第二十七話
使い魔決闘大会、決勝。
その日、アストリア王立魔法学園は建国以来の熱気に包まれていたと言っても過言ではなかっただろう。
アリーナの巨大な観客席はもはや生徒や教師だけでは埋め尽くせず、噂を聞きつけた他国の視察団までが詰めかけ、その数は数万にも膨れ上がっていた。
彼らの視線の先にあるのはただ一つ。
彗星の如く現れた無名の赤毛の少女。そして、その傍らに常に寄り添う一匹の幸運を呼ぶ黒猫。
『出来損ない』と蔑まれた少女がエリートたちを次々となぎ倒し、ついに決勝の舞台まで上り詰めた。これほどまでに人の心を沸き立たせる物語があるだろうか。
誰もが奇跡の瞬間を目撃しようと、固唾をのんでその時を待っていた。
「……すごいね、猫さん。まるで世界中の人が私たちを見てるみたい」
決戦を前にした選手控室。
エリーナは窓の外から聞こえてくる地鳴りのような歓声を聞きながら、ぽつりとそう呟いた。
その声に以前のような恐怖や不安の色はもうなかった。
ただ、これから始まる大一番に対する武者震いにも似た心地よい緊張感だけが、その翠色の瞳をきらきらと輝かせている。
準決勝でのあの戦い。
幻術によって心の最も柔らかな部分を抉られ絶望の淵に突き落とされた彼女は、俺との魂の対話を経て、本当の意味で生まれ変わった。
過去のトラウマを完全に克服したわけではないだろう。心の傷跡はそう簡単に消えるものではない。
だが彼女はもう、その傷に囚われてはいない。
傷つき、迷い、それでも前を向く本当の強さを、彼女はその手で掴み取ったのだ。
「にゃあ」
俺は彼女の足元で短く一声鳴いた。
その声にエリーナは、ふわりと花の綻ぶような笑みを浮かべる。
「うん。大丈夫。私もう怖くないよ。あなたと一緒だから」
その絶対的な信頼。
それが今の俺の何よりの力だった。
俺は彼女の足にそっと身体をすり寄せた。
言葉はいらない。俺たちの心は今、確かに一つに繋がっているのだから。
だが、俺の心の片隅。
そこにはどうしても拭い去ることのできない、黒い染みが広がっていた。
あの夜、建物で遭遇したおぞましい魔物。
そしてそいつが遺した黒い結晶から感じ取った、チカの生命の波長。
その真相は、まだ闇の中だ。
しかし、このまま何もなければ、この試合が終われば、俺はエリーナの元を去らなければならない。
目の前のこの、ようやく自分の力で輝き始めたご主人様を、一人残して。
「にゃーん……」
俺はそんな心の迷いを振り払うように低く喉を鳴らした。
今は目の前の戦いに集中するんだ。
感傷に浸っている暇はない。
俺たちの最後の相手は、今までとは次元の違う本物の強敵なのだから。
◇
ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
俺たちがアリーナへと足を踏み入れる。
その瞬間、観客席から割れんばかりの大歓声が俺たちを包み込んだ。
「エリーナーっ!」
「黒猫さーん、こっち向いてーっ!」
もはやアイドルの凱旋パレードだ。
その熱狂の渦の中を、エリーナは胸を張り、一歩一歩踏みしめるようにアリーナの中央へと進んでいく。
その凛とした立ち姿は、もはや王女の風格さえ感じさせた。
そしてアリーナの反対側のゲートから、俺たちの最後の敵が姿を現す。
その登場はエリーナの時とは対照的に、水を打ったような静寂をアリーナにもたらした。
白金の髪を風に靡かせ、ゆっくりと歩みを進める一人の男子生徒。
ゼフィル。
学園でも一、二を争う実力者らしい。
目の前の彼から見えるのは、闘志。
いや、嫉妬と憎悪に見えた。
そして自分以外の全てを見下す、絶対的な傲慢。
その冷え冷えとした視線が、俺たちを射抜いた。
「……ようやくここまで這い上がってきたか。出来損ないのシンデレラさん」
