表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/29

第四話

 猫の身体になってから、これまで、大きな問題があった。いや、問題は山積みなんだが、その中でも特にコミュニケーションに関することだ。

 俺の頭の中では、こうして人間だった頃と同じように、流暢な日本語で思考が駆け巡っている。だが、いざ口を開けば、喉から飛び出すのは「にゃあ」とか「ごろごろ」とか、そんな音だけ。これでは、意思の疎通などできるはずもなかった。


 不思議なことに、この光る毛玉は、俺の鳴き声に含まれた微妙なニュアンスを、驚くほど正確に読み取ってくれるのだ。

 もちろん、複雑な会話ができるわけじゃない。だが、俺が問いかけるような調子で「にゃ?」と鳴けば、チカは何かを探しているのだと理解するし、俺が励ますように「にゃーん」と喉を鳴らせば、その意図を汲んで安心したように光を和らげる。テレパシーの類ではないだろう。おそらく、声のトーンや仕草、匂いといった、猫が本来持っている非言語的なコミュニケーション能力を、チカがその高い知能で解析している、といったところか。


 おかけで俺は、日本語で考えながら、猫の鳴き声で話しているのだが、このチカとのコミュニケーションにはあまり問題がなかった。


「チカ、そっちはどうだ? 何か食えそうなもんはあったか?」


 俺が問いかけるように鳴くと、少し離れた茂みを調べていた光る毛玉が、ぴょこんと顔を出した。


「ちきゅー!(なーんもない!)」


 そう言わんばかりに、ぷるぷると首を横に振る。その全身から放たれる淡い光が、まるで落胆しているかのように少しだけ弱くなったように見えた。こいつ、感情によって光の強さが変わるのか。なかなか面白い生態だ。


 孤独は、心を蝕む。

 この理不尽な世界にたった一人で放り出された当初、俺の心は絶望という名の分厚い雲に覆われていた。だが、今は違う。隣にこの小さな光る毛玉がいる。言葉は通じなくとも、意思の疎通はなんとなくできる。何より、誰かと一緒にいるという事実が、凍てついた心をじんわりと温めてくれるのだ。


「そっか。まあ、気長に行こうぜ。焦りは禁物だ」


 俺はそんな意味の鳴き声を出しながら、チカを励ますように喉を鳴らす。実際、焦っているのは俺の方なのだが。腹の虫が、もう何時間も前から抗議のデモ活動を続けている。ぐぅ、きゅるる、とオーケストラもかくやという多彩な音色で、己の存在を主張してやまない。


 あの巨大な毒蛇、ポイズン・サーペントとの遭遇戦の後、俺たちは拠点である大木に戻ってきた。チカはすっかり俺に懐き、俺が木の洞で休んでいる時は入り口で見張りをし、俺が食料を探しに出れば、小さな探検家のように後をついてくる。その姿は健気で、見ていて飽きない。


 問題は、そのチカが時々、善意で何かを拾ってくることだ。


「チカッ!」


 嬉しそうな鳴き声と共に、チカが俺の足元に何かを置いた。それは、毒々しい紫色をしたキノコだった。傘の裏側が、不気味な青色に光っている。


 【マヒダケ】。食べると全身の自由が利かなくなる幻覚作用の強い毒キノコ。


 脳内にポップアップされる、ご丁寧な解説。俺は思わず顔をしかめた。


「……チカさんや。その善意、ありがたいんだが、これはちょっと……」


「ちきゅ?(美味しいよ?)」


 きょとんとした顔で、チカが俺を見上げる。そのつぶらな瞳は、一点の曇りもなく善意に満ちている。断りにくい。非常に断りにくい。だが、これを食えば俺の異世界ライフはここでジ・エンドだ。麻痺して動けないところを、ホーンラビットあたりに美味しくいただかれてしまうだろう。


「いや、俺、キノコは苦手でさ。そう、アレルギーなんだよ。食うと全身に蕁麻疹が出て大変なことになるんだ。だから、その気持ちだけ、ありがたく受け取っておくぜ」


 俺は、できるだけ穏やかな声色を装って、前足でそっとキノコを脇に押しやった。チカは少し残念そうに「ちゅん……」と鳴いたが、すぐに気を取り直したように、また次の「獲物」を探しに駆け出していった。


