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第七話

 森の番人、シルバーフェンリルとその群れに別れを告げた俺とチカは、森のさらに奥深くへと足を踏み入れていた。あの誇り高き狼の王が自ら示してくれた新たな目的地、強大な力が眠るという輝石の洞窟を目指して。

 シルバーフェンリルから分けてもらった光る苔のおかげで、フレイムアローの酷使によって痛んでいた俺の瞳はすっかり回復していた。ついでに戦いで負った狼たちの傷も癒してやったのだが、特にメスの子狼たちからやけにキラキラした目で見つめられたのは、少しばかり気恥ずかしかった。猫はモテる。異世界でもこの法則は健在らしい。


「にゃーん(しかし、ここら辺は本当に空気が違うな)」


 俺は肩の上に乗せたチカに話しかけながら、周囲を油断なく観察する。

 中層域に入った時も感じたが、深部に近づくにつれて大気に含まれる魔力の密度が指数関数的に上昇している。もはや水の中を歩いているかのような、ねっとりとした抵抗感さえ覚えるほどだ。全身の毛が常に逆立っているような感覚で、少し落ち着かない。


「ちきゅ!(うん、なんだか身体がぽかぽかする!)」


 チカは、この濃密な魔力が心地よいのか嬉しそうに一声鳴いた。その身体から放たれる光も、心なしか普段より明るくきらめきを増しているように見える。こいつは魔力を浴びることでエネルギーを補給しているのかもしれない。だとしたら、ここは最高の環境だろう。


 フォレストウルフたちから教えられた道筋は、獣道と呼ぶのもおこがましいほどに険しいものだった。巨大な植物の根が巨大な蛇のように地面を覆い尽くし、行く手を阻む。俺は風魔法で身体を軽くし、その障害物を軽々と飛び越えながら進んでいく。風魔法を習得していなければ、一日がかりでも数メートル進むのがやっとだっただろう。


「にゃあ(シルバーフェンリルの奴、地図だけじゃなくちゃんと道案内もしてくれりゃいいのにな)」


「チカッ!(王様は忙しいんだよ!)」


 俺のぼやきに、チカがぴしゃりと言い返す。その通りだ。群れの長にあれ以上を望むのは贅沢というものだろう。俺たちは彼らから得た情報を頼りに、自力で目的地にたどり着かなければならない。


 数時間ほど歩き続いただろうか。

 ふと、俺の鼻が今までとは質の違う匂いを捉えた。

 土や草木の匂いではない。もっと無機質で、それでいて清浄な澄み切った空気の匂い。そして、微かに聞こえてくる水の音。


「にゃん?(この先か……?)」


 俺は匂いのする方へと慎重に進路を変えた。

 やがて木々の切れ間から、巨大な崖が姿を現した。高さは百メートル以上あるだろうか。まるで巨大な刃物で山を垂直に切り落としたかのような、圧倒的な絶壁。その表面は黒く湿った岩肌がむき出しになっており、所々に苔が生えている。

 そして、その崖の中腹あたりから一筋の滝が流れ落ちていた。

 水の音の正体はこれか。


「にゃあ……(すげえな……。で、洞窟の入り口はどこだ?)」


 俺はあたりを見回す。

 シルバーフェンリルが示した地図によれば、洞窟の入り口はこの崖のどこかにあるはずだ。しかし、見渡す限りそれらしい穴は見当たらない。

 俺は風魔法を使い、崖の中腹まで軽々と跳躍した。そして岩肌に爪を立て、ロッククライマーのように壁を移動しながら入り口を探す。


「ちきゅ!(あっち! あっちから変な感じがする!)」


 肩の上のチカが、滝の裏側を指して叫んだ。いや、指はないから顔を向けて、というべきか。


 滝の裏?

