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第六話

 攻撃の『炎』と、機動の『風』。

 この二つの魔法を手に入れたことで、俺の異世界サバイバルライフは、もはやサバイバルとは呼べないほどに安定していた。拠点である巨大な木の洞には、ゴブリンから奪った保存食がまだ残っているし、万が一食料が尽きても、今の俺なら森の獲物を狩るのは造作もないことだった。

 風の魔法で強化された脚力で木々の間を駆け抜け、高所から獲物を発見。そして、必殺の『フレイムアロー』で遠距離から一撃。完璧な狩りの方程式だ。この森の外周部において、もはや俺の敵はいない。そう断言できるだけの力が、今の俺にはあった。


「にゃーん(あー、平和だー)」


 俺は、拠点の大木の、一番日当たりの良い枝の上で大あくびをしながら寝そべっていた。柔らかな木漏れ日が黒い毛皮を温め、心地よい眠気を誘う。隣では、相棒のチカが毛玉のように丸くなり、「ちきゅ、ちきゅ」と可愛らしい寝息を立てていた。その全身から放たれる淡い光が、まるで呼吸するように、ゆっくりと明滅している。

 なんと平和な光景だろうか。ゴブリンの群れを殲滅し、風魔法を習得してから、もう一週間ほどが経つ。その間、危険な魔物との遭遇は一度もなかった。快適な寝床、十分な食料、そして可愛い相棒。これ以上、何を望むというのか。


 ……いや、ある。

 望むものは、あるのだ。


「にゃー……(退屈だー……)」


 そう、刺激が足りない。

 人間だった頃は、毎日レポートやバイトに追われ、のんびりとした生活に憧れていた。だが、いざその生活が現実のものとなると、どうにも物足りなさを感じてしまう。なんと現金なものか。いや、猫だから猫金か? どうでもいいか。

 もっと、こう、胸が躍るような、手に汗握るような展開はないものか。せっかく手に入れたこの力を、試してみたくてうずうずしている自分がいるのだ。


「ちきゅ?(ん……どうしたの?)」


 俺の独り言で目を覚ましたチカが、眠そうな目でこちらを見上げてくる。


「にゃあ、にゃーん!(いや、ちょっとな。チカ、俺たちはもう、この森の外周部を卒業するべきだと思うんだ)」


「チカッ!?(卒業!?)」


 チカは驚いたように飛び起きた。全身の光が一気に強くなる。


「にゃあ(ああ。このままここにいても、これ以上の成長は望めない。俺たちは、もっと強い敵と戦い、もっと強くなるべきなんだ。それに、見てみたいとは思わないか? この森の、もっと奥深くを)」


 俺は、森の深部へと視線を向けた。

 外周部とは明らかに違う、濃密な魔力の気配が、そこからは漂ってきている。木々の密集度も高く、昼間だというのに薄暗い。未知なる領域。そこには、どんな魔物がいて、どんな景色が広がっているのか。

 考えただけで、冒険心がくすぐられる。ゲームで言えば、次のステージへ進む時のような、あのわくわくする感覚だ。


「ちきゅ……ちきゅ!(行く! どこへでも付いていくよ!)」


 チカは、力強く一声鳴くと、俺の肩にぴょんと飛び乗ってきた。その小さな身体から、絶対的な信頼が伝わってくる。最高の相棒だ。


「にゃはは!(よし、決まりだ! 目指すは森の中層域! ちょっとした冒険の始まりだぜ!)」


 俺は高らかに宣言し、枝から地面へと軽やかに飛び降りた。

 こうして、俺とチカの新たな挑戦が始まった。この先に、どんな出会いと戦いが待っているのか。この時の俺は、まだ知る由もなかった。



 森の中層域は、外周部とは全くの別世界だった。

 まず、空気が違う。外周部の空気が澄んだ湧き水だとしたら、中層域の空気は濃厚な果実酒のようだ。魔力が、大気中に飽和しているのが肌で感じられる。全身の毛が、ぴりぴりと静電気を帯びたように逆立つ感覚。この環境にいるだけで、体内の魔力が活性化していくのが分かった。


