ってみることにした。
爪の先に黄金の炎を灯す。
だが、その瞬間。
どくん、と。
沼全体が、まるで巨大な心臓のように一度だけ大きく脈打った。
「にゃっ!?」
次の瞬間。
俺が狙いを定めていた沼の中心から水面が巨大なクレーターのように、ごぼりと陥没した。
そして、そこから何かが凄まじい勢いでせり上がってきた。
それは蛇だった。
いや、蛇と呼ぶにはあまりにも異様で、巨大すぎる。
まず頭が一つではない。
俺が視認できただけでも五つ。いや六つ、七つ。
ぬめぬめとした緑色の鱗に覆われた巨大な蛇の首が、それぞれ独立した意思を持っているかのように鎌首をもたげている。そのどれもが俺の胴体よりも太い。
そして、その七つの頭にはそれぞれ血のように赤い瞳が爛々と輝いていた。その瞳が一斉に、空中の俺を捉える。
ざばあああああああああん!
水しぶきを上げて、ついにその本体が沼の中から巨大な姿を完全に現した。
七つの首は亀の甲羅のような、岩よりも硬質に見える一つの巨大な胴体から生えていた。その胴体は小山ほどの大きさがある。
これが、この沼の主か。
鑑定スキルが、俺の脳内に戦慄の情報を叩き込んできた。
【ポイズン・ハイドラ】。七つの頭を持つ、巨大な水蛇の魔物。それぞれの頭が、異なる種類の猛毒(麻痺毒、腐食毒、幻覚毒など)を吐き出す。本体は極めて強固な甲羅で守られており、驚異的な再生能力を持つ。首を切り落としても数秒で新たな首が生えてくるため、倒すことは極めて困難とされる。
……マジかよ。
再生能力持ちとか、ゲームだったら絶対に戦いたくないタイプの敵じゃないか。
しかも七種類の毒とか、デパートの特売セールでももうちょっと品数を絞るぞ。
これは今まで戦ってきたどんな魔物よりも、厄介な相手かもしれない。
ヒュドラ、いやハイドラは、その七対十四の赤い瞳で俺をじっとりと睨めつけていた。
その瞳には明確な殺意と飢えの色が浮かんでいる。
どうやら俺のことを、久しぶりに現れた極上の獲物だと認識したらしい。
「にゃあ……(チカ、しっかり掴まってろよ。こいつは今までの奴らとは格が違う)」
「ち、ちきゅ!(う、うん!)」
俺はゴクリと喉を鳴らした。
恐怖はない。
だが、武者震いが止まらない。
これほどの強敵と戦えることに、俺の魂が歓喜しているのが分かった。
「にゃはは! 面白い! やってやろうじゃないか、化け物! その七つの頭、全部まとめてもぎ取ってやるぜ!」
俺は高らかに宣戦布告の雄叫びを上げた。
それに応えるかのように、ポイズン・ハイドラもまたその七つの口を、一斉に大きく開いた。
シャアアアアアアアアアアアアアアッ!
七つの絶叫が一つに重なり、空気を震わせる。
毒の沼の女王との死闘の火蓋が、今、切って落とされた。
◇
戦いは熾烈を極めた。
先に仕掛けてきたのはポイズン・ハイドラだった。
七つの頭のうち三つの頭が、まるで意志を持った槍のように空中の俺に向かって、凄まじいスピードで突き出された。
俺は風魔法で即座に回避行動を取る。
だが、ハイドラの攻撃はそれで終わりではなかった。
俺が回避した先を予測していたかのように、残りの四つの頭が時間差で襲いかかってきた。
上下左右、全ての逃げ道を完全に塞ぐ完璧な連携攻撃。
「くそっ!」
俺は咄嗟に風の防御壁を展開する。
ガギンッ! ガギンッ!
蛇の頭が防御壁に激突し、鈍い音を立てる。
なんとか直撃は免れたが、その衝撃で俺の身体は大きく吹き飛ばされた。
体勢を立て直す間もなく、ハイドラは次の攻撃に移る。
今度は七つの口から一斉に、色とりどりの液体を噴射してきた。
緑色の液体、紫色の液体、黄色の液体……。
鑑定するまでもない。あれは猛毒のブレスだ。
俺は空中を目まぐるしく飛び回り、その毒のシャワーを必死にかわす。
毒液が地面に落ちると、ジュウウウッ! というおぞましい音を立てて大地が溶けていく。木々が一瞬で黒い炭へと変わっていく。
あんなもの、一滴でも浴びたらひとたまりもないだろう。
「にゃろー……(やりたい放題やりやがって!)」
守ってばかりではジリ貧だ。
俺は反撃の機会をうかがう。
ハイドラが毒のブレスを吐き終え、わずかに動きが止まったその瞬間。
俺はその七つの頭の一つに狙いを定め、黄金のフレイムアローを放った。
ドシュッ!
光の矢は吸い込まれるように、蛇の頭の眉間に命中した。
ジュウウウウウッ!
肉の焼ける嫌な音と匂い。
黄金の炎は蛇の頭を、内側から完全に焼き尽くした。
「ギャアアアアアアッ!」
頭を一つ失ったハイドラが、苦痛の絶叫を上げる。
よし、やった!
