第二十六話
使い魔決闘大会は準決勝まで駒を進めていた。
学園の雰囲気はもはや熱狂という言葉でも生ぬるいほどの、一種の集団的な興奮状態に陥っていた。
その中心にいるのが、俺たち『出来損ない』と『幸運の黒猫』コンビであることは言うまでもない。
シンデレラガール。奇跡の創造魔法。謎の黒猫を使役する魔法使い。
生徒たちの間で囁かれる俺たちの二つ名は、日を追うごとに大げさで、そしてどこか現実離れしたものへと変わっていった。
まるで、おとぎ話の登場人物でも見るかのような、そんなきらきらとした視線が今は俺たちに注がれている。
もちろん、その視線のほとんどは、俺の計画通り、自信に満ちた表情で俺の隣を歩く、この赤毛のご主人様に向けられているのだが。
「すごい人だね、猫さん」
エリーナがアリーナへと続く選手用の通路を歩きながら、感嘆の声を漏らした。
壁の向こう側から、地鳴りのような観客の歓声がビリビリと空気を震わせている。今日の試合はこれまでの比ではないほどの注目を集めているらしい。
それもそのはずだ。
俺たちが勝ち進んだことで、この大会は単なる強さ比べのイベントではなくなった。誰もが予想しなかった番狂わせ。最弱であるはずの魔法の可能性。そして落ちこぼれの少女がエリートたちを次々となぎ倒していくという、あまりにもドラマチックな物語。
観客はもはやただの試合ではなく、伝説が生まれる瞬間を目撃しに来ているのだ。
「にゃあ」
俺は短く一声鳴いた。
その声にエリーナが安心したように、ふわりと微笑む。
彼女はもう以前のように、大観衆の前で震えたりはしない。
数々の勝利が彼女の心に、鋼の芯のような確かな自信を植え付けたのだ。
その成長は見ていて頼もしい。
だが、俺の心の中には一抹の拭い去れない不安があった。
今日の準決勝の相手。
そいつの情報は、あまりにも不気味だった。
精神攻撃を得意とする、幻惑系の使い魔を操る生徒。
これまでの相手のように物理的な力でねじ伏せるタイプの敵ではない。
蔦で動きを封じることも、花粉で眠らせることも、おそらく通用しないだろう。
相手の心そのものを、直接攻撃してくる。
それは俺たちが今まで一度も経験したことのない戦いになることを意味していた。
そして俺が何よりも懸念していたのは、エリーナのその心の脆さだった。
彼女は確かに強くなった。
だが、その強さはまだ生まれたてのひよこのようなもの。
過去の深い傷跡は決して消え去ったわけではない。ただ、薄い自信というかさぶたで覆われているだけだ。
もしそのかさぶたを無理やり剥がされたら。
彼女は果たして正気でいられるだろうか。
「にゃーん……(油断するなよ、ご主人様)」
俺は警告の意味を込めて低く喉を鳴らした。
エリーナは俺のそのただならぬ気配を感じ取ったのか、その翠色の瞳をわずかに緊張の色に染めた。
そうだ。それでいい。
これから始まるのは、お前の本当の強さが試される正念場なのだから。
◇
わあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!
