第五話
ゴブリンの襲撃を退けてから、数日が過ぎた。
俺とチカの生活は、劇的に、それはもう笑いがこみ上げてくるほどに改善された。拠点である巨大な木の洞には、ゴブリンどもから鹵獲した干し肉や木の実がたっぷりと備蓄されている。もはや食料の心配をする必要はない。空腹という、生命の根源的な恐怖から解放された精神的な余裕は、何物にも代えがたいものがあった。腹が減っては戦はできぬ、とはよく言ったものだ。腹が満たされれば、思考はどこまでもクリアになる。
「にゃーん(んー、この干し肉もなかなかだな。ちょっと筋が多いが、噛めば噛むほど味が出るタイプか)」
俺は、木の枝の上で優雅に寝そべりながら、戦利品の干し肉を吟味していた。チカはそんな俺の隣で、自分の身体から放つ淡い光を浴びながら、気持ちよさそうに丸くなっている。あいつは食事の必要がないらしく、俺が何かを食べている時は、いつも静かに隣にいてくれる。最高の相棒だ。
「ちきゅ?(美味しい?)」
俺の咀嚼音を聞きつけて顔を上げたチカが、小首を傾げて問いかけてくる。
「にゃあ、にゃーん(ああ、美味いぞ。お前も食ってみるか? まあ、食わないんだろうけどな)」
俺が干し肉の切れ端を差し出すと、チカはくんくんと匂いを嗅いだだけで、興味なさそうにぷいと顔をそむけた。その仕草がまた、なんとも愛らしい。この世界に来てからというもの、俺の情緒はすっかりこの光る毛玉によって安定させられている。ペットセラピーならぬ、相棒セラピーとでも言うべきか。
食料と安全な寝床。そして、信頼できる仲間。
サバイバル生活の基本要素は、これで全て満たされたと言っていい。これも全て、俺が編み出した炎の魔法『フレイムアロー』のおかげだ。あのゴブリンの群れをたった一人で、いや、一匹で殲滅できたという事実は、俺に絶対的な自信を与えてくれた。
フレイムアロー。それは、俺の爪先から放たれる、必殺の熱線。
威力は絶大。射程もそこそこある。そして何より、遠距離から一方的に攻撃できるというアドバンテージは計り知れない。ホーンラビットだろうが、ポイズン・サーペントだろうが、今の俺の敵ではないだろう。奴らが俺に気づく前に、その眉間を正確に撃ち抜いてやれる自信があった。
もはや、この森の外周部で俺に敵う者はいないのではないか。
そんな、ちょっとした万能感。全能感と言ってもいい。人間だった頃の、しがない大学生だった俺には到底味わうことのできなかった、圧倒的な力の感覚。それが、今の俺の心を支配していた。
「ふふふ……にゃはははは!」
思わず、笑い声が漏れる。もちろん、喉から出るのは「にゃはは」という間抜けな音なのだが、気分はすっかり魔王か何かだ。この森の新たな支配者、その名も暗黒破壊魔獣ノワール様、みたいな。ちょっと厨二病が過ぎるか。だが、それくらい浮かれても罰は当たらないだろう。
しかし、だ。
人間、いや、猫という生き物は、どうにも欲深いらしい。
安全が確保され、食うに困らなくなると、今度は別の欲求がむくむくと頭をもたげてくる。
退屈だ。
そう、退屈なのだ。
ゴブリンを撃退して以来、俺たちの拠点周辺には、危険な魔物がぱったりと姿を見せなくなった。おそらく、ゴブリンの死体を焼いた時の匂いや、俺の魔力の残滓を嗅ぎつけて、寄り付かなくなったのだろう。それはそれで結構なことなのだが、そうなると、途端にやることがなくなる。
食って、寝て、チカとじゃれ合う。それだけの毎日。
人間だった頃は、そんな悠々自適な生活に憧れたりもしたが、いざその立場になってみると、これが存外、退屈で仕方がない。刺激が足りないのだ。
「にゃー……(あー、ひまだー……)」
俺は、ごろりと枝の上で寝返りを打った。ふさふさの尻尾が、ぱたりぱたりと枝を叩く。
「ちきゅ?(どうしたの?)」
チカが心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。そのつぶらな瞳を見ていると、ふと、ある考えが閃いた。
「にゃあ!(そうだ、チカ! 狩りの訓練でもするか!)」
「チカッ!(やるやる!)」
俺の提案に、チカは待ってましたとばかりに飛び起きた。全身の光が、ぱあっと明るくなる。どうやら、チカも退屈していたらしい。