「にゃあ……(こりゃ、すごいな……)」


 俺は、感嘆の声を漏らしながら、慎重に歩を進める。

 周囲の植物も、見たことがないものばかりだ。不気味な紫色に発光するシダ植物、人の背丈ほどもある巨大なキノコ、獲物が近づくと触手を伸ばす食虫植物。一歩足を踏み外せば、何が起こるか分からない。


「チカ、警戒を怠るなよ。ここからは、ゴブリンみたいな雑魚は出てこないはずだ」


「チカッ!(了解!)」


 俺の肩に乗ったチカが、頼もしく返事をする。その身体から放たれる光が、周囲の闇を照らし出し、俺たちの視界を確保してくれていた。

 俺は、風魔法を常に全身に薄く纏わせ、いつでも最高速度で動けるように準備していた。聴覚と嗅覚も最大限に研ぎ澄まし、あらゆる方向からの奇襲に備える。

 緊張感で、喉がからからに乾く。だが、このひりつくような感覚が、退屈していた心には心地よかった。


 しばらく進んだ、その時だった。

 俺は、ぴたりと足を止めた。

 肩の上のチカも、同時に息を止めるのが分かった。


 匂いがする。

 獣の匂いだ。

 それも、ただの獣ではない。統率の取れた、群れの匂い。

 そして、その匂いは、俺たちを完全に取り囲んでいた。


 いつの間に……。

 風魔法による高速移動中だったにもかかわらず、全く気配を感じさせずに、これだけの包囲網を敷くとは。

 相手は、相当な手練れだ。


 ガサッ、と。

 周囲の茂みが、一斉に揺れた。

 そして、その中から、ゆっくりと姿を現したのは、狼だった。


 一匹、二匹、三匹……ざっと見ただけでも、十匹以上はいる。

 そのどれもが、俺が知っている狼よりも一回り以上大きく、筋肉質で、しなやかな身体つきをしていた。毛並みは、森の木々の色に溶け込むような、深い緑がかった灰色。

 だが、何よりも俺の注意を引いたのは、その目だった。

 飢えた獣の目ではない。冷徹な狩人の目でもない。そこにあるのは、驚くほどに澄んだ、理知的な光。彼らは、俺という存在を、冷静に観察し、分析しているようだった。


 俺の脳内に、情報がポップアップする。


 【フォレストウルフ】。森の生態系のバランスを保つ『番人』と呼ばれる狼型の魔物。高い知能と組織力を持ち、無秩序な侵入者や、森を荒らす者を排除する。


 ……森の、番人。

 なるほど、こいつらは、ただの魔物じゃない。この森の秩序を守る、一種のガーディアンのような存在なのか。

 だとしたら、話は厄介だ。俺は、彼らにとっては、縄張りを荒らす『侵入者』に他ならない。


 狼たちは、俺たちを遠巻きに囲んだまま、動こうとしない。ただ、じっとこちらを見つめている。その無言の圧力が、じりじりと俺の神経をすり減らしていく。

 どうする? この包囲網を、強行突破するか?

 いや、無謀だ。一匹一匹の実力もさることながら、あの統率の取れた動き。下手に動けば、一瞬で連携攻撃の餌食になるだろう。


 ならば、どうする。

 俺が思考を巡らせていると、狼の群れが、すっと左右に分かれ、道を開けた。

 そして、その道の奥から、一匹の狼が、ゆっくりと姿を現した。


 他の狼たちよりも、さらに一回り大きな体躯。

 毛並みは、月光を浴びた雪原のように、美しい白銀色に輝いている。額には、黒い菱形の紋様があり、それが王者の風格を一層際立たせていた。

 だが、何よりも圧倒的なのは、その存在感。ただそこにいるだけで、周囲の空気が張り詰め、森の全ての音が、ぴたりと止んだかのような錯覚に陥る。


 こいつが、この群れのリーダーか。

 鑑定スキルが、新たな情報を表示する。


 【シルバーフェンリル】。フォレストウルフの群れを率いるアルファ個体。極めて高い知能と戦闘能力を持ち、風の魔力を自在に操る。森の番人の長として、古くからこの森の秩序を守護している。