 なるほど、ゲームや映画でよくあるパターンだ。滝のカーテンの向こうに隠された入り口があるというやつ。ベタだが、嫌いじゃない。


 俺は滝に近づいていく。

 ごうごうと水が叩きつける音が鼓膜を揺らす。全身に冷たい水しぶきがかかり、黒い毛皮がじっとりと濡れていく。猫の本能が水に濡れることを全力で拒絶しているが、今は我慢だ。


「にゃあ!(いくぞ、チカ!)」


「チカッ!」


 俺は意を決して、水のカーテンの中へと飛び込んだ。

 一瞬、視界と音が完全に白と轟音に支配される。

 そして、次の瞬間。


 ふっと、全ての音が消えた。

 俺は滝の裏側にあった、ぽっかりと口を開けた洞窟の中へと着地していた。滝の水の壁が天然の防音壁の役割を果たしているらしい。外の喧騒が嘘のように、洞窟の中はしんと静まり返っていた。


「にゃはは!(あったぜ、ビンゴだ!)」


 俺は濡れた身体をぶるぶると震わせて水を飛ばしながら、勝利の声を上げた。

 洞窟の入り口は、大人がかがんでやっと通れるくらいの大きさだ。奥は完全な暗闇に閉ざされている。

 だが、俺たちにはチカという最高の照明係がいる。


「チカ、頼む」


「ちきゅ!(まかせて!)」


 俺の言葉に応じて、チカの身体がぱあっと明るく輝き始めた。

 その光が洞窟の闇を払っていく。

 照らし出されたのは、人工的に切り開かれたかのように滑らかな壁面を持つ通路だった。床も平らで歩きやすそうだ。


「にゃーん(よし、行くか。ここからが本当の冒険の始まりだ)」


 俺は未知なるダンジョンへの期待に胸を膨らませながら、その暗い通路の奥へと第一歩を踏み出した。



 洞窟の中は、ひんやりとした空気に満たされていた。

 外の湿気とは無縁の乾いた冷気が、濡れた毛皮には少し肌寒い。俺は風魔法で微弱な温風を身体の周りに纏わせ、体温の低下を防いだ。こんなところで風邪をひくわけにはいかない。

 通路はどこまでもまっすぐに続いていた。壁も床もまるで磨き上げられたように滑らかで、自然にできた洞窟とは到底思えなかった。誰かが何らかの目的を持ってこの洞窟を造ったとしか考えられない。


「にゃあ……(一体、誰が、何のために……)」


 俺の独り言が、静かな通路に小さくこだまする。

 チカの光だけを頼りにしばらく進むと、やがて通路の先に広大な空間が見えてきた。


「ちきゅ!(うわぁ……!)」


 その空間に足を踏み入れた瞬間、チカが感嘆の声を上げた。

 俺もまた、目の前に広がる光景に言葉を失った。


 そこは巨大なドーム状の広間だった。

 広さは学校の体育館ほどもあるだろうか。

 そして、その広間の壁や天井の至る所から、青白い光を放つ無数の鉱石が生えていた。

 鉱石の大きさは人の指ほどの小さなものから、俺の身体よりも大きなものまで様々だ。その一つ一つが内側から発光しているかのように、淡く幻想的な光を放っている。

 これが、シルバーフェンリルが言っていた輝石か。


 この無数の輝石が放つ光のおかげで、広間全体がまるで月夜の晩のように青白い光で満たされていた。チカの照明がなくても十分に周囲を見渡すことができる。

 そして、その光に照らし出されて、俺はこの広間の異常さに気づいた。


 広間の中央には一筋の細い道が向こう岸まで続いている。

 その道の両側は、底が見えない真っ暗な奈落。

 そして、その道はまっすぐではない。所々が崩れ落ちており、飛び石のようにいくつかの足場が点在しているだけだった。

 足場と足場の間隔は五メートル以上は離れている。普通の跳躍力では到底渡り切ることはできないだろう。


「にゃーん(なるほどな。最初の試練、というわけか)」


 俺は不敵に笑った。

 この仕掛けの意図は明らかだ。

 挑戦者の跳躍力と、空中でのバランス感覚を試しているのだ。普通の魔物や並の冒険者なら、ここで足止めを食らうだろう。

 だが、今の俺にとってはこんなもの、赤子の手をひねるより簡単なことだ。

 俺には風魔法があるのだから。


「チカ、しっかり掴まってろよ。ちょっとした空中散歩の時間だ」

「チカッ!」


 俺は全身に風の魔力を漲らせる。

 そして、最初の足場に向かって地面を強く蹴った。

 俺の身体はまるで羽のように軽々と宙を舞う。風の力で推進力を得て、最初の足場を軽々と飛び越え、二つ目の足場へと音もなく着地した。


「にゃはは! 楽勝だぜ!」


 俺は次々と足場を飛び移っていく。

 まるで川の石をぴょんぴょんと跳んで渡る子供のように軽快に。

 このスリルがたまらない。


 そして、最後の足場から向こう岸へと跳躍しようとした、その時だった。


 びゅっ!