よし、決まりだ。ただの追いかけっこじゃない。これは、互いの能力を高めるための、実戦を想定した高度な訓練なのだ。そう、決して遊びではない。断じて。
「にゃーん!(よし、ルールは簡単だ。俺がお前を捕まえる。それだけだ! 本気で逃げろよ!)」
「チカァ!(望むところ!)」
俺は不敵に笑い、チカは挑戦的に一声鳴いた。
こうして、俺とチカの、真剣勝負(という名の追いかけっこ)の幕が上がったのである。
この時の俺は、まだ知らなかった。この何気ない遊びが、俺の慢心しきった鼻っ柱を、木っ端微塵に粉砕することになるということを。
◇
結論から言おう。
俺は、完敗した。
それも、手も足も出ない、一方的な、屈辱的なまでの完敗だった。
「はぁ……はぁ……にゃ、にゃろー……(ま、待てコラァ……!)」
俺は、地面にへたり込み、肩で息をしていた。全身の筋肉は悲鳴を上げ、肺は酸素を求めてひくついている。黒い毛皮は土と汗で汚れ、見るも無残な有様だ。
一方、俺の数メートル先では、当のチカが、ぴょんぴょんと楽しそうに跳ね回っていた。その様子は、まるで息が上がっていない。それどころか、まだ遊び足りないと言わんばかりに、「ちきゅ、ちきゅ!(早く早く!)」と俺を急かす始末。
信じられない。
俺は、猫だぞ。
俊敏性と瞬発力の塊、地上における機動力のスペシャリスト。それが、猫という生き物のはずだ。人間だった頃、猫のあのしなやかで素早い動きに、どれだけ憧れたことか。
その身体を手に入れた俺が、リスに毛が生えたような、あの光る毛玉に、全く追いつけないだと?
追いかけっこが始まって、すでに三十分は経過している。
その間、俺の爪がチカの身体にかすったことなど、ただの一度もない。
最初は、正直、なめていた。
いくら素早いとはいえ、所詮は小動物。猫の瞬発力をもってすれば、捕まえるなど造作もないこと。そう、高をくくっていた。
だが、現実は非情だった。
俺が地面を蹴って飛びかかろうとすると、チカはまるで未来予知でもしたかのように、ひょいと真横に跳んでかわす。
俺が左右から回り込もうとすれば、今度は垂直に、俺の頭上を飛び越えていく。その跳躍力は、冗談みたいに高い。
木の幹を駆け上がって追い詰めたかと思えば、枝から枝へと、まるで重力など存在しないかのように軽々と飛び移り、あっという間に俺を引き離してしまう。
速い。
とにかく、速すぎる。
直線的なスピードもさることながら、特に異常なのは、その初動の速さと、トップスピードからの急停止、そして急な方向転換だ。物理法則を無視しているとしか思えない、あり得ない動きの連続。まるで、CGアニメのキャラクターを見ているようだ。
「にゃ、にゃあああ!(もう一回だ! 今度こそ捕まえてやる!)」
俺は、なけなしのプライドを奮い立たせ、再び地面を蹴った。
今度は、フェイントをかける。右に行くと見せかけて、左へ。猫ならではの、しなやかな身のこなしだ。
チカは、一瞬、俺の動きに惑わされたように見えた。
いける!
俺は、勝利を確信し、前足を伸ばす。
あと数センチで、あの銀色の毛に届く。
その、瞬間だった。
チカの身体が、ブレた。
そう見えた。
次の瞬間、チカは俺の目の前から忽然と姿を消し、俺の背後に、ちょこんと着地していた。
「ちきゅ?(あれれ?)」
俺は、勢い余って数メートル先まで走り抜け、盛大にすっ転んだ。
顔面から地面に突っ込み、口の中に土の味が広がる。
「……にゃふぅ(……もう、やめだ)」
俺は、完全に戦意を喪失した。
これはもう、勝てない。次元が違う。
勝負にすらなっていない。
俺は、土まみれの顔を上げ、後ろにいるチカをじっとりと睨んだ。
当の本人は、きょとんとした顔で、相変わらずぴょんぴょん跳ねている。悪気は一切ないのだろう。だが、その無邪気さが、今の俺にはたまらなく腹立たしい。
フレイムアローを手に入れて、いい気になっていた自分が、ひどく恥ずかしくなった。
攻撃力だけが高くても、当たらなければ意味がない。そして、俺の機動力では、チカのような素早い相手には、攻撃を当てることすらできないだろう。
俺は、まだまだ未熟だったのだ。この森で生き抜くには、圧倒的に、何かが足りない。
それにしても、だ。
なぜ、チカはあんなに速いんだ?