 シルバーフェンリル。

 伝説上の魔狼の名を冠する、この群れの長。

 その狼は、俺の真正面で足を止めると、その金色の瞳で、俺をまっすぐに見据えた。その視線は、まるで俺の魂の奥底まで見透かしているかのようだ。


 グルルルル……。


 低く、地の底から響くような唸り声が、シルバーフェンリルの喉から漏れた。

 それは、威嚇の唸り声とは、少し違う。

 何かを問いかけてくるような、意思を持った音。


 俺は、猫の身体の本能が発する恐怖を、人間の理性で必死に抑えつけながら、その金色の瞳を睨み返した。

 ここで、目を逸らしてはいけない。

 逸らした瞬間に、俺は『弱者』だと見なされ、問答無用で排除されるだろう。

 俺は、お前たちの敵ではない。だが、お前たちに屈するつもりもない。

 その意思を、視線に込める。


 にらみ合いが、続く。

 一秒が、一時間にも感じられるような、濃密な時間。

 肩の上のチカが、俺の毛をぎゅっと掴んでいるのが分かる。


 やがて、シルバーフェンリルは、ふっと唸り声を止めた。

 そして、一歩、前に出た。


 他の狼たちは、動かない。

 これは……どういう意味だ?


 シルバーフェンリルは、俺から数メートル離れた場所で、再び足を止めた。

 そして、その場で、ゆっくりと身体を低く伏せる。

 それは、これから獲物に飛びかかろうとする、狩りの体勢。


 俺は、瞬時にその意図を理解した。


 一対一。

 こいつは、俺に、一対一の決闘を申し込んでいるのだ。

 群れの力ではなく、個としての俺の力を、試そうとしている。

 俺が、この森の中層域に足を踏み入れるに値する存在かどうかを、その牙と爪で、見極めようとしているのだ。


 面白い。

 面白いじゃないか。

 言葉は通じなくとも、誇り高い戦士の魂は、確かに伝わってきた。


「にゃあ……(チカ、降りてろ。こいつは、俺がやる)」


 俺は、静かにそう告げた。

 チカは、一瞬、ためらうような素振りを見せたが、俺の決意を悟ったのか、こくりと頷き、音もなく地面に降りると、後方の木の陰へと下がっていった。


 俺は、シルバーフェンリルと、一対一で向き合う。

 周囲を囲むフォレストウルフたちが、まるで円形の闘技場の観客のように、俺たちの戦いを見守っている。


「にゃああああ……(いいだろう。その挑戦、受けて立つ!)」


 俺は、全身に風の魔力を纏わせながら、低く身構えた。

 黒猫の身体から、闘気が立ち上る。


 シルバーフェンリルは、その金色の瞳を、満足そうに細めた。


 森の静寂を破り、戦いの火蓋が、今、切って落とされた。



 先に動いたのは、シルバーフェンリルだった。

 予備動作は、一切なかった。伏せていた身体が、まるで圧縮されたバネが解放されたかのように、爆発的な瞬発力で俺に襲いかかってきた。

 速い!

 チカの動きに慣れていたはずの俺でさえ、目で追うのがやっとの速度。白い閃光が、一直線に俺の喉元を狙ってくる。


「にゃっ!」


 俺は、咄嗟に風魔法の出力を上げ、真横に跳んで回避した。

 ほんの数瞬前まで俺がいた場所を、シルバーフェンリルの鋭い牙が空を切る。風圧だけで、俺の毛がざわついた。もし反応が少しでも遅れていたら、今頃、俺の首は胴体から離れていたかもしれない。


 だが、相手の攻撃はそれで終わりではなかった。

 初撃を外したシルバーフェンリルは、空中で体勢を崩すことなく、しなやかに身を翻すと、今度は鞭のような尻尾で俺の身体を薙ぎ払ってきた。

 これも、風の魔力による空中姿勢制御か!


