第三話
木の枝の上から見下ろす世界は、静かだった。
あれだけ執拗に俺を睨みつけていた牙付きウサギ――ホーンラビット――は、やがて諦めたように鼻を一つ鳴らすと、未練がましく地面を数回蹴ってから、森の奥へと姿を消していった。その巨体が茂みを揺らす音が完全に聞こえなくなるまで、俺はじっと枝の上で息を潜めていた。安全第一、石橋を叩いて渡る。いや、この場合は木の枝を肉球でぷにぷに確かめながら渡る、と言うべきか。
安全確保。よし。
ゲームの基本は、まず自分の立ち位置を把握し、安全地帯を確保することから始まる。この巨大な木は、当面の俺のセーフティエリア、いわば拠点だ。少なくとも、木に登れない敵からは身を守ることができる。
さて、と。俺はゆっくりと身体を起こし、改めて自分の置かれた状況を整理し始めた。
まず、最大の課題は食料と水の確保だ。猫の身体は燃費が悪いのか、あるいはさっきの逃走劇でエネルギーを使いすぎたのか、腹の底から猛烈な空腹感が突き上げてくる。人間だった頃の「あー、小腹すいたな」なんてレベルじゃない。もっと本能的な、生命の危機を告げるアラームのような飢えだ。このままでは、戦う以前に飢え死にしてしまう。これはマジでシャレにならん。
俺は木の幹を伝って、慎重に地面へと降り立った。さっきは無我夢中で駆け上がったが、降りる方がよほど難しい。一歩一歩、爪を立て、足場を確認しながら、なんとか着地する。ふぅ、と息をつく間もなく、俺はすぐさま周囲の警戒を再開した。超高性能な聴覚と嗅覚をフル稼働させ、新たな敵の気配がないかを探る。森は静かだが、その静けさ自体が不気味でもある。
幸い、近くに危険な生物の気配はない。俺は鼻をひくつかせ、匂いを頼りに探索を始めた。目指すは、水の匂いだ。湿った土の匂いとは違う、もっと澄んだ、流れる水の気配を、俺の鼻は微かに捉えていた。人間だった頃なら絶対に気づかない、微細な情報の断片。この身体、不便なことばかりじゃないらしい。
森の中は、想像以上に歩きにくい。地面は落ち葉や枯れ枝で覆われ、足を取られる。巨大な植物の根が、まるで蛇のように地面を這い、行く手を阻む。俺は、障害物を避け、時にはその下をくぐり抜けながら、慎重に進んでいった。人間だった頃なら気にも留めないような小さな窪みや段差が、猫の身体には大きな障害物となる。この視点の低さには、まだ慣れそうにない。世界が全部、巨人サイズに見える。
しばらく進むと、水の音が次第に大きくなってきた。そして、木々の合間から、せせらぎが見えてきた。やった、水場だ。俺は駆け寄りたい気持ちを抑え、まずは周囲の安全を確認する。水場は、様々な動物が集まる危険地帯でもある。ゲームで言えば、回復ポイントであると同時に、エンカウント率が激増する場所だ。油断は禁物。
岩陰に身を隠し、じっとせせらぎの様子をうかがう。水は驚くほど透き通っていて、川底の小石まではっきりと見える。色とりどりの魚が、ゆうゆうと泳いでいるのが見えた。大きさは、俺の身体の半分くらいだろうか。あれなら、食料にもなりそうだ。じゅるり、と喉が鳴る。
しばらく観察を続けたが、特に危険な生物は現れなかった。俺は意を決して岩陰から出ると、素早く水辺に近づき、舌で水をすくい上げた。冷たくて、ほんのり甘い味がする。乾ききった身体に、命の水が染み渡っていくのが分かった。まるで、干からびたスポンジに水を垂らしたように、じゅわっと。
喉の渇きがある程度癒えると、次に襲ってきたのは、やはり空腹感だ。俺は水面を泳ぐ魚に狙いを定める。さて、どうやって捕まえるか。テレビで見た野生の猫は、水に飛び込んで見事に魚をキャッチしていたが、生憎俺はまだこの身体のポテンシャルを完全に引き出せない。それに、水に濡れるのはごめんだ。風邪でもひいたら、この世界では命取りになりかねない。
俺は、川岸で魚が通りかかるのを辛抱強く待つことにした。浅瀬に近づいてきた瞬間を狙って、爪で引っ掛ける。作戦は単純明快だ。
息を殺し、身を低くして、ひたすら待つ。
一匹、青くきらめく魚が、俺の目の前を横切った。
今だ!