身体の大きさや、足の長さから考えれば、本来、俺の方が速くて当然のはずだ。
何か、秘密があるに違いない。
俺は、敗北の悔しさをぐっとこらえ、今度は純粋な探求心で、チカの動きを観察することにした。
そうだ、ゲームのボスに勝てない時は、まずその行動パターンを分析するのが定石だ。
「にゃあ、にゃーん(チカ、もう一回、あっちまで走ってみてくれ。今度は、ゆっくりでいいからさ)」
俺が頼むと、チカは心得たとばかりに、「チカッ!」と一声鳴き、数メートル先の木に向かって駆け出した。
俺は、目を皿のようにして、その一挙手一投足を見逃すまいと集中する。
チカが、地面を蹴る。
その瞬間、俺は見た。
確かに、見たのだ。
チカの足元で、空気が、ほんのわずかに、陽炎のように揺らめいたのを。
そして、チカが方向転換をする時、その身体の進行方向とは逆の側面で、同じように空気が歪むのを。
あれは……なんだ?
ただの目の錯覚か?
いや、違う。何度見ても、チカが動く瞬間には、必ずあの空気の揺らめきが発生している。
まるで、見えない何かが、チカの身体を押したり、引いたりしているかのようだ。
その時、俺の脳内に、久しぶりにあのポップアップが表示された。
【ルミナ・スクワール】。光る毛を持つリスに似た小動物。高い知能を持ち、光を操る能力がある。
【追加情報】。無意識下で常に微弱な風の魔力を身体に纏い、身体能力を向上させている。特に、瞬発的な加速や、空中での姿勢制御にその能力を使用する。
……なんだと?
風の、魔力?
俺は、愕然とした。
こいつ、不正をしていたのか! いや、不正というか、ドーピングというか、とにかく、純粋な身体能力だけで動いていたわけではなかったのだ。
無意識に、風の魔法を使って、自分の身体を強化していたというのか。
なるほど。
道理で、物理法則を無視したような動きができるわけだ。
あれは、風の力で無理やり身体を動かしていたのだ。地面を蹴る力を風で増幅し、進行方向を変える時は風の力でブレーキと同時に横方向への推進力を得ていた。
とんでもないチート能力だ。
だが、同時に、俺の心に新たな希望の光が灯った。
そうだ。
チカにできるなら、俺にだって、できないはずがない。
俺の体内にも、魔力は存在する。現に、俺は火の魔法を使えるのだ。ならば、風の魔法だって、使えるはずだ。
これだ。
これが、俺に足りなかったものだ。
圧倒的な、機動力。
風の力を借りて、この猫の身体能力を、さらに上の次元へと引き上げる。
「にゃはは……にゃははははは!」
俺は、再び笑い出した。
今度は、自嘲の笑いではない。歓喜の笑いだ。
目の前に、新たな目標が、はっきりと見えた。
「ちきゅ?(大丈夫?)」
急に笑い出した俺を、チカが怪訝そうな顔で見ている。
「にゃーん!(大丈夫だ、チカ! 見てろよ、俺もすぐに、お前みたいに飛べるようになってやるからな!)」
俺は、高らかに宣言した。
こうして、俺の新たな挑戦が始まった。
目指すは、風との一体化。風を制する者は、この森を制するのだ。
◇
言うは易く行うは難し。
昔の偉い人は、本当に良いことを言ったものだ。
俺の風魔法習得への道は、想像を絶するほどに、前途多難なものだった。
「うおおおお……風よ、我が身に集え! そして俺を、疾風の化身と成せ!」
俺は、すっかり手慣れた様子で魔力を練り上げ、風のイメージを脳内に描く。
フレイムアローの時とは違う。炎のように、一点に集束させてはダメだ。もっと広く、薄く、全身を包み込むようなイメージ。そうだ、まるで、全身タイツを着るような感じで……。
びゅおおおおおおおっ!