 俺は、地面を蹴って、後方へ大きく跳躍する。

 バシッ! という鈍い音と共に、尻尾の一撃が地面を叩き、土をえぐった。

 着地と同時に、俺はすぐさま次の行動に移る。

 守ってばかりでは、ジリ貧になるだけだ。


「喰らえ!」


 俺は、体勢を立て直したシルバーフェンリルに向かって、牽制のフレイムアローを放った。

 真紅の光の矢が、一直線にその白い巨体へと突き進む。

 しかし、シルバーフェンリルは、慌てる素振りも見せない。

 ただ、ひらりと、まるで舞うように身をかわしただけで、フレイムアローは空しく背後の木に命中し、幹を黒く焦がした。


「にゃろー……(やるな……!)」


 俺は、内心で舌を巻いた。

 俺のフレイムアローを、あれほど余裕でかわす相手は初めてだ。

 ただ速いだけじゃない。俺の攻撃の軌道を、完全に見切っている。


 ならば、これならどうだ!

 俺は、風魔法を駆使して、森の中を縦横無尽に駆け巡り始めた。

 木の幹を駆け上がり、枝から枝へと飛び移り、相手の死角からフレイムアローを放つ。三次元的な機動で、相手を翻弄する作戦だ。


 シュバッ! ドシュッ!

 何発もの炎の矢が、シルバーフェンリルに襲いかかる。

 だが、その全てが、紙一重でかわされてしまう。

 シルバーフェンリルは、俺の動きに合わせて、常に最適な位置取りをしている。まるで、俺の次の動きが、全てお見通しであるかのように。


 まずい。

 このままでは、俺の魔力が先に尽きてしまう。

 フレイムアローは、強力だが、燃費が悪いのだ。


 俺は、一旦、距離を取るために、一番高い木の枝へと飛び移った。

 そして、息を整えながら、眼下の敵を観察する。

 シルバーフェンリルは、俺を追ってくる様子はない。ただ、静かに、俺が次にどう動くかを見定めているようだった。

 その金色の瞳は、どこまでも冷静で、底が知れない。


 単純な力比べでは、勝てない。

 スピードでも、おそらく互角か、それ以上。

 遠距離攻撃は、見切られている。

 どうすれば、あの鉄壁の防御を崩せる?


 俺は、高速で思考を回転させる。

 ゲームの攻略法を探すように、あらゆる可能性をシミュレートする。

 地形を利用する? いや、この開けた場所では、あまり有利に働かない。

 チカの援護を頼むか? いや、これは俺とあいつの一対一の勝負だ。それは、この誇り高い相手に対する侮辱になる。


 何か、奴の意表を突くような、一撃。

 俺だけの、オリジナルの戦術。


 その時、俺の脳裏に、あるアイデアが閃いた。

 炎と、風。

 俺が持つ、二つの力。

 今までは、これらを別々に使っていた。

 炎は攻撃に、風は機動に。

 だが、もし、この二つを、組み合わせることができたなら……?


 例えば、フレイムアローの軌道を、風で無理やり曲げる。

 あるいは、風で相手の動きを封じ、そこに必殺のフレイムアローを叩き込む。


 ……いけるかもしれない。

 いや、これしかない。

 ぶっつけ本番の、大博打だ。だが、このままでは負けるだけだ。やる価値は、十分にある。


 俺は、覚悟を決めた。

 枝の上で、深く息を吸い、魔力を練り上げる。

 右の前足には、炎の魔力を。

 左の前足には、風の魔力を。

 二つの異なる属性の魔力を、同時に、しかも別々にコントロールする。

 それは、今までやったことのない、極めて高度な魔力操作だった。


 脳が、沸騰しそうだ。

 全身の神経が、悲鳴を上げている。

 右手の爪先が真紅に輝き、左手の周りでは小さなつむじ風が渦を巻き始めた。


 シルバーフェンリルは、俺の異変に気づいたのか、その金色の瞳を、わずかに見開いた。

 好機は、一瞬。


 俺は、枝から、まっすぐにシルバーフェンリルに向かって飛びかかった。

 空中、俺はまず、右前足を振りかぶる。


「まずは、こいつだ!」


 狙いは、相手の顔面。

 フレイムアロー、発射!