 数分後、チカが持ってきたのは、鮮やかな青色をしたイモムシだった。体長は俺の前足くらいあり、むちむちとしていて、ある意味では美味そうにも見える。


 【シビレムシ】。体液に強力な神経毒を持つ。触れるだけで皮膚が炎症を起こす。


「……チカくん、頼むから、もう何もしないでくれ」


 俺の心の叫びは、もちろんチカには届かない。

 この純真無垢な相棒は、どうやら食えるものと食えないものの区別が全くついていないらしい。まあ、こいつ自身は光をエネルギーにしているのか、何かを食べている様子はないから仕方ないのかもしれないが。


 結局、その日の食料も、川でさんざん魚に弄ばれた挙句、一匹も捕れずに終わった。俺は、木の根元にぐったりと横たわり、空腹でちかちかする視界の隅で、チカが放つ優しい光をぼんやりと眺めていた。


 このままじゃ、本当に餓死する。

 何か、抜本的な対策を考えなければ。魚を捕るための、もっと効率的な方法。あるいは、安全に食べられる植物や小動物を見つけるための、確実な手段。


 俺の武器は、猫の身体能力と、人間の知性。

 この二つを、もっとうまく組み合わせる必要がある。


 そんなことを考えていると、ふと、俺の鼻が奇妙な匂いを捉えた。

 獣の匂い。それも、一匹や二匹じゃない。群れの匂いだ。それから、鉄が錆びたような、血の匂い。そして、何かが腐ったような、不快な悪臭。


 俺は、ばっと身を起こした。隣でうたた寝をしていたチカも、俺のただならぬ気配を感じ取ったのか、ぱちりと目を開け、全身の光を強めて警戒態勢に入る。


「チカ、静かに。何かが来る」


 俺は、超高性能な耳を澄ませる。

 ガサガサという茂みをかき分ける音。複数の足音。そして、低い唸り声と、時折混じる、甲高い笑い声のような音。


 間違いない。敵だ。

 それも、ホーンラビットやポイズン・サーペントのような、単独で行動するタイプの魔物じゃない。知性を持ち、集団で行動する、厄介なタイプの敵だ。


 俺はチカを促し、音を立てずに拠点である大木の枝の上へと避難した。ここからなら、森の様子を安全にうかがうことができる。


 やがて、茂みの中から、その姿を現した。


 それは、二足歩行する、醜悪な生き物だった。

 背丈は人間の子供くらいだが、身体つきはずんぐりむっくりとしている。肌は汚れたような緑色で、あちこちに瘡蓋や傷跡がある。長い腕には、不釣り合いなほど大きな手。その手には、粗末な棍棒や、石を割って作ったような粗雑な刃物が握られていた。

 何より特徴的なのは、その顔だ。豚のように潰れた鼻、大きく裂けた口からは、黄ばんだ牙が覗いている。そして、その小さな瞳には、狡猾さと貪欲さだけがぎらぎらと浮かんでいた。


 【ゴブリン】。知能は低いが、集団で狩りを行う雑食性の魔物。残忍で、縄張り意識が強い。


 ファンタジーの定番モンスター、ゴブリン。まさか、こんなに早くお目にかかることになるとは。しかも、その数は一体や二体ではない。ざっと見ただけでも、十匹はいる。


 ゴブリンの群れは、俺たちの拠点である大木の前にやってくると、きょろきょろと辺りを見回し始めた。リーダー格らしい、一回り身体の大きなゴブリンが、何か汚い言葉でがなり立てると、他のゴブリンたちが一斉に何かを探し始める。


 何を探しているんだ?

