第二十二話
「……猫さん、見てて。今度はきっと……!」
エリーナは少しだけ変わった。
以前のおどおどとした自信なさげな態度は消え失せ、その翠色の瞳には常にひたむきな探求の光があった。
彼女は授業以外の時間のほとんどを、魔法の自主練習に費やすようになった。
俺たちの狭い部屋の中、あるいは人のいない中庭の隅で。彼女は飽きることなく土くれと向き合い続けている。
「……万物の母なる大地よ。我が声に応え、形を成せ……!」
その呪文の響きも以前よりずっと力強い。
彼女の指先から放たれる翠色の魔力が地面の土を集め、一つの形を作り上げていく。生まれてくる土人形は相変わらず不格好だ。
だが、以前のように数歩歩いただけで崩れてしまうことはなくなった。
ぎこちない動きながらも、確かに自分の足で立ち、歩き、時には小さなお辞儀のような仕草さえしてみせる。
そのささやかな進歩。
その一つ一つが、彼女の固く閉ざされた心に自信という名の温かい光を灯しているのが、俺には分かった。
「……すごい! 動いた! 私のゴーレムが……!」
土人形が十秒間その姿を保っただけで、彼女はまるで子供のように瞳をきらきらと輝かせる。
その無邪気な笑顔を見るたびに、俺の心の奥底がちくりと痛んだ。
俺は彼女を利用している。チカの元へ帰るという目的のために。この純粋な少女の信頼を隠れ蓑にしている。
その罪悪感が時々俺の胸を締め付ける。
だが、俺はその感傷を振り払うように首を振った。今は非情になる時だ。
全てはあいつと再会するために。
俺の夜の探索活動も日課となっていた。
エリーナが眠りについたのを確認すると、俺は音もなく窓から抜け出し、屋根の上を駆け巡る。目的地はいつも図書館だ。
あの日、俺が感じ取った微かなマナの流れ。エターナル・フォレストへと繋がる生命の道標。
その流れの正体を突き止めるため、俺は夜な夜な古文書の山と格闘していた。
だが、手がかりは一向に見つからない。
この学園の膨大な蔵書の中にも、あの森に関する記述は皆無に近い。
中世を思わせる地図、そこにある広大な森林地帯。
つまりそれによれば、この魔王学園からひたすら北へ北へ向かうしかない、そんな目印にすらならない、酷く曖昧なことしか分からないのだ。
そんな穏やかで、それでいてどこか張り詰めたような日常。
それが永遠に続くかのように思われた。
◇
その噂は、最初はささやかな囁きに過ぎなかった。
「ねえ、聞いた? 最近、夜中に変な物音がするって」
「ああ、知ってる。西寮の裏手だろ? 何かが地面を引っ掻くような音だって」
「ただの野良犬か何かじゃないの?」
生徒たちのそんな他愛のない会話。俺も最初は気にも留めていなかった。
だが、その噂は日を追うごとに不吉な色合いが増していく。
「西寮の三年生の先輩が倒れたらしいわよ」
「え、本当!? 原因は何なの?」
「それが分からないんですって。ただ、極度の魔力欠乏症で意識が戻らないって……」
魔力欠乏症。
その言葉に、俺は初めてぴくりと耳を動かした。
俺もポイズン・ハイドラとの闘いで経験した、あの全身の力が抜け落ちるような感覚。だが、普通の学生が訓練でそこまで魔力を使い果たすとは考えにくい。
何かがおかしい。
俺の森の王としての本能が、微かな危険信号を発していた。
そして、その予感は最悪の形で現実のものとなった。
ある晴れた昼下がり。学園中にけたたましい警鐘の音が鳴り響いたのだ。
カン、カン、カン、カン、と。
それは非常事態を告げる鐘の音。
生徒たちが何事かと窓の外へ駆け寄る。俺もエリーナの部屋の窓枠に飛び乗り、外の様子をうかがった。
西寮の中庭に人だかりができている。教師たちが険しい顔で何かを取り囲んでいた。その中心に何かが倒れているのが見えた。
人だ。ローブを着た生徒が地面に倒れている。
学園内は一瞬にしてパニックに包まれた。
悲鳴と怒号があちこちから上がる。教師たちが生徒たちを寮の中へと避難させようと大声を張り上げていた。