俺が勝利を確信しかけた、その時。
信じられない光景が、俺の目の前で繰り広げられた。
俺が焼き尽くしたはずの首の断面から、肉がぐじゅぐじゅと盛り上がり始めたのだ。
そして、それはみるみるうちに新しい首の形を形成していく。
鱗が生え、目が開き、牙が伸びる。
ほんの数秒。
瞬きをする間に、そこには寸分違わぬ新しい頭が完全に再生されていた。
「……は?」
俺はあまりの出来事に呆然と、その場に静止してしまった。
嘘だろ。
鑑定スキルには確かに再生能力があると書かれていた。
だが、これはいくらなんでも反則すぎる。
俺の最大火力である黄金のフレイムアローの一撃を、ものの数秒でなかったことにするだと?
俺のそんなわずかな思考の停止を、ハイドラは見逃さなかった。
再生したばかりの頭を含む七つの頭が、再び俺に襲いかかってきた。
今度はブレスではない。
七つの口から一斉に、霧状の紫色の毒ガスを噴射してきたのだ。
「しまっ……!」
気づいた時にはもう遅い。
俺の周囲の空間は完全に毒の霧に覆い尽くされていた。
俺は咄嗟に息を止める。
だが、この毒は呼吸器からだけでなく皮膚からも吸収されるタイプらしかった。
全身の毛がじりじりと焼けるような痛みを感じる。
そして、視界がぐにゃりと歪み始めた。
【幻覚毒】。吸い込むと、現実と幻の区別がつかなくなる。
まずい。
このままではやられる。
俺は残った理性で風魔法を全力で発動させた。
自分の周囲に強力な竜巻を発生させ、毒の霧を吹き飛ばす。
びゅおおおおおおおっ!
なんとか毒の霧から脱出することには成功したが、幻覚作用はすでに俺の脳を蝕み始めていた。
目の前のハイドラの姿が、七つから十四に、二十八に増えて見える。
どれが本物で、どれが幻か分からない。
「ち、ちきゅ!(しっかりして! こっちだよ!)」
肩の上のチカが、俺の耳元で必死に叫んでいる。
その声だけが唯一の、現実との繋がりだった。
俺はチカの声がする方向へとがむしゃらに飛ぶ。
背後から無数の蛇の頭が迫ってくる幻覚が見えた。
絶望的だ。
攻撃してもすぐに再生される。
防御に徹すれば多彩な毒攻撃で、じわじわと嬲り殺される。
どうすれば勝てるんだ。
この不死身の化け物に。
俺の心が折れかけた、その時。
ふと、俺の脳裏にある考えが閃いた。
再生。
確かに奴の再生能力は驚異的だ。
だが、本当に無限なのだろうか?
再生するためには膨大なエネルギーを消費しているはずだ。
もしその再生する速度を上回る速度で、ダメージを与え続けることができたなら……?
そうだ。
一発の強力な攻撃ではダメだ。
必要なのは継続的で広範囲な、殲滅攻撃。
奴が再生する暇さえ与えないほどの、圧倒的な手数。
だが、どうやって?
フレイムアローの連射には限界がある。
何か別の方法。
俺の持つ二つの力。
炎と風。
この二つをただ組み合わせるのではなく、完全に『融合』させることができたなら……。
炎の破壊力と持続性。
風の拡散力と運動性。
この二つが一つになった時、何が生まれる?
答えは一つしかない。
炎の嵐。
全てを焼き尽くす、灼熱の竜巻。
……いける。
いけるかもしれない。
いや、これしか勝つ方法はない。
ぶっつけ本番の大博打だ。
だが、やるしかない。
「チカ、俺に捕まってろ。今からとんでもないことをやる」
「ちきゅ?(え?)」
俺はチカにそれだけ告げると、ハイドラから大きく距離を取った。
そして、空中で静止する。
幻覚で視界はまだぐらぐらと揺れている。
だが、俺は心の目でハイドラの巨大な本体を、確かに捉えていた。
俺はゆっくりと両の前足を前に突き出した。
そして体内の純化された魔力を全て練り上げる。
右の爪先には黄金の炎の魔力を。
左の爪先には翠色の風の魔力を。
二つの異なる属性の魔力が俺の小さな身体の中で激しくぶつかり合い、反発し合う。
脳が焼き切れそうだ。
全身の血管が破裂しそうだ。
だが、俺は歯を食いしばって耐える。
そして二つの力を、無理やり一つに捻じり合わせる。
料理で卵をかき混ぜるように。
水と油を乳化させるように。
混ざり合わないはずの二つの力が、俺の強い意志の力によって螺旋を描きながら融合していく。
俺の両の前足の間で、小さな渦が生まれた。
黄金の炎と翠の風が美しく、そして恐ろしく絡み合った小さな渦。
その渦は周囲の大気中の魔力を貪欲に吸い込み、みるみるうちにその規模を拡大させていく。
ゴオオオオオオオオオオオオッ!