 俺がそう思った時、一匹のゴブリンが、俺が先ほどチカのために脇にどかした紫色の毒キノコを見つけた。ゴブリンは、それを拾い上げると、何の躊躇もなく、大きな口でむしゃむしゃと食べ始めた。


 ……マジか。あんな猛毒キノコを、平気で食うのか。

 ゴブリンの生態は、俺の常識をはるかに超えているらしい。


 やがて、ゴブリンたちは、俺たちが寝床にしている木の洞に気づいた。リーダー格が洞の入り口に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅いでいる。


「グギャッ!(新しい匂いだ!)」


 リーダーが叫ぶと、他のゴブリンたちがわらわらと集まってきた。

 まずい。俺たちの匂いに気づかれた。ここは、もう安全な場所じゃない。


 ゴブリンたちは、俺たちが洞の中に隠れていると思ったのか、棍棒で木の幹をガンガンと叩き始めた。だが、この大木は、そんなもので傷一つつくようなヤワな木ではない。


 やがて、ゴブリンたちは叩くのに飽きたのか、今度は木の周りに自分たちの荷物を下ろし始めた。汚れた布袋からは、木の実や、干し肉のようなもの、そしてガラクタ同然の武具が転がり出る。


 まさか、こいつら……。

 ここに、新しい寝ぐらを構えるつもりか?


 冗談じゃない。ここは俺たちの拠点だ。勝手に不法占拠されてたまるか。

 だが、相手は十匹。まともにやり合って、勝てる相手じゃない。


 どうする?

 俺は、枝の上で思考を巡らせる。

 このままやり過ごし、奴らがどこかへ行くのを待つか? いや、こいつらがここを気に入ってしまえば、長期間居座る可能性もある。そうなれば、俺たちは拠点を失い、また一から安全な場所を探さなければならなくなる。それは避けたい。


 ならば、戦うしかないのか?

 無謀だ。猫一匹と、光るリス一匹。戦力差は、絶望的だ。


 俺が悩んでいる間にも、ゴブリンたちはすっかりリラックスムードで、火を起こし始めた。どうやら、ここで食事にするらしい。干し肉の焼ける香ばしい匂いが、空腹の俺の鼻を無慈悲に刺激する。あの干し肉、絶対に美味いやつだ……。


 いや、いかんいかん。食欲に負けてどうする。

 俺は、ゴブリンたちの様子を注意深く観察する。

 動きは鈍重で、連携も取れているようには見えない。それぞれが、好き勝手に行動している。知能が低いというのは、本当らしい。


 だが、それでも数は力だ。

 一匹ずつなら、なんとかなるかもしれない。だが、一斉に襲いかかられたら、ひとたまりもないだろう。


 何か、奴らを一網打尽にできるような、強力な攻撃手段があれば……。


 攻撃手段。

 俺の武器は、爪と牙。それから、猫ならではの俊敏性。

 チカの武器は、目眩ましに使える強力な光。


 これらを組み合わせれば、多少の攪乱はできるかもしれない。だが、決定力に欠ける。


 何か、他にないのか。

 俺だけの、特別な力が。


 その時、俺の脳裏に、あの猫神の軽い声が、ふと蘇った。


『ちょっとしたオマケも付けといてあげるよ』


 オマケ。

 一つは、魔物の情報が分かる鑑定能力だった。

 だが、それだけだったか? あの神様のことだ、何かもう一つくらい、面白い機能を仕込んでいてもおかしくない。


 いや、そうでないと困るんだが。


 俺は、自分の身体の内側に、意識を集中させてみた。

 人間だった頃には、感じたことのない感覚。身体の中心、腹の底あたりに、何か温かいエネルギーの塊があるのを感じる。それは、まるで小さな太陽のように、静かに、しかし力強く、熱を放っている。


 これが……魔力、というやつか?


 ファンタジーの世界ではお馴染みの、魔法の源。この世界にも、魔法は存在するのかもしれない。いや、ホーンラビットやポイズン・サーペントが『魔物』と呼ばれているくらいだ。魔法があって当然だろう。


 だとしたら、俺にも、それが使えるんじゃないか?


 胸が、高鳴った。

 もし、魔法が使えたなら。この絶望的な状況を、ひっくり返せるかもしれない。


 だが、どうやって?

 呪文を唱えるのか? 魔法陣を描くのか? そもそも、俺はどんな魔法が使えるんだ?


 ヒントは、何もない。

 完全に、手探りの状態だ。


 俺は、眼下のゴブリンたちから目を離さずに、体内の魔力を操作しようと試みた。

 念じるだけでいいのか?