 突如、横から強烈な突風が俺の身体を襲った。

 完全に不意打ちだった。


「にゃわっ!?」


 俺は空中で体勢を崩される。

 まずい! このままでは奈落へ真っ逆さまだ!


 俺は咄嗟に、身体の側面に逆方向の風を噴射した。

 風と風がぶつかり合い、俺の身体は空中で錐もみ状態に陥る。

 視界がぐるぐると回転する。


「にゃにゃにゃにゃにゃ!?」


 なんとか風の出力を調整し、体勢を立て直そうと試みる。

 だが、突風は一度だけではなかった。

 右から、左から、上から、下から。

 予測不可能な方向から、次々と風の刃が俺に襲いかかってくる。


 これは、ただの自然現象じゃない。

 この広間自体が一個の巨大な仕掛けなのだ。

 侵入者を排除するための防衛システム。


「くそっ、面白いことしてくれるじゃないか!」


 俺は歯を食いしばりながら、荒れ狂う風の中で必死に身体をコントロールする。

 ただ跳ぶだけではダメだ。

 常に変化する風を読み、それに合わせて自分の風魔法を瞬時に、そして正確に調整しなければならない。

 これはただの跳躍力テストじゃない。

 風魔法の精密なコントロール能力を試す、高度な試練なのだ。


 俺はもはや向こう岸に渡ることなど考えていなかった。

 この荒れ狂う風のダンスをどうやって乗りこなすか。

 そのことだけに全神経を集中させていた。


 風が右から吹けば左から風を当てて相殺する。

 下からの突き上げる風には上から押さえつける風をぶつける。

 まるで超一流のダンサーと即興で踊っているかのようだ。

 一瞬の判断ミスが奈落への落下に繋がる、命がけのダンス。


 だが、不思議と恐怖はなかった。

 むしろ、楽しんでいる自分がいた。

 俺の風魔法の技術がこの試練によって、リアルタイムで向上していくのが手に取るように分かったからだ。

 今まで、ただ「速く動く」ためだけに使っていた風魔法。

 その、もっと繊細で多様な可能性を、この試練が教えてくれている。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 俺はついに、この風のダンスのリズムを完全に掴んだ。

 もはや風は俺の敵ではない。

 俺の動きを彩る、最高のパートナーだ。


 俺は最後の突風を華麗にいなすと、その力を利用して大きく宙を舞った。

 そして、向こう岸のど真ん中に、完璧なポーズで着地を決めた。


「にゃーん(……ふぅ。なかなか、楽しませてくれるじゃないか)」


 俺はまるでフィギュアスケートの演技を終えた選手のように、満足のため息をついた。

 肩の上のチカが「ちきゅ、ちきゅー!」と、盛大な拍手を送ってくれている。いや、手がないから全身でぴょんぴょん跳ねて、喜びを表現してくれている。


 最初の試練、クリア。

 俺は自分の成長を確かに感じながら、次の通路へと自信に満ちた足取りで進んでいった。



 第二の広間は、最初の広間とは全く違う様相を呈していた。

 広さは先ほどと同じくらい。

 壁や天井に美しい輝石が生えているのも同じだ。

 だが、この部屋には奈落も飛び石の足場もなかった。

 その代わり、部屋の中央に一つの巨大な輝石が鎮座していた。


 その輝石はひときわ大きく、そしてひときわ強く青白い光を放っている。

 高さは三メートルほどだろうか。表面は完璧なまでに滑らかで、まるで誰かが丹念に磨き上げたかのようだ。

 そして、その巨大な輝石の周りには、無数の小さな輝石がまるで衛星のようにゆっくりと浮遊していた。


「にゃあ……(なんだ、こりゃ……)」


 俺は、その非現実的な光景に思わず足を止める。

 部屋の入り口から奥の出口へと続く道は、この浮遊する輝石の間を縫うようにして通らなければならないようだった。


「ちきゅ?(きれいだねー)」


 チカがうっとりとした声を上げる。

 確かに美しい。星空の中にいるかのような幻想的な光景だ。

 だが、俺はこの美しさの裏に何か危険な罠が隠されていることを、直感的に感じ取っていた。


 俺は試しに、足元に転がっていた小石を拾い上げ、浮遊する輝石の一つに向かって軽く投げつけてみた。

 小石が輝石に触れるか触れないか、というその瞬間。


 バチッ!