「にぎゃあああああああああ!?」
次の瞬間、俺の身体は、自らが巻き起こした突風によって、木の葉のように宙を舞った。
ぐるぐると回転しながら、数メートル先の木の幹に、背中から激突。
ごふっ、と蛙が潰れたような声が出た。
ずりずりと幹を滑り落ち、地面にへたり込む。全身が、あり得ないくらい痛い。
「ち、ちきゅー!(だ、大丈夫ー!?)」
チカが、慌てて駆け寄ってくる。
どうやら、魔力のコントロールをミスったらしい。全身に「纏わせる」つもりが、真横に「放出」してしまったようだ。自爆。あまりにも、情けない。
「にゃ、にゃあ……(だ、大丈夫だ……問題ない……作戦通りだ……)」
俺は、強がりを言って見せたが、声は情けなく震えていた。
くそ、難しい。
炎の魔法は、虫眼鏡という分かりやすいイメージがあったから、比較的簡単に習得できた。だが、風には、決まった形がない。それゆえに、イメージを固定するのが非常に難しいのだ。
だが、ここで諦めるわけにはいかない。
俺は、再び挑戦する。
今度は、もっと慎重に。
魔力の出力を、最小限に抑える。
そよ風。肌を優しく撫でる、心地よい風をイメージする。
……よし、今度はうまくいった。
俺の身体の周りを、微かな風が、渦を巻くように循環しているのが感じられる。
これだ。この感覚だ。
俺は、ゆっくりと一歩、足を踏み出した。
その瞬間。
つるんっ!
「にゃわっ!?」
足元が、まるで凍った道の上を歩いているかのように、滑った。
俺は、体勢を立て直そうと必死に手足、いや、前足と後ろ足を動かすが、全くグリップが効かない。
そのまま、俺の身体は、くるくるとスピンしながら、あらぬ方向へと滑走していく。
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃ!?」
止まらない! 誰か止めてくれ!
俺は、フィギュアスケーターもびっくりの華麗なトリプルアクセル(もちろん意図していない)を決めながら、先ほどとは別の木の幹に、今度は顔面から激突した。
ぐえっ。
鼻先に、ツーンと痛みが走る。視界には、無数の星が瞬いていた。
どうやら、今度は魔力を足元だけに集中させすぎてしまったらしい。足の裏と地面の間に、空気の層ができてしまい、摩擦がゼロになってしまったのだ。エアホッケーのパック状態。なるほど、理論は分かる。分かるが、身体がついていかない。
その後も、俺の珍妙な実験は続いた。
高くジャンプしようとして、足元に下向きの風を噴射。タイミングが早すぎて、地面に頭から叩きつけられる。
走っている最中に、背中から追い風を吹かせて加速しようとする。出力が強すぎて、前のめりに派手に転倒。
木の枝に飛び移ろうとして、横風を吹かせる。角度を間違えて、あらぬ方向へ飛んでいき、茂みの中に突っ込む。
俺が失敗を繰り返すたびに、チカは「ちきゅー!」「ちかー!」と心配そうな声を上げる。その優しさが、今は少しだけ、心に染みる。いや、痛い。
もう、何十回失敗しただろうか。
俺の身体は、すでにボロボロだった。打撲と擦り傷だらけだ。黒い毛皮のおかげで、見た目には分かりにくいのが、せめてもの救いか。
だが、俺は諦めなかった。
失敗は、成功の母だ。エジソンもそう言っていた。
俺は、数々の失敗の中から、少しずつ、風をコントロールするためのコツを掴み始めていた。
問題は、イメージの仕方だ。
風を「吹かせる」というイメージでは、どうしても出力が大きくなりすぎる。
そうじゃない。
もっと、身体の一部のように、馴染ませる感覚。
そうだ。
服だ。
風でできた、見えない服を、身体の周りにぴったりと着込むイメージ。
あるいは、翼。背中に、風でできた翼を生やすイメージ。
俺は、もう一度、魔力を練り上げた。
今までの、力任せのコントロールではない。もっと、繊細に、丁寧に。
魔力を、糸のように紡ぎ出し、それを身体の表面に、編み込んでいくような感覚。
すると、どうだ。
今までとは、全く違う感覚が、俺の身体を包み込んだ。
風が、俺の動きに、ぴったりと寄り添っている。俺が右に行こうとすれば、風は背中を押し、左に行こうとすれば、側面から支えてくれる。
まるで、オーダーメイドのパワースーツを着ているかのようだ。
これだ!