『火よ、出ろ!』


 ……しーん。

 何も起こらない。当たり前か。そんな単純なことで魔法が使えるなら、誰も苦労はしない。


『水よ、来たれ!』


 ……しーん。

 ダメだ。


『風よ、吹け!』


 ……ざわっ。

 一瞬、木の葉が揺れた。

 気のせいか? いや、今、確かに、俺の意思に呼応して、魔力が少しだけ動いたような気がした。


 もう一度だ。

 もっと、強くイメージする。

 風。空気を動かす力。見えない流れ。


『風よ!』


 びゅっ!

 俺の目の前から、小さな突風が巻き起こり、数枚の木の葉を舞い上がらせた。


 ……できた。

 本当に、できたぞ!


 威力は、うちわで扇いだ程度の、そよ風にも満たないものだったが、それでも、これは紛れもなく魔法だ。俺が、俺自身の力で、無から有を生み出したのだ。


 すごい。すごいじゃないか、俺!

 興奮で、全身の毛が逆立つ。隣にいたチカが、「ちきゅ?」と不思議そうに俺を見ている。


 だが、喜んでばかりもいられない。

 この程度の風では、ゴブリンの足止めにすらならない。もっと、強力な、攻撃に使える魔法が必要だ。


 攻撃魔法といえば、やはり定番は火だろう。

 俺は、もう一度、火の魔法に挑戦してみることにした。


 今度は、ただ念じるだけじゃない。

 もっと、具体的なイメージを持つんだ。


 火。

 燃え盛る炎。熱。光。

 どうすれば、火を生み出せる?


 その時、俺の頭に、人間だった頃の、小学生の理科の実験の記憶が、閃光のように駆け巡った。


 虫眼鏡。

 太陽の光を、レンズで一点に集めて、黒い紙を燃やす実験。


 ……これだ。

 これしかない。


 光を集めて、熱を発生させる。

 その原理を、魔法で再現できないか?


 俺の身体には、レンズの代わりになるものがある。

 この、猫の目だ。

 暗闇でものが見えるこの瞳は、光を効率よく集める機能を持っているはずだ。


 体内の魔力を、光のエネルギーに変換する。

 その光を、この瞳に集束させる。

 そして、レンズで焦点を合わせるように、一点に集中させる。


 いける。

 理論上は、可能だ。


 問題は、それをどうやって外部に射出するかだ。

 目からビーム、というのも悪くないが、それでは自分の目が危ない。


 射出装置。

 そうだ、指先だ。人間だった頃、何かを指さす時、自然と意識がそこに集中した。あの感覚だ。


 魔力を、瞳で集束させ、指先から撃ち出す。

 俺は、ゆっくりと右の前足を上げた。そして、その肉球に隠された爪を、一本だけ、すっと伸ばす。


 狙うは、ゴブリンたちが起こした焚き火の近くに転がっている、枯れ枝。

 いきなりゴブリンを狙って、もし失敗したら警戒されるだけだ。まずは、練習。


 俺は、深く息を吸った。

 体内の魔力を、ゆっくりと練り上げる。温かいエネルギーが、身体の中心から湧き上がってくる。


 そのエネルギーを、光のイメージに変換する。

 そして、両の瞳へと送り込む。


 視界が、一瞬、ぐにゃりと揺らめいた。

 瞳が、熱を持っていくのを感じる。まるで、熱い鉄板を押し付けられているようだ。痛い。だが、我慢だ。


 集まれ。集まれ。もっと、一点に。

 俺の金色の瞳が、レンズの役割を果たす。


 そして、集束させた魔力ひかりを、右前足の、伸ばした爪の先端へと送り込む。

 神経を、爪の先に全集中させる。


 爪の先が、ちりちりと熱を帯び、淡いオレンジ色に輝き始めた。

 いける。


 俺は、狙いを定めた。


「喰らえ……!」


 心の中で叫ぶと同時に、爪の先に集中させたエネルギーを、一気に解放した。


 シュッ!