俺はその混乱の中心を、金色の瞳でじっと見つめていた。
倒れている生徒。その身体から生命力が急速に失われていくのが、俺には分かった。魔力が根こそぎ吸い取られている。それも極めて乱暴なやり方で。
まるで熟した果実から、無理やり果汁を絞り出すかのように。
これは事故じゃない。事件だ。
何者かが生徒を襲っている。それも、魔力を喰らう何かが。
俺の脳裏に、あの猫神の軽い声が蘇る。
『次のステージが、君を待っている』
……これか。
これが、俺が挑むべき新たなゲームというわけか。
ふざけた真似を。人の命を何だと思っている。
俺の心の奥底で、静かな怒りの炎が燃え上がった。
◇
その日の夜、学園は厳戒態勢そのものだった。
屈強な体格の騎士のような男たちが廊下を巡回し、生徒たちには自室からの外出が固く禁じられた。
エリーナも不安げな顔で、ベッドの中で毛布にくるまっている。
「……怖いな……。一体何が起こってるんだろう……」
その不安げな声に、俺は返事の代わりに喉をごろごろと鳴らしてやった。
大丈夫だ。俺がいる。
俺は彼女が安心し眠りにつくのを待った。やがて穏やかな寝息が聞こえ始めたのを確認すると、俺は音もなくベッドから抜け出した。
そして、いつものように窓から外へ。
今夜はただの情報収集じゃない。
犯人を探し出す。この忌々しい事件の真相を、俺自身の手で暴き出すのだ。
月明かりが石造りの建物を青白く照らし出していた。
俺は屋根の上を風のように駆け抜けた。目指すは事件現場、西寮の中庭。巡回している騎士たちの目をかいくぐり、現場にたどり着くのは造作もなかった。
中庭は立ち入り禁止のロープが張られ、静まり返っている。俺はロープの下をするりとくぐり抜け、内部へと侵入した。
そして、鼻をひくつかせる。森の王として研ぎ澄まされた俺の嗅覚と感覚が、この場所に残された微かな痕跡を探り始める。
血の匂い。恐怖に染まった人間の匂い。
そして、それらとは全く違う気配。それは匂いというよりも、空間にこびりついた染みのような残滓。
俺はその気配を辿り、中庭の隅にある一本の大木の根元へとたどり着いた。その根元に何か黒いものが付着している。粘り気のあるタールのような液体。
俺はそれに鼻を近づけた。
そして、その正体を理解した瞬間、全身の毛がぶわっと逆立った。
これは……。
森の匂いじゃない。いや、俺が知っているどんな魔物の匂いとも違う。
俺はエンシェント・トレントから受け継いだ森の記憶の中を探る。だが、こんな存在はどこにも記録されていなかった。
こいつは、この世界の理から外れたイレギュラーな存在なのだ。
これは生命の匂いがしない。つまり、生きているものの匂いじゃないんだ。
もっと人工的で不自然な何か。
生命の循環。生まれて生きて、そして死んで土に還る。その森の絶対的な法則を完全に無視した存在。死と憎悪。ただそれだけを糧にして動く何か。
まるで悪意そのものが形を持ったかのような、おぞましい気配。
猫神が言っていた。
『平和を、君自身の手で、守ってみせるがいい』
まさか、こいつをこの学園に放ったのも、あのふざけた神の仕業だとでもいうのか。だとしたら、あまりにも悪質すぎる冗談だ。
俺は地面にこびりついた黒い粘液を、憎々しげに睨みつけた。
犯人の手がかりは掴んだ。だが、これだけではまだ足りない。こいつの正体を突き止めなければ。
俺は再び図書館へと向かうことにした。こんな異質な存在について書かれているとしたら、それは普通の書庫にはないだろう。もっと特別な場所に隠されているはずだ。
例えば、特別な許可がなければ入れないという、あの禁書庫とやらに。
◇
禁書庫への侵入は、想像以上に困難を極めた。
図書館の最奥、鉄格子で固く閉ざされたその扉。その周囲には何重にも強力な防御魔法が張り巡らされていた。物理的に鍵をこじ開けるのは不可能だろう。そして、魔法を使えば即座に警報が鳴り響く。
では、どうするか?