やがてその渦は、俺の身体よりも巨大な灼熱の竜巻へと成長した。
黄金の炎が風の刃を纏い、天へと昇っていく。
その様はまるで天に喧嘩を売る、炎の龍のようだった。
ポイズン・ハイドラも俺のこの異様な魔力の高まりに気づいたようだった。
初めてその赤い瞳に警戒と、そしてわずかな恐怖の色を浮かべている。
七つの頭が、一斉に俺に向かって最大級の毒のブレスを放ってきた。
だが、もう遅い。
「喰らえ……! これが俺の全力だ!」
俺は完成した炎の竜巻を、ハイドラに向かって解き放った。
「その名も、『フレイム・トルネード』!」
俺の意志を離れた炎の竜巻は、もはや誰にも止められない。
それは一つの生命体のように咆哮を上げながら、毒の沼の上を突き進んでいく。
ハイドラが放った七色の毒のブレスは巨大な竜巻に触れた瞬間、一瞬で蒸発して消え去った。
そして。
灼熱の嵐が、毒の沼の女王を完全に飲み込んだ。
シャアアアアアアアアアアアアーーーッ!
今まで聞いたことがないほどの凄まじい絶叫。
七つの頭が一つになって天を引き裂くような、断末魔の悲鳴を上げた。
フレイム・トルネードは、その小山のような巨体を完全に飲み込み、その驚異的な再生能力を上回る速度で、七つの頭と本体を同時に焼き尽くしていく。
再生するそばから焼かれる。
焼かれながら再生しようとするその生命力さえも燃料にして、炎の竜巻はさらにその勢いを増していく。
俺にとっては最高の好循環だ。
やがて。
あれほど凄まじかった絶叫が、ふっと途絶えた。
炎の竜巻もその役目を終えたかのように、ゆっくりとその勢いを弱めていく。
そして、最後には数個の火の粉だけを残して静かに消え去った。
後には静寂だけが残された。
あれほど巨大なハイドラの姿はどこにもない。
ただ沼の水面が熱せられて、じゅうじゅうと沸騰しているだけ。
そして、その水面には黒い灰が雪のように降り積もっていた。
毒の沼の女王、ポイズン・ハイドラがこの世に存在していた、唯一の証。
勝った。
俺は勝ったんだ。
そう認識した瞬間。
俺の身体から全ての力が抜け落ちた。
魔力切れだ。
一滴も残っていない。
俺は空中でその体勢を維持することができず、そのまま重力に引かれるまま沼へと落下していった。
「にゃ……っ」
まずい、あの毒の沼に落ちる!
そう思ったが、もう指一本動かすこともできなかった。
俺の意識は、ぷつりとそこで途切れた。
◇
……ちか、ちか。
誰かが俺の名前を呼んでいる。
いや、違う。
これはチカの鳴き声か。
ゆっくりと瞼を開ける。
最初に目に飛び込んできたのは、心配そうに俺の顔を覗き込んでいるチカのつぶらな瞳だった。
その全身から放たれる優しい光が、俺の視界を満たしている。
「ちきゅー……!(よかった、気がついた!)」
俺が目を覚ましたことに気づいたチカが、安堵の声を上げる。
俺はゆっくりと身を起こした。
身体のあちこちが痛む。
特に全身の倦怠感がひどい。
これが極度の魔力切れの症状か。
「にゃあ……(ここは……?)」
俺はあたりを見回した。
俺は沼のほとりの乾いた地面の上に、横たわっていた。
どうやら意識を失った俺を、チカがここまで運んでくれたらしい。
あんな小さな身体でどうやって。
俺は感謝の気持ちを込めて、チカの頭をそっと撫でてやった。
ふと、俺は沼の変化に気づいた。
あれほど淀んでいた水面が澄み渡っている。
立ち上っていた紫色の瘴気も完全に消え失せている。
悪臭もない。
ただ澄んだ水の匂いがするだけだ。
どうやらハイドラを倒したことで、この沼の呪いが解けたらしい。
沼は本来の美しい姿を取り戻したのだ。
水面には青い空が鏡のように映り込んでいた。
俺は自分の成し遂げたことの大きさを、改めて実感した。
俺はただ魔物を倒しただけではない。
この死んでいた大地を救ったのだ。
そして、同時に俺は新たな力の可能性を感じていた。
フレイム・トルネード。
炎と風の融合魔法。
あれはまだ完成形じゃない。
もっと洗練させれば、もっと強力な魔法へと進化させることができるはずだ。
複合魔法。
その深淵なる世界の入り口に、俺は今ようやく立つことができたのだ。
この森にはまだ俺が知らない強者がいる。
そして、その頂点に君臨する『森の主』。
いつかそいつと対峙する、その日のために。
俺はもっと強くならなければならない。
俺は立ち上がると、大きく伸びをした。
身体はまだだるいが、心は晴れやかだった。
次なる目標が、はっきりと見えている。
「にゃあ(さて、チカ。帰るか。俺たちの拠点へ)」
「ちきゅっ!(うん!)」
俺はチカを肩に乗せる。
そして、夕日に染まり始めた空へとゆっくりと舞い上がった。