ついに、掴んだぞ!
俺は、歓喜の声を上げそうになるのをぐっとこらえ、まずは、ゆっくりと歩き出すことから試してみた。
一歩、踏み出す。
軽い。身体が、羽のように軽い。
地面を蹴る力が、風によって増幅され、普段の倍以上の推進力を生み出している。
俺は、徐々にスピードを上げていく。
歩行から、駆け足へ。
そして、全力疾走へ。
びゅんっ!
景色が、後ろへ飛んでいく。
今までとは、比べ物にならないスピード。チカの動きを、初めて目で追うことができた時のような、あの感覚だ。
すごい。
これが、風の力。
俺は、走りながら、小さな岩を飛び越えた。
いつもなら、せいぜい一メートルほどの跳躍。
だが、風の力を借りた今の俺は、違った。
ふわり、と。
信じられないほど、身体が宙に浮く。
滞空時間が、異常に長い。
俺は、三メートル以上も先まで飛び、音もなく、軽やかに着地した。
「にゃ、にゃあああああ!(やった! やったぞ、チカ!)」
俺は、ついに喜びの声を上げた。
チカも、俺の成功を理解したのか、「チカチカーッ!」と祝福するように、一声高く鳴いた。その身体の光が、今までで一番、強く輝いているように見えた。
俺は、もう止まらなかった。
森の中を、風のように駆け抜ける。
木の幹を、垂直に駆け上がる。
枝から枝へ、鳥のように飛び移る。
身体が、軽い。
どこまでも行ける。
何でもできる。
そんな、万能感が、再び俺の心を支配した。
だが、今度のそれは、フレイムアローを手に入れた時のような、根拠のない慢心ではない。
数え切れないほどの失敗と、試行錯誤の末に、自らの手で掴み取った、確かな自信だ。
俺は、ふと、空を見上げた。
巨大な木々の葉が、空を覆い隠している。
あの、葉の天井を、突き抜けてみたい。
この森を、空から見下ろしてみたい。
俺は、一番高い木の、一番高い枝へと登った。
そして、そこから、空に向かって、渾身の力で跳躍した。
全身に纏った風の力を、一気に足元から噴射する。
ロケットスタート。
俺の身体は、弾丸のように、空へと撃ち出された。
風を切る音が、耳元で轟音となって鳴り響く。
視界の端で、緑の葉が、猛烈な速さで過ぎ去っていく。
そして。
すぽん、と。
何かを突き抜けるような、軽い感覚。
視界が、一気に開けた。
俺は、森の天井を、突き抜けたのだ。
目の前に広がるのは、どこまでも続く、雄大な緑の海。
俺が今までいた森が、眼下に広がっている。
そして、その向こうには、見たこともない山脈や、きらきらと光る湖が見えた。
すごい。
なんて、景色だ。
俺は、しばし、その絶景に見とれていた。
やがて、重力が俺の身体を捉え、落下が始まる。
だが、もう俺は、ただ落ちるだけの猫じゃない。
俺は、落下しながら、身体に纏う風を、翼のように広げた。
すると、落下速度が、ふっと緩やかになる。
俺は、ムササビのように、滑空を始めたのだ。
風を読み、風を掴む。
身体の向きを少し変えるだけで、自由に進路を変えることができる。
これは、楽しい。
楽しすぎる!
俺は、空を散歩するように、しばらくの間、森の上を滑空した。
そして、拠点である大木を目がけて、ゆっくりと降下していく。
木の洞の前では、チカが、俺の帰りを待っていた。
俺は、チカの目の前に、音もなく、ふわりと着地した。
「にゃあ(ただいま、チカ)」
「ちきゅー!(おかえりー!)」
チカが、嬉しそうに俺の足元に飛びついてくる。
俺は、その小さな頭を、優しく撫でてやった。