 鋭い音と共に、輝石から青白い電撃が迸った。

 電撃は小石を、一瞬にして黒い塵に変えてしまった。


「……にゃっ!(あぶねっ!)」


 俺は思わず飛びのいた。

 もしあれに触れていたら、俺の黒い毛皮もこんがりと丸焼きになっていただろう。

 やはり、ただの綺麗な飾りではなかった。

 あれは触れるもの全てを焼き尽くす、恐ろしい防衛システムなのだ。


「にゃーん(なるほどな。今度は、これか)」


 俺は再び、この試練の意図を理解した。

 最初の試練が風魔法の精密なコントロール能力を試すものだったとすれば、今度の試練はおそらく……。


 俺は右の前足をゆっくりと上げた。

 そして爪の先に意識を集中させる。

 体内の魔力を炎のエネルギーへと変換し、爪先へと送り込む。

 フレイムアローの準備だ。


 だが、今求められているのは、岩をも砕くあの最大出力のフレイムアローではない。

 もっと小さく、もっと弱く、そしてもっと精密な一撃。


 俺の狙いは浮遊する輝石の、さらにその間。

 輝石と輝石の間にあるほんのわずかな隙間を、正確に撃ち抜くのだ。

 もし少しでも狙いがずれれば輝石に命中し、電撃の餌食となるだろう。


 これは炎の魔法の、精密射撃訓練。

 俺の集中力と魔力コントロールの全てが試される。


「にゃあ……(面白い。やってやろうじゃないか)」


 俺は深く息を吸い、精神を統一する。

 瞳がレンズの役割を果たす。

 爪の先が小さなオレンジ色の光を灯す。

 魔力の出力を、針の穴を通すように繊細に調整する。


 シュッ。


 放たれたのは、もはや矢と呼ぶのもおこがましい一本の熱線。

 それは夜の闇を縫う赤い糸のように、浮遊する輝石の間を吸い込まれるように通り抜けていった。

 そして、何にも触れることなく向こうの壁にぽつんと小さな焦げ跡だけを残して消えた。


「……にゃっし!(よし!)」


 俺は小さくガッツポーズをした。

 いける。

 これなら、いけるぞ。


 俺はその場で精密射撃の練習を始めた。

 動く輝石の未来位置を予測し、そのさらに先の隙間を狙う。

 複数の輝石が複雑に交差する、ほんの一瞬のタイミングを捉える。

 時にはわざと壁に当てて、その跳弾で別の角度にある隙間を狙うなんていう、曲芸じみたことまで試してみた。


 最初は数回に一度しか成功しなかった精密射撃が、練習を重ねるうちに次第にその成功率を上げていく。

 やがて俺は、百発百中でどんな複雑な隙間でも正確に撃ち抜くことができるようになっていた。

 俺のフレイムアローはもはや、ただの破壊魔法ではない。

 狙撃という新たな技術を手に入れたのだ。


 満足のいくまで練習を終えた俺は、いよいよこの電撃地帯へと足を踏み入れた。

 もちろん、ただ歩いて通るわけではない。

 風魔法と、精密射撃。

 この二つを組み合わせるのだ。


 俺は風魔法で部屋の中を高速で飛び回る。

 そして、行く手を阻む輝石をすれ違いざまに、精密なフレイムアローで撃ち落としていく。

 いや、撃ち落とすというのは正確ではない。