俺は、電光石火の速さで前足を繰り出した。自分でも驚くほどのスピードだった。
バシャッ!
水しぶきが上がり、確かな手応えがあった。やったか!?
しかし、俺が水から引き上げた前足の先には、何もいなかった。魚は、俺の爪を寸前でかわし、素早く深みへと逃げていった。
「にゃろー……(あの野郎……)」
思わず、悔しげな声が漏れる。くそ、見た目よりずっと素早い。
その後も、俺は何度も魚獲りに挑戦した。だが、結果は惨敗。魚たちは俺の動きを完全に見切り、ひらりひらりと爪をかわしていく。しまいには、俺の前で挑発するようにホバリングするやつまで現れた。完全に、なめられている。猫としてのプライドがズタズタだ。いや、元人間だけど。
腹の虫が、ぐぅ、と情けない音を立てた。空腹と疲労で、もう限界が近い。このままでは、本当にまずい。
魚は諦めるか……。
そう思った時、ふと、別の匂いが鼻をかすめた。
甘酸っぱい、果実のような匂い。
俺は匂いのする方へ顔を向けた。少し離れた場所に、低い木があり、そこに真っ赤な実がたわわに実っている。大きさは、ピンポン玉くらいだろうか。表面はつやつやとしていて、いかにも美味しそうだ。
だが、待てよ。
ここは、地球じゃない。この森の植物が、安全だという保証はどこにもない。見た目が美味そうだからといって、安易に口にするのは危険すぎる。もしかしたら、猛毒を持っているかもしれない。サバイバル番組の受け売りだが、知らないキノコや植物には手を出すな、というのが鉄則だ。
俺は、赤い実に近づき、慎重に匂いを嗅いでみる。甘い香りの奥に、かすかにツンとするような刺激臭を感じた。これは……ダメなやつかもしれない。俺の中の危険察知アラートが、けたたましく鳴り響いている。
俺がどうしたものかと悩んでいると、一匹のリスのような小動物が、さっと木に登り、その赤い実を美味そうに食べ始めた。
……あいつが食えるなら、安全か?
いや、それも早計だ。あの動物には毒が効かなくても、俺には効くかもしれない。生物の種によって、毒への耐性は違う。人間だった頃の知識が、警鐘を鳴らす。
結局、俺は何も食べることができず、空腹を抱えたまま拠点である大木へと戻るしかなかった。
トボトボと歩きながら、俺は改めてこの世界の厳しさを痛感していた。生きる、ということ。それは、ただ敵から逃げるだけではない。食料を確保し、安全を確かめ、常に危険を予測して行動する。その全てを、この小さな猫の身体で、たった一人でこなさなければならないのだ。
これは、思った以上にハードなゲームだ。
◇
拠点に戻った俺は、木の洞を見つけて、そこを仮の寝床とすることにした。地面よりはいくらか安全だろう。空腹は辛いが、体力を回復させなければ、次の行動に移れない。
洞の中で丸くなっていると、様々な思考が頭を巡る。
どうすれば、あの魚を捕まえられるか。何か、道具は使えないか。罠は作れないか。
あの赤い実は、本当に毒なのか。少量なら、試してみる価値はあるか。いや、リスクが高すぎる。
そもそも、俺はいつまでここにいればいいんだ。この森を抜ければ、人間の街があるのだろうか。それとも、この森自体が、この世界の全てなのだろうか。
考え始めると、キリがない。
今は、目の前の問題に集中しよう。まずは、食料の確保。それが最優先事項だ。
そんなことを考えているうちに、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。猫の身体は、眠りを欲する本能が強いらしい。抗いがたい眠気に、思考がゆっくりと沈んでいった。
◇
どれくらい眠っていただろうか。
俺は、奇妙な音で目を覚ました。
チッ、チッ、チッ……。
電子音のような、それでいてどこか有機的な、不思議な音。それと同時に、何かが地面を激しく叩くような、バシッ! バシッ! という音が断続的に聞こえてくる。
何事だ?