俺たちがアリーナにその姿を現した瞬間。
観客席から割れんばかりの大歓声が巻き起こった。
もはやそこには以前のような嘲笑の色は微塵もなかった。ただ純粋な熱狂。
その熱い視線を一身に浴びながら、エリーナは胸を張り、堂々とした足取りでアリーナの中央へと進み出た。
その姿はもはや、かつての気弱な少女の面影などどこにもない。
一人の誇り高き魔法使いが、そこにいた。
アリーナの反対側のゲートから、対戦相手が姿を現す。
それは俺たちの熱狂的な登場とは対照的に、どこまでも静かな登場だった。
細身で中性的な顔立ちをした男子生徒。その顔には何の感情も浮かんでいない。
まるで精巧な硝子細工のような、無機質な美しさ。
だが、その凪いだ水面のような表情の奥に、何か得体の知れない深い闇が広がっているのを、俺は感じ取っていた。
そして、その生徒の肩の上。
そこにちょこんと一匹の使い魔がとまっていた。
それは蝶だった。
手のひらほどの大きさの、美しい瑠璃色の蝶。
その翅はステンドグラスのように光を透かし、きらきらと幻想的な輝きを放っている。
だがそのあまりの美しさが、逆に不気味だった。
その翅から絶えず金色の微細な鱗粉が、きらきらと舞い落ちている。
あれが幻術の源か。
【ドリームイーター】
人の夢や記憶を糧とする幻惑系の魔獣。その翅から撒き散らされる鱗粉は、吸い込んだ者の精神を蝕み、最も幸福な夢と最もおぞましい悪夢を同時に見せるという。
厄介極まりない能力だ。
俺はごくりと喉を鳴らした。
対戦相手の少年は俺たちを値踏みするようにじろりと一瞥すると、その薄い唇の端にかすかな嘲るような笑みを浮かべた。
「……やあ。君が噂のシンデレラガールだね?」
その声は見た目通りどこまでも平坦で、感情の起伏が感じられなかった。
「僕の美しいアゲハの餌食になるにはちょうどいい。君のその偽りの栄光が、どんな味の悪夢に変わるのか……今から楽しみだよ」
その挑発的な言葉に、エリーナは怯まなかった。
彼女はまっすぐに相手を見据え、凛とした声で言い返した。
「これは偽りなんかじゃありません! 私とこの子が二人で掴み取った本物の力です!」
その力強い宣言に観客席が再びどっと沸いた。
少年はそんなエリーナの反応が意外だったのか、ほんの少しだけその無表情な顔をゆがませた。
だがすぐに元の能面のような無表情に戻る。
「……そう。なら、その本物の力を見せてもらうとしようか」
ゴオオオオオオオオオオオオオオン!
試合開始を告げる銅鑼の音が鳴り響いた。
その音を合図としたかのように。
少年は何も、しない。ただ静かにそこに立っているだけ。
だがその肩の上で、瑠璃色の蝶、ドリームイーターがふわりと宙に舞い上がった。
そして、その美しい翅を一度大きく羽ばたかせた。
さああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!
金色の鱗粉の嵐が、アリーナ全体を覆い尽くした。
◇
世界が色を失った。
いや違う。色が溢れすぎているのだ。
目の前のアリーナの光景が、まるで水彩絵の具を無秩序にぶちまけたかのように、すべてが滲むように見えた。
地面が波打ち、観客席が溶け落ち、空が渦を巻く。
幻覚だ。
ドリームイーターの鱗粉が俺たちの五感を完全に掌握しようとしている。
「にゃっ……!(くそっ!)」
俺は咄嗟に風の魔力で自分の周囲に小さな風の壁を作り出し、鱗粉を弾き飛ばした。
森の王としての強靭な精神力が、幻術への高い耐性を俺に与えてくれている。
俺にはこの程度の幻覚は通用しない。
だが、エリーナは違う。
俺ははっとしたように隣に立つご主人様を見た。
そして俺の最悪の予感が的中したことを悟った。
「…………」
エリーナはその場に立ち尽くしていた。
その翠色の瞳から光が完全に消え失せている。
焦点の合わない虚ろな瞳が、ただ虚空を見つめているだけ。
彼女は完全に術中にはまっていた。
その小さな身体は、がたがたと小刻みに震えている。
まるで何か恐ろしいものを見ているかのように。
「……あ……あ……」
その震える唇から、か細いうめき声が漏れた。
「……いや……やめて……」
まずい。
こいつ、エリーナの心の中に直接入り込みやがった。
そして彼女の最も触れられたくない記憶を、抉り出しているのだ。
彼女のトラウマを。
「……お父様……お母様……ごめんなさい……私、炎が出せなくて……ごめんなさい……」
その声はもはや今の彼女のものではない。
もっと幼い、少女の声。
孤独だった幼少期の記憶。両親からの失望の眼差し。
その心の傷が、今、彼女の目の前で鮮やかに再現されているのだ。
「……みんな……笑ってる……。『出来損ない』だって……石を投げないで……ひとりにしないで……」
学園での嘲笑。孤独。
彼女がずっと一人で耐えてきた痛みが、次々と彼女の心を蝕んでいく。
エリーナの翠色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女はその場にゆっくりと膝から崩れ落ちる。
そして両手で頭を抱え、蹲ってしまった。
戦意は完全に喪失している。
もはや彼女の心は戦場にはない。
暗く冷たい、孤独な過去の世界に囚われてしまっている。
「……ふふっ。見ろよ。あれが君たちの希望の星の成れの果てだ」
対戦相手の少年がアリーナの向こう側で静かに嘲笑った。
その声はどこまでも冷たく、残酷だった。
「どんなに強い力を持っていても、心が脆ければ意味がない。結局君もただの出来損ないだったというわけだ」
その言葉が引き金になった。
俺の中で何かが静かに、しかし確実に燃え上がった。
怒り。
そうだ。
だが、それはエンシェント・トレント戦の時のような見境のない破壊の衝動ではない。
もっと静かで、もっと冷たい、絶対零度の怒り。
俺のご主人様をここまで追い詰めたこいつを。
そして彼女の優しい心を弄んだこの下劣な戦い方を。
俺は絶対に許さない。
物理的な介入は不可能だ。
俺があの蝶をフレイムアローで焼き尽くしたとしても、エリーナの心は戻ってこない。
彼女を救うには、彼女の心の中に直接行くしかない。
だが、どうやって?