 俺が狙うのは輝石そのものではない。

 輝石を空中に浮かべている、魔力の供給源。

 輝石の中心にある、ほんの小さな光の点。


 そこを正確に撃ち抜くのだ。

 すると輝石は電撃を発することなく光を失い、ただの石ころとなって地面に落下していく。


 俺は舞うように、踊るように部屋の中を駆け巡った。

 黒い疾風が赤い閃光を伴って、青白い星々の間を縫うようにして通り過ぎていく。

 それは我ながら、見とれるほどに美しい光景だった。


 やがて部屋の中に浮遊していた全ての輝石がその光を失い、床に転がった。

 俺は部屋の真ん中に、音もなく着地する。


 第二の試練、クリア。

 俺は自分の新たな力に確かな手応えを感じていた。

 風と炎のコンビネーション。

 俺の戦術の幅は、この試練によってまた一つ大きく広がったのだ。



 最後の試練は、静寂の中にあった。

 第三の広間は今までの二つの広間よりもずっと小さかった。

 教室一つ分ほどの、こぢんまりとした空間。

 壁や天井には相変わらず美しい輝石が生えているが、その数はぐっと少ない。

 そして、この部屋には何の仕掛けも罠も見当たらなかった。

 ただ、部屋の中央に一つの石舞台がぽつんと置かれているだけ。

 その石舞台の上には、何かが静かに鎮座していた。


 それは一冊の古びた本だった。

 表紙は革でできているのか、黒ずんで所々がひび割れている。

 装飾も何もない。

 ただそこにあるというだけで、周囲の空気をぴりりと引き締めるような不思議な存在感を放っていた。


「にゃあ……(本? これが最後の試練なのか?)」


 俺はいぶかしげに、その本に近づいていく。

 罠の気配はない。魔力の反応もほとんど感じられない。

 ただの古い本。

 そうとしか思えなかった。


 俺は石舞台の上にひらりと飛び乗った。

 そして、その本を前足でそっと開いてみようと試みる。

 だが、その瞬間。


 ぼうっと、本から淡い光が放たれた。

 そして、俺の脳内に直接声が流れ込んできた。

 それは男でも女でもない、どこまでも中性的な穏やかな声だった。


『よくぞ、ここまでたどり着きました、挑戦者よ』


「にゃっ!?」


 俺は驚いて飛びのいた。

 この声は猫神とは違う。もっと落ち着いた知的な響き。


『我は、この洞窟の番人。そしてこの魔道書の意思そのもの』


 魔道書の意思?

 本が喋っているというのか。

 ファンタジーの世界は俺の常識を、いとも簡単に何度も超えてくる。


『先の二つの試練、見事でした。貴公は力だけでなく、それを制御する優れた技術と冷静な判断力を持っている』


「にゃ、にゃあ(そ、それはどうも……)」


 褒められて悪い気はしない。

 俺は少し照れながらそう返した。


『だが、最後の試練はそれだけでは乗り越えられません。最後の試練に必要なのは力でも技術でもない。自らの内面と向き合う、強い意志です』


 内面と向き合う?

 一体どういうことだ?


『貴公の魔力は確かに強大です。しかしそれはあまりにも荒々しく、多くの不純物を含んでいる』


 不純物?