俺は鉄格子の前で、腕を組み唸った。いや、猫だから前足を組んで唸った。
その時、俺の森の王としての感覚が再び何かを捉えた。
魔力の流れ。この禁書庫を守る魔力の流れの中に、ほんのわずかだが淀みというか、綻びというか、脆弱な結び目というべきものがある。
おそらくだが、この結界を張った魔法使いの癖のようなものだろう。
どんなに完璧に見えるシステムにも、必ずどこかに綻びはあるものだ。
俺は、その綻びに自分の生命の力を針のように細く絞って、そっと流し込んでみた。俺の力は、ここ学園に満ちる人工的な魔力とは違う、もっと根源的な自然の力なのだ。
俺の生命のような力が結界の結び目に触れた瞬間。
ぱち、と。
小さな音を立てて、結界の一部がほんの一瞬だけ機能不全に陥った。
ほんの猫一匹が通り抜けられるだけの、小さな穴。好機は一瞬だった。
「にゃっ!(もらった!)」
俺はその一瞬の隙を見逃さなかった。
風魔法を使うまでもない。猫ならではのしなやかな身のこなしで、するりと綻びをすり抜ける。
そして音もなく禁書庫の内部へと着地した。
背後で結界が元に戻る気配がした。ふぅ、と息をつく。
我ながら、見事な潜入劇だった。
禁書庫の中は埃とインクの匂いが充満していた。
ここに収められているのは、表の図書館には置けないような危険な知識。禁断の魔法か、古代の呪い。あるいはこの国の歴史の闇に葬られた不都合な真実だろう。
俺はその禁断の知識の森の中を、慎重に進んでいった。
そしてついに、一つの書架の前で足を止める。そこに収められていたのは地図だった。それも普通の紙に描かれたものではない。獣の皮をなめした古い羊皮紙に描かれた、古い古い地図。
俺は、その一枚を本棚から引きずり出す。
そして床に広げた。
その瞬間、俺は息をのんだ。
そこに描かれていたのは、見覚えのある地形だった。
三つの特徴的な山脈。蛇行する巨大な川。そしてその中心に広がる、どこまでも広大な森林地帯。
間違いない。これは俺がいた、あの森だ。
エターナル・フォレストだ。
俺は地図の隅に記された古代語の文字を読んだ。森の王として受け継いだ知識が、その意味を俺に教えてくれる。
『始まりの森』
そう書かれていた。
見つけた。ついに見つけたぞ!
俺が帰るべき場所。チカが待っている故郷。
俺は込み上げてくる歓喜に思わず震えた。俺はその地図を口に咥える。そして、急いで禁書庫を後にする。
一度、綻びを見つけた俺にとって、再び同じ綻びを突くことは動作もないことだった。
するりと禁書庫から抜け出しながら、俺は考えた。
これで目的地は定まった。
あとは、どうやってここから学園を抜け出すか。
そう。俺は、このまま、ご主人様を放置して学園から抜け出すことができる。
けれど。
それは俺の流儀じゃない。
俺はエリーナの部屋へと戻りながら、さらに思考を巡らせていた。
この学園を襲う見えない脅威から、ご主人様の社会的な孤立から、使い魔の黒猫として、ご主人様を守り抜く。
その暁には、この胸を張って学園を出ていくのだ。
俺は口に咥えた古地図をぎゅっと噛み締めた。
その羊皮紙の感触が、チカの温もりを思い出させた。