俺は木の洞からそっと顔を出し、音のする方へと注意を向けた。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
俺の拠点から少し離れた開けた場所で、一匹の巨大な蛇が、とぐろを巻いていた。
その蛇は、とにかくデカかった。胴体の太さは、俺の身体よりも太い。全長は、五メートルは優にあるだろう。ぬめぬめとした緑色の鱗は、不気味な光沢を放っている。鎌首をもたげたその頭には、紫色のまだら模様があり、見るからに毒々しい。
俺の脳内に、またしても情報がポップアップする。
【ポイズン・サーペント】。猛毒の牙と、鞭のような尻尾を武器とする大型の蛇型魔物。
そして、その巨大な毒蛇が、何かを執拗に攻撃していた。
攻撃されているのは、小さな毛玉のような生き物だった。
大きさは、俺の頭くらいだろうか。全身が、淡い光を放つ、銀色の毛で覆われている。その光は、まるで蛍の光を何十匹も集めたかのように、柔らかく、そして幻想的だった。
【ルミナ・スクワール】。光る毛を持つリスに似た小動物。高い知能を持ち、光を操る能力がある。
その光る毛玉――ルミナ・スクワールは、俊敏な動きで蛇の攻撃をかわしながら、「チッ、チッ!」と甲高い警戒音を発している。どうやら、あの電子音のような音の正体は、こいつの鳴き声らしい。
蛇は、狙いを定めると、鞭のようにしなる尻尾を叩きつけてくる。バシッ! という衝撃音と共に、地面が抉れる。ルミナ・スクワールは、それを紙一重でかわすが、動きは次第に鈍くなってきている。体力の消耗が激しいのだろう。
絶体絶命。
誰が見ても、そう思うだろう。あの小さな生き物が、巨大な毒蛇に勝てる見込みは万に一つもない。捕まるのは、時間の問題だ。
俺は、木の洞の中から、固唾をのんでその光景を見つめていた。
助けるべきか?
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。だが、すぐにそれを打ち消した。
馬鹿を言え。俺に何ができる? あのホーンラビットから逃げるので精一杯だった、この俺が。あの巨大な毒蛇に勝てるわけがない。下手に手を出せば、俺まで餌食になるのがオチだ。
これは、この森の日常なんだ。弱肉強食。強いものが生き、弱いものが死ぬ。それだけの、シンプルなルールだ。俺が介入すべきことじゃない。
そうだ。見なかったことにしよう。俺は、ただの傍観者だ。
そう自分に言い聞かせ、俺は洞の奥へと引っ込もうとした。
その時だった。
蛇の攻撃をかわせず、ついに吹き飛ばされたルミナ・スクワールが、俺のいる木の根元まで転がってきた。
そして、その生き物と、目があった。
大きな、つぶらな瞳。その黒い瞳は、恐怖に濡れていた。そして、その奥に、諦めと、ほんのわずかな助けを求める色が浮かんでいるように見えた。
「チ……」
か細い鳴き声が、俺の耳に届く。
その瞬間、俺の脳裏に、昔の記憶が蘇った。
雨の日、段ボール箱の中で震えていた、一匹の子猫。見捨てることができず、傘を差し出し、家に連れて帰った。びしょ濡れの身体をタオルで拭いてやると、そいつは俺の手をぺろぺろと舐めた。あの時の、ザラザラとした舌の感触。
ああ、くそ。
俺の、この絆されやすいお人好しの性分は、猫になっても治らないらしい。
見て見ぬふりなんて、できるわけがなかった。
だが、どうする? 正面から挑んでも、勝ち目はない。
俺は、高速で思考を回転させる。蛇の注意は、完全に目の前の獲物に向いている。俺の存在には、まだ気づいていない。
何か、注意を引く方法は?
その時、俺の足元に、手頃な大きさの小石が転がっているのが目に入った。
これだ。
作戦は、一瞬で決まった。
俺は、音を立てないように、慎重に小石を前足で掴む。猫の前足は、物を掴むのには向いていないが、なんとか肉球と爪で保持することはできた。
狙うは、蛇の頭。
いや、違う。頭に当てて、もし仕留め損なったら、今度は俺が狙われる。目的は、あくまで注意を引くこと。陽動だ。
ならば、狙うべきは、蛇の頭から少し離れた場所。大きな音を立てて、一瞬だけそちらに意識を向けさせる。その隙に、あの毛玉を逃がす。
蛇は、とどめを刺そうと、鎌首を高く持ち上げていた。
好機は、今しかない。
俺は、人間だった頃の、キャッチボールの記憶を呼び覚ます。全身をバネのように使い、腕をしならせて投げる、あの感覚。
いけるか? いや、やるしかない。
俺は、木の洞から飛び出すと同時に、渾身の力で小石を投げつけた。
ヒュッ、と風を切る音。
小石は、俺の狙い通り、放物線を描いて蛇の頭の横にある岩へと飛んでいく。
カッ!