 小さな音と共に、オレンジ色の光の粒が、俺の爪先から飛び出した。

 だが、それは矢のように飛んでいくことはなく、ふわりと宙に浮いたかと思うと、数センチ先で、ぽすん、と音を立てて消えてしまった。


 ……失敗だ。

 魔力の集束はできた。だが、射出のイメージが弱すぎた。これでは、ただの火の粉だ。


 ゴブリンたちは、まだ俺たちの存在に気づいていない。幸い、今の火の粉は、誰にも見られていなかったようだ。


 もう一度だ。

 今度は、もっと強く、鋭く、速く。

 矢のように、一直線に突き刺さるイメージ。


 俺は、再び魔力を練り上げ、瞳に集束させる。

 先ほどよりも、スムーズに魔力が集まってくる。一度やったことで、コツを掴みかけているのかもしれない。


 爪の先が、再びオレンジ色に輝く。

 今度は、さっきよりも強く、眩い光だ。


 いけっ!


 シュバッ!


 今度は、確かな手応えがあった。

 オレンジ色の光が、一本の細い線となって、俺の爪先から射出された。

 それは、夜空を流れる星のように、美しい軌跡を描いて、目標である枯れ枝へと飛んでいく。


 そして。


 ジュッ!


 小さな音を立てて、光の矢が枯れ枝に命中した。

 命中した箇所から、白い煙が、もわりと立ち上る。


 ……燃えない。

 威力は上がったが、まだ火をつけるには至らないらしい。熱線、というよりは、熱した針で突いた程度か。


 だが、大きな進歩だ。

 方向性は、間違っていない。

 もっとだ。もっと、魔力を。もっと、集束を。もっと、鋭いイメージを。


 俺は、三度目の挑戦を試みた。

 体内の魔力を、ほとんど絞り出すような感覚で練り上げる。

 瞳が、焼けるように熱い。視界が、赤く点滅している。

 爪の先が、もはやオレンジ色ではない。太陽のかけらを埋め込んだかのように、真紅に、そして白く輝いている。


 これなら、いける。

 俺は、確信した。


 狙いは、さっきと同じ枯れ枝。

 ゴブリンの一匹が、そのすぐそばで大あくびをしている。


 これが、俺の、この世界で初めての、本当の攻撃。


 行けぇぇぇぇぇっ! 俺の切り札!

 その名も、『フレイムアロー』!


 ドシュッ!


 今までとは、比べ物にならない鋭い射出音。

 真紅の光の矢が、夜の闇を貫いた。

 それは、もはや光の線ではない。熱そのものが、形を持って飛翔しているかのようだ。


 そして、フレイムアローは、寸分の狂いもなく、枯れ枝に突き刺さった。


 次の瞬間。


 ボッ!


 乾いた音と共に、枯れ枝が、一瞬にして炎に包まれた。

 炎は、瞬く間に燃え広がり、周囲の落ち葉に次々と燃え移っていく。


「「「グギャッ!?」」」


 突然の火事に、ゴブリンたちが一斉に悲鳴を上げた。

 何事かと、燃え盛る枯れ枝の周りに集まってくる。


 成功だ。

 大成功だ!


 俺は、勝利を確信し、口の端を吊り上げた。

 さあ、ショータイムの始まりだぜ、お前ら。



 突然の火事に、ゴブリンたちは完全にパニック状態に陥っていた。

 右往左往しながら、意味不明の奇声を上げている。水をかけて消そうとする知恵もないらしく、ただ棍棒で火を叩いて、逆に火の粉を撒き散らしている始末だ。知能が低いとは聞いていたが、ここまでとは。


「ギャウギャウ!(火だ! 火が勝手に!)」

「グギィ!(熱い! 熱いぞ!)」


 うん、知ってる。火だからな。

 俺は、枝の上からその無様な光景を冷静に見下ろしながら、次の一手を考えていた。

 フレイムアローは成功した。だが、一発撃つのに、かなりの魔力を消耗する。連射は、まだ難しそうだ。それに、体への負担も大きい。特に、レンズの役割を果たしている瞳が、ジンジンと痛む。