俺は猫だ。言葉を話すことはできない。
俺の想いを彼女に伝える術はない。
――本当に、そうか?
俺の脳裏に再びエンシェント・トレントの声が響いた。
『汝は森の王。生命を司る者……』
そうだ。
俺のこの力はただの破壊の力じゃない。
生命の根源に触れる力。魂に干渉する力。
俺はまだその力の本当の使い方を知らないだけだ。
だが、やるしかない。
ここでやらなければ、俺は森の王の名を汚すことになる。
そして何よりも俺の相棒としてのプライドが、それを許さない。
「にゃあ……(待ってろエリーナ。今、俺が助けに行く)」
俺は覚悟を決めた。
蹲るエリーナの、その震える小さな肩にそっと前足を置く。
そして目を閉じた。
体内の森の王としての生命力を全て練り上げる。
だがそれを外に放出するのではない。
俺の意識そのものを、この翠色の光の奔流に乗せるのだ。
そして俺の前足が触れているこの一点から。
彼女の魂の奥深くへと、潜り込んでいく。
それは今まで一度も試したことのない、あまりにも危険な賭け。
だが、俺はもう迷わなかった。
俺の意識は温かい翠色の光に包まれ、エリーナの冷たく閉ざされた心の扉を、静かにこじ開けていった。
◇
そこはどこまでも冷たく、暗い場所だった。
音も光もない。
ただ底なしの孤独だけが支配する、無の世界。
エリーナの精神世界。
彼女の心の原風景。
そのあまりにも寂しい光景に、俺は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
その闇の中心に。
一人の少女が蹲っていた。
幼いエリーナ。まだ五歳か六歳くらいだろうか。
その小さな身体を抱きしめ、ただしくしくと泣いている。
その周りには無数の影。
父の影。母の影。学園の生徒たちの影。
その影たちが、口々に少女を責め立てていた。
『なぜ、お前は炎を出せないのだ?』
『アストリア家の恥さらしめ』
『出来損ない』
『消えてしまえ』
その悪意の言葉が冷たい鎖となって、少女の心身をがんじがらめに縛り付けている。
少女はもう泣き声さえ上げられない。
ただ絶望の中でその身を縮こませているだけ。
俺はそのあまりにも痛ましい光景に奥歯をぎりりと噛み締めた。
そして一歩前へ踏み出した。
俺の姿は猫ではなかった。
ここは精神世界。肉体の枷はない。
俺の魂そのものが、ここに存在している。
それは温かい翠色の光の塊。森の生命力そのもの。
俺はその光の姿のまま、泣きじゃくる幼いエリーナの目の前に立った。
「……だれ……?」
少女が涙に濡れた翠色の瞳を上げた。
その瞳に俺の翠色の光が映り込む。
『……俺だ』
声が出た。
猫の鳴き声ではない。俺の本当の声。魂の声。
初めて俺たちの間に、本当の言葉が交わされた。
「……その声……。猫さん……?」
少女は驚きに目を見開いている。
だがその瞳に恐怖の色はなかった。ただ純粋な好奇心。
『そうだ。お前の使い魔だ』
「……どうして……ここに……?」
『お前を助けに来た』
俺はきっぱりとそう言い放った。
そして少女を縛り付けている無数の黒い影を睨み据える。
『こんなくだらない幻はもう見るな』
「……でも……これは幻じゃない……。全部本当にあったこと……。私は出来損ないで……独りぼっちで……」
少女の瞳から再び涙がこぼれ落ちそうになる。
俺はその小さな震える肩に、光の手をそっと置いた。
『独りぼっちなんかじゃない』
その声はどこまでも優しく、そして力強かった。
『俺がいる。お前はもう一人じゃない』
その言葉が。その温もりが。
少女の凍てついた心をゆっくりと溶かしていく。
少女を縛り付けていた黒い影たちが、俺の翠色の光に触れて霧のように消え去っていく。
「……一人じゃない……?」