ゼフィルは、その完璧なまでに整った顔立ちを醜く歪ませ、吐き捨てるようにそう言った。
「だがお前の、おとぎ話もここまでだ。僕が直々に、その汚いガラスの靴を踏み砕いてやる」
そのあからさまな敵意。
エリーナは一瞬その言葉に胸を突かれたように、表情を曇らせた。
だがすぐにその瞳に強い意志の光を取り戻す。
「……私はもう出来損ないなんかじゃありません。ゼフィル様、あなたに私の本当の力をお見せします!」
その力強い宣戦布告。
二人の視線が火花を散らすように激突した。
そしてゼフィルの背後。
影の中からゆっくりと、その伝説の魔獣がその威容を現した。
それはまさに神話から抜け出してきたかのような、荘厳な姿だった。
獅子の強靭な身体。鷲の鋭い頭と巨大な翼。
全身を覆う黄金の羽毛は太陽の光を浴びて、神々しいまでに輝いている。
伝説の魔獣、グリフォン。
その鋭い鉤爪が地面をがりりと引っ掻き、硬い石畳に深い傷跡を刻んだ。
【グリフォン】。天空の王者とも呼ばれる伝説級の魔獣。風と雷の二つの属性を完全に支配し、その力は小国の軍隊にも匹敵すると言われる。
こいつはヤバい。
今までのどの相手とも格が違う。
俺が森で戦ってきたシルバーフェンリルやウィンドイーグルに匹敵する、あるいはそれ以上の圧倒的な存在感。
俺はごくりと喉を鳴らした。
これは小手先の戦術だけではどうにもならない、本当の総力戦になる。
ゴオオオオオオオオオオオオオオン!
決勝戦の開始を告げる銅鑼の音が鳴り響いた。
その瞬間だった。
ゼフィルは詠唱さえしない。ただ指をぱちんと鳴らしただけ。
それだけで世界が変わった。
「キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
グリフォンが甲高い咆哮を上げた。
そしてその巨大な黄金の翼を、一度大きく羽ばたかせる。
びゅうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!
アリーナ全体を暴風が吹き荒れた。
それだけではない。空が暗転した。
見上げればアリーナの上空を、分厚い黒い雷雲が渦を巻いている。
その雲の中心で、バリバリと青白い稲妻が迸った。
風と雷。
グリフォンは試合開始と同時に、アリーナ全体を自らの支配領域へと変貌させたのだ。
「にゃっ……!(まずい!)」
俺は咄嗟にエリーナの前に飛び出した。
そして風の魔力で俺たちの周囲に球状の風の壁を展開する。
その直後だった。
天から無数の雷の槍が降り注いできた。
それと同時に地面からは、剃刀のように鋭い風の刃が竜巻となって俺たちを襲う。
天と地からの同時攻撃。
逃げ場はない。
「きゃあっ!」
エリーナが短い悲鳴を上げた。
俺が展開した風の壁に雷の槍と風の刃が次々と激突し、バリバリとガラスが割れるような嫌な音を立てる。
壁が悲鳴を上げている。このままでは数秒ともたない。
『エリーナ! やれ!』
俺は魂の繋がりを使い、彼女に直接叫んだ。
もはや猫の鳴き声で指示を出している余裕はない。
『は、はいっ!』
エリーナは俺の声に即座に反応した。
彼女は震える手で地面に触れる。
「万物の母なる大地よ! 古の森の記憶を、今ここに! 鉄壁の砦となりて我らを守りたまえ!」
彼女の詠唱に応え、地面が盛り上がった。
だがそれはただの土の壁ではない。
蔦が複雑に絡み合い、その隙間を硬い樹皮が埋め尽くす。そしてその表面を粘着質の樹液が覆っていく。
それは俺が森で見てきたどんな木よりも強靭な、生命の要塞。
俺たちの周囲をドーム状に完全に覆い尽くした。
ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!