 だが、好機であることに変わりはない。

 奴らの注意は、完全に火に引きつけられている。俺の存在には、まだ誰も気づいていない。


 やるなら、今だ。

 一匹ずつ、確実に仕留めていく。


 俺は、再び魔力を練り始めた。一度成功したことで、魔力の流れが身体に馴染んでいる。さっきよりも、少ない集中力で、爪の先に熱を宿すことができた。


 最初のターゲットは、群れから少し離れた場所で、一人だけおろおろしている、一番図体の小さいゴブリン。

 まずは、お前からだ。


 狙いを定め、フレイムアローを放つ。

 真紅の閃光が、闇を切り裂き、ゴブリンの背中に命中した。


「ギッ!?」


 短い悲鳴。

 ゴブリンは、背中を押さえて前のめりに倒れる。その背中には、拳ほどの大きさの穴が開き、そこから黒い煙が上がっていた。どうやら、貫通したらしい。


 一撃。

 クリーンヒットだ。


 ゴブリンは、数回、痙攣するように手足を動かしたが、やがてぴくりとも動かなくなった。


 ……やった。

 初めて、この手で、魔物を倒した。


 吐き気がするような、嫌な感覚はなかった。むしろ、胸のすくような、爽快感があった。

 こいつらは、俺たちの拠点を脅かす、ただの害獣だ。駆除して当然。そう思うと、何の罪悪感も湧いてこなかった。


「グギャ?(おい、どうした?)」


 仲間が倒れたことに、ようやく他のゴブリンが気づいた。

 だが、何が起こったのかは、理解できていないようだった。倒れた仲間の周りに集まり、緑色の身体を不思議そうにつついている。


 チャンスだ。

 俺は、すかさず次のフレイムアローを準備する。

 魔力の消耗は激しいが、まだいける。


 二射目、発射。

 今度は、仲間の死体を調べていたゴブリンの、眉間に向かって。


 ドシュッ!