『ああ。俺はずっとお前のそばにいる。お前の力を誰よりも信じている』
俺は少女の涙を、光の指でそっと拭ってやった。
『だからもう泣くな。顔を上げろ。そして戦え。お前の本当の力を見せてやれ。お前は出来損ないなんかじゃない。お前の力は、この世界の誰よりも尊く美しい力なんだからな』
俺の魂からのメッセージ。
それは呪いのように彼女を縛り付けていた過去の全ての言葉を、上書きしていく。
少女の翠色の瞳に、再び強い光が灯った。
それは俺が初めて見た、彼女の本当の魂の輝き。
少女はこくりと力強く頷いた。
そして、立ち上がる。
その小さな身体から今までとは比べ物にならないほどの、強大な翠色の魔力が溢れ出した。
『……行け。お前の舞台だ』
俺がそう言うと、少女の姿は光の粒子となって消えていった。
いや違う。
今の成長したエリーナの魂と一つになったのだ。
俺の意識もゆっくりと現実世界へと引き戻されていく。
俺たちの絆は今この瞬間、決定的なものとなった。
言葉を超え、魂のレベルで結ばれた主従の絆。
さあ、反撃の時間だ。
◇
はっと、俺は現実世界で目を開けた。
アリーナの喧騒が耳に戻ってくる。
俺の目の前で蹲っていたエリーナが、ゆっくりと顔を上げた。
その翠色の瞳。
もうそこには一片の迷いもなかった。
ただ絶対的な自信と、静かなる闘志が燃え盛っている。
「……ありがとう、猫さん」
彼女は俺にだけ聞こえるような小さな声でそう呟いた。
そして立ち上がる。
その凛とした立ち姿に、観客席がざわめいた。
対戦相手の少年も、彼女のあまりの変貌ぶりに驚きを隠せないでいた。
「……な、なんだ……? 幻術はまだ解いていないはず……」
エリーナはそんな相手の戸惑いなど意に介さず、静かに両手を胸の前で組んだ。
そして祈るように目を閉じる。
「……もう迷わない。私の心の中にいるもう一人の私。ずっと私を守ってきてくれた私の強さ。今こそその姿を現して……!」
彼女の詠唱に応えるかのように。
彼女の身体から眩いほどの翠色の光が溢れ出した。
その光は彼女の目の前で、一つの形を成していく。
それはゴーレムだった。
だが今まで彼女が作ってきた不格好な土人形ではない。
全身が翠色の輝石そのものでできたかのような、美しく、そして神々しい光の巨人。
その巨人の顔立ちはどこかエリーナの面影を宿している。
それは彼女の心そのもの。
彼女の孤独な心をずっと内側から守り続けてきた、彼女自身の強さの象徴。
光のゴーレムは、その巨大な拳を振り上げた。
そしてアリーナ全体を覆っていた幻惑の空間に向かって、その拳を叩きつける。
だがそれは破壊の一撃ではなかった。
拳から放たれたのは、温かい生命の光の波動。
その波動に触れた瞬間。
ぐにゃりと歪んでいた世界が、ぱりんと硝子が割れるような音を立てて砕け散った。
幻術が完全に浄化されたのだ。
「なっ……!?」
対戦相手の少年が驚愕に目を見開く。
その肩の上で瑠璃色の蝶、ドリームイーターが苦しげにその翅を震わせた。
精神的な光の圧力に耐えきれなかったのだ。
蝶は力なくふらふらと舞い落ち、主人の肩の上でぐったりと動かなくなった。
完全に戦意を喪失している。
勝負、あり。
「……ば、馬鹿な……。僕のアゲハが……」
少年は呆然と呟いた。
その無表情な仮面が剥がれ落ち、そこにはただ純粋な敗北に打ちのめされた、少年の素顔があった。
審判が高らかに宣言する。
「しょ、勝者! エリーナ・アストリアーっ! 決勝進出ーっ!」
その声にアリーナは再び地鳴りのような大歓声に包まれた。
その熱狂の中心で。
エリーナは俺に向かって、今までで一番美しい笑顔を見せた。
俺はその笑顔に、ただ満足げに喉を鳴らして応えた。
俺のご主人様には勝利がふさわしい、と改めて思った。