 真紅の光の矢が、シルバーフェンリルに迫る。

 シルバーフェンリルは、今までと同じように、それを最小限の動きで、右にかわそうとする。

 その動きを、俺は読んでいた。


「そこだ!」


 フレイムアローを放った直後、俺は、左前足を、横薙ぎに振るった。

 そこから、圧縮された風の刃が、不可視の斬撃となって放たれる。

 その名も、『ウィンドカッター』!


 シルバーフェンリルの意識は、完全にフレイムアローに向いていた。

 まさか、その直後に、別の攻撃が、全く違う角度から飛んでくるとは、予測していなかっただろう。


 風の刃は、フレイムアローの軌道を変えることはできない。

 だが、フレイムアローの進路のすぐ横を、猛烈な速度で通過する。

 その結果、何が起こるか。


 フレイムアローの周囲の空気が、風の刃によって、一瞬だけ、真空状態になる。

 そして、その真空地帯に、フレイムアローが、吸い寄せられるように、軌道を、ぐにゃりと曲げたのだ!


 曲がる、火の玉。

 変化球。

 カーブするフレイムアローだ!


「グッ!?」


 初めて、シルバーフェンリルから、驚きの声が漏れた。

 回避しようとした方向から、あり得ない軌道で迫ってくる炎の矢。

 さすがのシルバーフェンリルも、これには完全に対応できなかった。


 咄嗟に身を翻したが、間に合わない。

 フレイムアローは、その美しい白銀の毛皮の、右前脚を掠めた。


 ジュッ! という、肉の焼ける音。

 白い毛が、一瞬で黒く焦げ付いた。


「グルオオオオオオッ!」


 シルバーフェンリルが、苦痛の雄叫びを上げた。

 致命傷ではない。だが、確かな一撃を、俺は与えることができたのだ。


 俺は、着地と同時に、すぐさま距離を取る。

 シルバーフェンリルは、焦げ付いた右前脚をかばいながら、憎悪と、そして、それ以上の賞賛が入り混じったような目で、俺を睨みつけていた。


 勝負は、まだ終わっていない。

 だが、流れは、確実に俺の方に傾き始めていた。



 戦いの趨勢は、あの一撃で決まった。

 右前脚に傷を負ったシルバーフェンリルは、明らかに動きのキレが鈍っていた。自慢の神速も、今はもうない。俺は、その隙を見逃すほど甘くはなかった。

 風魔法で機動力を確保しつつ、変化球のフレイムアローで、じりじりと相手を追い詰めていく。シルバーフェンリルも必死に応戦し、風の刃を放ってくるが、今の俺には、その攻撃軌道が手に取るように読めた。


 そして、ついにその時が来た。

 俺が放った陽動のフレイムアローを避けるため、大きく跳躍したシルバーフェンリル。

 その着地地点を、俺は正確に予測していた。


「終わりだ!」


 俺は、残った魔力のほとんどを注ぎ込み、最大出力のフレイムアローを放った。

 それは、今までで一番太く、そして眩い、真紅の光条。

 着地の瞬間、体勢が不安定になる、その一瞬の隙を、完璧に捉えた一撃。


 シルバーフェンリルは、空中で、なすすべもなく、その炎の槍に貫かれた。

 いや、俺は、とどめを刺す寸前で、意識的に狙いをずらしていた。

 フレイムアローは、シルバーフェンリルの身体のすぐ横を通り過ぎ、背後の巨大な岩に命中した。


 ドゴオオオオオオオオン!