『怒り、焦り、慢心、そして迷い。そういった負の感情が、貴公の魔力の流れを澱ませているのです。そのままでは貴公は、いずれ自らの力に呑まれることになるでしょう』


 魔道書の言葉は、俺の心の一番痛いところを的確に突いてきた。

 確かに思い当たる節はある。

 ゴブリンを殲滅した時のあの高揚感。

 風魔法を習得した時のあの万能感。

 俺は力を手に入れたことで、知らず知らずのうちに傲慢になっていたのかもしれない。


『この試練は、貴公の魔力からその不純物を取り除き、純粋な力へと昇華させるためのものです。さあ、心の準備はよろしいか?』


 俺はごくりと喉を鳴らした。

 正直、怖い。

 自分の内面と向き合うというのは、どんな魔物と戦うよりも恐ろしいことのように思えた。

 だが、ここで逃げるわけにはいかない。

 俺はもっと強くならなければならないのだ。


「にゃあ(……ああ、準備はできている)」


 俺が覚悟を決めてそう答えると、魔道書は満足そうにその光を一層強くした。


『よろしい。では、始めましょう』


 次の瞬間。

 魔道書から放たれた光が、俺の身体を完全に包み込んだ。

 視界が真っ白になる。

 そして、俺の意識は身体の内側、そのさらに奥深くへと引きずり込まれていった。



 そこは、何もない真っ暗な空間だった。

 俺は、その空間にただ一人ぽつんと浮かんでいた。

 自分の身体の感覚もない。

 ただ、意識だけがそこにあった。


 ここは俺の精神世界というやつか。

 すると、目の前の闇の中にぼんやりと何かが浮かび上がってきた。


 それは、俺自身の姿だった。

 黒猫の姿をした、もう一人の俺。

 だが、その姿はどこかおどろおどろしい。

 瞳は憎悪に燃える、濁った赤色に染まっている。

 全身からは黒い靄のようなものが立ち上っていた。


『……チッ。ようやく俺の出番かよ』


 もう一人の俺が、忌々しげにそう吐き捨てた。

 声は俺と同じ。だが、その響きはどこまでも荒々しく、破壊衝動に満ちている。


 こいつが、俺の魔力に含まれる不純物。

 俺の負の感情の集合体。


『いつまでも綺麗事ばかり並べやがって。力はただ振るえばいいんだよ。邪魔な奴は皆焼き尽くしてしまえばいい。そうだろ?』


 黒い俺が、俺を挑発するように笑う。

 その言葉は甘い毒のように、俺の心に染み込もうとしてくる。

 確かにそっちの方が楽かもしれない。

 何も考えず、ただ本能のままに力を振るう。

 それはある意味で、とても魅力的な生き方だ。


 だが。


「にゃあ(……断る)」


 俺はきっぱりとそう答えた。


「にゃーん(力はただ振るうだけじゃ意味がない。何を守りたいか、何を成し遂げたいか。その意志があって初めて、力は本当の意味を持つんだ)」


『……ハッ! 青臭いことを。そんな考えで、この理不尽な世界を生き抜いていけると思ってるのか?』


「にゃあ(ああ、生き抜いてみせるさ。俺はもう一人じゃない。俺には守るべき大切な相棒がいるからな)」


 俺の脳裏に、チカのあの無邪気な笑顔が浮かんだ。

 あいつのためなら俺はどんな困難にだって立ち向かえる。

 この力はあいつを守るために使うのだ。


 俺がそう強く念じた、その瞬間。

 俺の身体から温かい金色の光が溢れ出した。

 その光は黒い俺が放つ、不吉な黒い靄を優しく浄化していく。


『ぐ……ぐぐ……! こ、この光は……!』


 黒い俺が苦しげに呻く。


「にゃあ(お前は俺の一部だ。だから消し去ったりはしない。だが、お前に俺の主導権は渡さない。お前は俺の力の一部として、俺の意志に従ってもらう)」


 俺は黒い俺に向かって、前足を差し出した。

 金色の光が黒い俺を完全に包み込む。


『……ちっ。覚えてやがれ……』


 黒い俺は最後にそう言い残すと、光の中に溶けるように消えていった。

 いや、消えたのではない。

 俺の中に還ってきたのだ。

 制御された力として。


 ふっと、俺の意識が現実世界へと引き戻された。


 気がつくと俺は元の広間に、石舞台の上に立っていた。

 目の前の魔道書は、その光を失い、ただの古い本に戻っている。


 だが、俺の中では確かな変化が起きていた。

 体内の魔力が今までとは比べ物にならないほど、澄み渡っているのが分かった。

 澱みがなく、どこまでも滑らかに流れていく。

 これが純化された魔力。


 俺は試しに右の前足を上げた。

 そして爪の先に炎の魔力を集中させる。

 今までと同じフレイムアロー。

 だが、その輝きは全く違っていた。


 今までの荒々しい真紅の炎ではない。

 もっと静かで、もっと美しい黄金色の炎。

 その小さな炎の中に恐ろしいほどのエネルギーが凝縮されているのが感じられた。


 最後の試練、クリア。

 俺は力だけでなく、その質をも新たな段階へと引き上げることに成功したのだ。


 広間の奥、今まで閉ざされていた扉が、ごごごと音を立ててゆっくりと開き始めた。

 その向こうには、洞窟の出口の眩い光が見えている。


 俺は石舞台から飛び降りると、俺の帰りを心配そうに待っていたチカの元へと駆け寄った。


「にゃあ(待たせたな、チカ。行こうぜ、俺たちの次のステージへ)」


「ちきゅー!」


 チカを肩に乗せ、俺は光の向こう側へと歩き出した。


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