 光の矢は、吸い込まれるように、ゴブリンの額に突き刺さった。


「……グ。」


 声にならないうめき声を上げ、そのゴブリンは、仰向けに倒れた。

 額の真ん中に、黒く焦げた穴が空いている。


 これで、二匹目。

 ここでようやく、残りのゴブリンたちも、自分たちが攻撃されているという事実に気づいたようだった。


「「「ギギギギギッ!(敵襲! 敵襲だ!)」」」


 パニックは、さらに大きくなる。

 敵がどこにいるのか分からないゴブリンたちは、闇雲に棍棒を振り回し、互いに殴り合ったりしている。もう、めちゃくちゃだ。


 俺は、その隙を逃さず、三射目、四射目を立て続けに放った。

 一体は胸を、もう一体は腹を貫かれ、次々と地に伏していく。


 残りは、六匹。

 だが、俺の魔力も、そろそろ限界が近い。身体が鉛のように重く、頭がくらくらする。瞳の痛みも、増してきている。


 リーダー格の、一回り大きなゴブリンが、ようやく俺の存在に気づいたようだった。

 木の上の闇を見上げ、その醜い顔を憎悪にゆがませている。


「グガガガッ!(そこか! そこにいるのか!)」


 リーダーが俺を指さすと、残りのゴブリンたちが一斉にこちらを見上げた。

 まずい。見つかった。


 ゴブリンたちは、石を拾い、俺に向かって投げつけてきた。

 だが、所詮はゴブリンの投石。コントロールはガバガバで、俺の身体にかすりもしない。


 しかし、リーダー格のゴブリンは、他の個体とは少し違った。

 そいつは、背負っていた粗末な弓を構えると、矢をつがえた。


 【ゴブリン・アーチャー】。稀に存在する、弓を扱うゴブリンの上位種。


 脳内に、新たな情報がポップアップする。

 まずい、あれは危険だ。


 リーダーが弓を引き絞る。

 狙いは、正確に俺を捉えている。


 最後の魔力を、振り絞る。

 これが、最後の一撃だ。


 リーダーが矢を放つのと、俺がフレイムアローを放つのは、ほぼ同時だった。


 ヒュン、と風を切る音。

 ドシュッ、と空気を焼く音。


 二つの矢が、闇の中で交差した。


 結果は、俺の勝利だった。

 俺の放ったフレイムアローが、ゴブリンの矢を途中で焼き尽くし、勢いを失うことなく、リーダーの胸板を貫いた。


「ガ……ハッ……」


 リーダーは、信じられないという顔で、自分の胸に空いた穴を見下ろした。そして、そのままゆっくりと、後ろに倒れていった。


 リーダーが倒されたことで、残りのゴブリンたちの戦意は、完全に砕け散った。

 蜘蛛の子を散らすように、悲鳴を上げながら、森の奥へと逃げていく。


 俺は、もう追いかける力も残っていなかった。

 全身から力が抜け、枝の上に、ぐったりと突っ伏す。


 勝った。

 俺は、勝ったんだ。


 魔力切れのひどい倦怠感と、瞳の焼けるような痛みの中で、俺は確かに、勝利の味を噛み締めていた。



 しばらくして、俺はようやく動けるようになった。

 隣では、チカが心配そうに「ちきゅ、ちきゅ」と鳴きながら、俺の顔をぺろぺろと舐めてくれている。そのザラザラした舌の感触が、なぜか心地よかった。


「にゃあ(大丈夫だ、チカ。見てみろよ、俺たちの勝ちだ)」


 俺は、ゆっくりと身体を起こし、眼下を見下ろした。

 そこには、リーダー格を含め、五匹のゴブリンの死体が転がっていた。最初に起こした火事は、いつの間にか鎮火している。


 初めての、本格的な戦闘。

 そして、初めての、完全な勝利。


 俺は、木の幹を伝って、地面へと降り立った。

 ゴブリンの死体を、まじまじと観察する。醜悪な魔物だが、こうして見ると、どこか哀れにも思えた。


 だが、感傷に浸っている場合じゃない。

 戦後処理をしなければ。


 まず、こいつらの死体をどうするか。このまま放置しておけば、腐敗して悪臭を放ち、他の肉食獣を呼び寄せる原因になるかもしれない。

 俺は、残った魔力を振り絞り、小さなフレイムアローを数発放って、死体を焼却することにした。これで、一安心だ。


 そして、俺は、ゴブリンたちが残していった荷物を漁り始めた。

 ほとんどはガラクタだったが、その中に、俺は宝物を見つけた。


 汚れた布袋の中に、大量の干し肉と、木の実が詰め込まれていたのだ。

 干し肉は、何の肉か分からないが、香ばしくて、いかにも美味そうだ。木の実も、俺が以前見つけた毒々しい赤い実とは違い、どこにでもありそうな、素朴な見た目をしている。鑑定スキルも、特に危険な情報は示さなかった。


 食料だ。

 俺たちが、喉から手が出るほど欲しかった、食料だ!


「チカ!見ろよ、これ! 飯だ!俺たちの飯だぞ!」


 俺は、干し肉を一本咥えて、チカに見せびらかした。

 チカは、食べ物には興味がないのか、くんくんと匂いを嗅いだだけで、ぷいと顔をそむけた。


 まあ、いい。こいつは、俺が全部食ってやる。

 俺は、早速、干し肉にかぶりついた。

 硬くて、しょっぱくて、少し獣臭い。

 だが、今の俺にとっては、どんな高級レストランのフルコースよりも、美味しく感じられた。


 肉を噛みしめるたびに、塩気と旨味が、じゅわっと口の中に広がる。

 空っぽだった胃袋に、確かな重みが満ちていく。

 生きている。俺は、今、確かに生きている。


 夢中で干し肉を頬張りながら、俺は、この世界の厳しさと、そして、それを乗り越えた時の達成感を、改めて実感していた。


 絶望している暇はない。

 この世界は、確かに理不尽だ。だが、力さえあれば、その理不尽を覆すことができる。

 今日、俺は、そのための大きな一歩を踏み出したのだ。


 炎の魔法、フレイムアロー。

 これが、俺の新しい爪牙だ。


 俺は、残りの干し肉と木の実を、木の洞へと運んだ。

 これで、当面の食料は確保できた。生活基盤が、ようやく確立されたのだ。


 洞の中で、俺はチカと並んで、満ち足りた気分で横になった。

 チカが放つ、柔らかい光が、闇を優しく照らしている。


 腹は満たされ、安全な寝床もある。

 そして、隣には、信頼できる仲間がいる。


 悪くない。

 この異世界ライフも、案外、悪くないかもしれない。


 俺は、満足のため息をつくと、ゆっくりと目を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