 耳をつんざくような轟音と共に、巨大な岩が、木っ端微塵に砕け散った。

 その爆風で、シルバーフェンリルの巨体は、木の葉のように吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。


 勝負、あり。


 俺は、もうもうと立ち上る土煙の中で、静かにそう確信した。

 土煙が晴れると、そこには、地面に倒れ伏し、ぐったりとしているシルバーフェンリルの姿があった。

 傷だらけで、美しい毛並みは汚れ、もはや立ち上がる力も残っていないようだった。

 だが、その金色の瞳だけは、まだ死んでいなかった。

 悔しさと、そして、どこか晴れやかな色が浮かんだその瞳で、俺のことを、じっと見つめている。


 周囲を囲んでいたフォレストウルフたちが、ざわめき始めた。

 リーダーが倒されたことに動揺し、何匹かが俺に向かって敵意の唸り声を上げる。


 だが、その時。


 ウォオオオオオオオオオオン……。


 倒れていたシルバーフェンリルが、一声、長く、そして威厳に満ちた遠吠えを発した。

 その声には、不思議な力があった。

 フォレストウルフたちの殺気だった空気が、すっと霧散していく。

 彼らは、その場で静かに頭を垂れ、リーダーの命令に従った。


 シルバーフェンリルは、ゆっくりと、震える足で立ち上がろうとする。

 だが、やはり力が入らないのか、再び崩れ落ちそうになった。

 俺は、無言で、そのそばに歩み寄った。


 そして、俺が人間だった頃なら、決してしなかったであろう行動に出た。

 シルバーフェンリルの、傷ついた右前脚を、ぺろり、と舐めたのだ。

 猫の唾液には、消毒効果があるという。本当かどうかは知らないが、今は、そうするべきだと、直感が告げていた。


 シルバーフェンリルは、驚いたように目を見開いたが、やがて、その金色の瞳を、穏やかに細めた。

 そして、俺の頭を、その大きな鼻先で、優しく、こつん、と突いた。


 言葉は、なかった。

 だが、俺たちの間には、確かに、何かが通じ合った。

 種族を超えた、戦士同士の、友情と、敬意。


 こうして、森の番人との、長く、そして激しい戦いは、幕を閉じた。

 俺は、この森の、新たな住人として、彼らに認められたのだ。



 戦いの後、シルバーフェンリルは、俺とチカを、群れの住処へと案内してくれた。

 そこは、巨大な岩をくり抜いて作られた、広大な洞窟だった。

 シルバーフェンリルは、俺に、戦利品として、光る苔を分けてくれた。それは、傷を癒す効果がある、貴重な薬草らしかった。

 俺は、その苔を、フレイムアローの反動で痛む自分の瞳と、シルバーフェンリルの脚に塗りつけた。ひんやりとした感触が、心地よかった。


 敵意が消えたフォレストウルフたちは、意外にも人懐っこく、好奇心旺盛に俺たちの周りに集まってきた。特に、チカの放つ光が珍しいのか、たくさんの狼たちが、その周りでじゃれついている。チカも、まんざらでもない様子だ。


 俺は、シルバーフェンリルの隣に座り、身振り手振り、いや、猫振り手振りで、いくつかの質問を試みた。

 俺が、森の、さらに奥深くへと進みたいという意思を示すと、シルバーフェンリルは、静かに頷いた。

 そして、洞窟の壁の一点を、鼻先で示した。


 そこには、古代の文字のようなもので、森の地図が描かれていた。

 シルバーフェンリルは、その地図の一点を、前足で指し示す。

 地図によれば、その場所は、この森のさらに深部。

 そこには、一つの絵が描かれていた。


 青白く、美しく輝く、巨大な結晶体の絵。


 シルバーフェンリルは、俺に向かって、「グルル……」と喉を鳴らした。

 その場所には、強大な力が眠っている。

 だが、そこへ至る道は、危険な試練に満ちている。

 お前に行く覚悟があるのなら、我々は止めはしない。

 その金色の瞳が、そう語っているようだった。


 水晶の洞窟。

 新たな目的地が、決まった。


 俺は、シルバーフェンリルに向かって、力強く頷いてみせた。


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