雷と風の嵐が俺たちの生命の砦に叩きつけられる。
凄まじい衝撃と轟音。
ドームの内側までビリビリと震えている。
エリーナは顔を真っ青にしながら必死に魔力を送り込み続け、砦を維持していた。
「……はぁ……はぁ……。なんて力……」
彼女の額から玉の汗が流れ落ちる。
防戦一方。このままでは彼女の魔力が先に尽きてしまう。
「……ふん。籠城か。見苦しいな」
ドームの外からゼフィルの嘲るような声が聞こえてくる。
「だがそれも時間の問題だ。僕のグリフォンの前では、どんな防御も無意味だと教えてやる!」
その言葉と同時に。
今までとは比べ物にならないほどの強大な魔力が、アリーナの上空に集まっていくのを俺は感じ取った。
まずい。
次の一撃は、この砦ごと俺たちを消し飛ばすつもりだ。
『エリーナ!』
俺は叫んだ。
『次の一撃で決める! 俺の最後の作戦に乗ってくれるか!?』
『……はいっ!』
彼女の返事に迷いはなかった。
その翠色の瞳は、俺への絶対的な信頼に満ちていた。
『……何でもします! 猫さんの言う通りに!』
「にゃあ!(よし!)」
俺は短く鳴いた。
そして魂の繋がりを使い、俺の一世一代の大博打を彼女に伝えた。
『俺の力をお前に全て預ける。お前はただ俺を信じて、最高の『器』を作り出せ。お前の心の中にある一番強くて美しい、守護者の姿をイメージしろ!』
それはあまりにも無謀で危険な賭け。
俺の森の王としての生命力を、彼女の未熟な創造魔法の器に注ぎ込む。
もし彼女の器が俺の力に耐えきれなければ。
彼女の精神は暴走した力に飲み込まれ、崩壊してしまうだろう。
だが今の俺たちには、もうこれしか道は残されていなかった。
「……分かりました」
エリーナはこくりと力強く頷いた。
その顔に恐怖の色はなかった。
ただ絶対的な覚悟だけが、その翠色の瞳を静かに燃えさせていた。
「私の一番強くて美しい守護者……」
彼女は目を閉じた。
そしてゆっくりと両手を胸の前で組む。
その小さな唇が、祈りの言葉を紡ぎ始めた。
その瞬間。
アリーナの上空で凝縮されていた雷と風のエネルギーが、一つの巨大な螺旋状の槍となって、俺たちの頭上へと降り注いできた。
ゼフィルとグリフォンの最大最強の合体魔法。
その名は『天罰の雷嵐槍』。
世界そのものを穿つかのような、絶対的な破壊の一撃。
だが、それよりも速く。
俺たちの奇跡は、産声を上げた。
◇
「――今ここに顕現せよ! 私の魂の守護者! 古の森の優しき王!」
エリーナの高らかな詠唱がアリーナに響き渡る。
その声に応えるかのように。
俺は体内の森の王としての生命力を一滴も残さず解放した。
翠色の光の奔流が俺の小さな身体から溢れ出し、エリーナの身体へと注ぎ込まれていく。
二人の力が完全に一つに同調し、融合する。
俺たちが作り上げた生命の砦が、内側から眩いほどの光を放ち始めた。
そしてその光は砦を突き破り、天を衝く巨大な光の柱となって舞い上がった。
天罰の雷嵐槍が、その光の柱に着弾する。
だが世界を揺るがすほどの轟音はなかった。
絶対的な破壊の力は光の柱に触れた瞬間、まるで雪が春の陽光に溶けるように、静かに、そして跡形もなく消滅してしまったのだ。
「なっ……!?」
ゼフィルが信じられないという顔で、その光景を見つめている。
観客席も審判も、誰もが声も出せずに、ただ呆然とその神々しいまでの光の柱を見上げているだけ。
やがて光が収まっていく。
そして、その光の中から現れたのは。
それはゴーレムではなかった。
それは獣でも精霊でもない。
全身が翠色の輝石でできたかのような美しい鎧を身に纏い。
背中からは若葉のような光の翼が生えている。
その顔立ちはどこかエリーナの面影を宿しているが、その瞳には森の悠久の時を宿したかのような、深い叡智の光があった。
そして、その神々しい人型の存在の肩の上。
そこに一匹の黒猫が、静かに座っていた。
俺だ。
俺の意識は今、この光の巨人と完全に一つになっている。
これはエリーナの創造魔法が生み出した最高の『器』。
そしてその器に、俺の森の王としての魂が宿った、究極の融合体。
「……なんだ……あれは……」
ゼフィルが震える声で呟いた。
その蒼い瞳に初めて、明確な『恐怖』の色が浮かんでいる。
グリフォンもまた、その圧倒的な生命のオーラの前に本能的な恐怖を感じているのか、グルルと低い唸り声を上げ、じりじりと後ずさっていた。
俺は何も言わない。
ただ静かに、光の巨人の腕を上げた。
そしてその翠色の輝石の指先を、ゼフィルとグリフォンに向けた。