甲高い音を立てて、小石が岩に命中し、砕け散った。
その瞬間、蛇の動きがぴたりと止まる。巨大な頭が、音のした方へと素早く向けられた。
その一瞬の隙を、俺は見逃さなかった。
「にゃあ!(行け!)」
俺は、ルミナ・スクワールに向かって叫ぶ。もちろん、猫の鳴き声しか出ないが、俺の意図は伝わったようだった。
毛玉は、はっと我に返ると、脱兎のごとくその場から駆け出した。
作戦成功!
そう思ったのも束の間、俺はとんでもないミスを犯したことに気づく。
陽動には成功した。だが、その陽動を行った張本人が、蛇の目の前に無防備に突っ立っている。
しまった。
俺の存在に気づいた蛇が、その冷たい瞳を、ゆっくりと俺に向けた。紫色のまだら模様が、ぞっとするほど鮮明に見える。
まずい。まずいまずいまずい!
ターゲットが、完全に俺に移った。
蛇は、巨大な口をカパッと開く。その奥には、注射針のように鋭い毒牙が、二本、キラリと光っていた。
俺は、再び死を覚悟した。
だが、その時。
俺の背後から、閃光が迸った。
「チカァァァァッ!」
先ほどまでとは比べ物にならない、鋭い鳴き声。
俺が助けたはずの、あのルミナ・スクワールだった。逃げたはずのそいつが、いつの間にか俺の背後に回り込み、その小さな身体を、今までで一番強く輝かせていた。
その光は、もはや柔らかいなどという生易しいものではない。目を焼くほどに強烈な、純白の閃光。まるで、カメラのフラッシュを至近距離で浴びたかのようだ。
シュウウウウウッ!
閃光をまともに浴びた蛇が、苦しげな声を上げる。その巨体を激しくくねらせ、目元を押さえるように頭を振っている。どうやら、あの光には、目眩ましの効果があるらしい。
絶好のチャンス。
俺とルミナ・スクワールは、どちらからともなく視線を交わすと、同時にその場から駆け出した。今度は、同じ方向へ。
背後で、蛇の怒り狂う音が聞こえる。だが、俺たちはもう振り返らなかった。
◇
どれだけ走っただろうか。
蛇の気配が完全に消えたことを確認し、俺たちはようやく足を止めた。
俺は、その場にへたり込み、ぜえぜえと肩で息をする。一方、隣にいるルミナ・スクワールは、まだ警戒を解いていないのか、全身の光を明滅させながら、きょろきょろと周囲を見回している。
やがて、安全だと判断したのか、その光はふっと弱まり、最初に見た時のような、柔らかい明るさに戻った。
そして、その生き物は、俺の方へと向き直った。
改めて、そいつをまじまじと観察する。
リスに似ているが、尻尾はもっと短く、丸い。耳も小さい。全身を覆う銀色の毛は、一本一本が発光しているようだ。なるほど、『ルミナ・スクワール』というのは、こいつのことか。光るリス、か。そのまんまだな。
ルミナ・スクワールは、俺の前にちょこんと座ると、ぺこり、と頭を下げた。
……え、今、お辞儀した?
俺が驚いていると、そいつは俺に近寄ってきて、すりすりと身体を擦り付けてきた。そして、「ちきゅ、ちきゅ」と、嬉しそうな鳴き声を上げる。
どうやら、助けてくれたお礼を言っているらしい。
なるほど、こいつはかなり知能が高いと見える。
「にゃあ(気にするな)」
俺は、ぶっきらぼうにそう返した。半分は、自分の命が惜しくてやったことだ。感謝されるほどのものじゃない。
だが、ルミナ・スクワールは、それでも俺の側から離れようとしなかった。それどころか、俺の足元に丸まって、すっかりくつろいでいる。
どうやら、俺に懐いてしまったらしい。
まあ、いいか。
俺はため息をついた。一人でいるよりは、二人の方がいい。こいつの光は、暗い森を歩くのに役立ちそうだ。斥候としても使えるかもしれない。
仲間、か。
この理不尽な世界で、初めてできた仲間。悪くない響きだ。
「にゃあ?(お前、名前はなんて言うんだ?)」
もちろん、返事はない。
「にゃーん(そうか、名前もないのか。じゃあ、俺がつけてやる)」
俺は、少し考える。
さっきの、あの閃光。チカチカと、強く光っていた。それに、鳴き声も「チカ」とか「ちきゅ」とか、そんな感じだ。
「にゃあ!(よし、お前の名前は『チカ』だ)」
俺がそう言うと、足元の光る毛玉は、「チカッ!」と嬉しそうに一声鳴いた。
どうやら、気に入ってくれたらしい。
こうして俺は、この世界で最初の仲間を手に入れた。空腹は相変わらずだったが、不思議と心は軽かった。