第二話
……寒い。
最初に感じたのは、それだった。硬く、冷たい何かが、全身に触れている。ごつごつとしていて、寝心地は最悪だ。まるで、砂利の上で無理やり寝かされているみたいだ。大学のサークルの新歓コンパで酔い潰れて、公園のベンチで朝を迎えた時よりもひどい。
次に、匂い。
むせ返るような土の匂いと、青々とした草いきれの匂い。それから、雨に濡れた後のような、湿気をたっぷり含んだ空気の匂い。知らない匂いが、鼻の奥をツンと刺激する。俺のアパートの周りでは嗅いだことのない、やけに濃密な自然の香りだ。コンクリートと排気ガスに慣れた鼻には、少し強すぎた。
なんだ、ここは。
俺は確か、大学からの帰り道で……あの古びた社に寄って、猫神様に愚痴をこぼして……そうだ、その帰りに、白い光に……。
ゆっくりと、意識が浮上してくる。記憶が断片的に蘇る。あの全てを真っ白に塗りつぶすような光、そして頭の中に直接流れ込んできた、あのやけに軽い声。そうだ、俺は何か、とんでもないことに巻き込まれたんじゃなかったか。
重たい瞼を、なんとかこじ開けた。
そして、俺は言葉を失った。
目の前に広がるのは、見渡す限りの森だった。
いや、森というよりは、ジャングルと呼んだ方が正しいかもしれない。見たこともないような巨大な木々が天に向かって伸び、空を覆い隠している。その幹は、大人が数人がかりで手を回しても届きそうにないほど太い。地面はシダのような植物でびっしりと覆われ、所々で淡い光を放つキノコが不気味に点滅している。俺が寝ていたのは、そんな巨大な木の、岩のように隆起した根元らしかった。
状況が全く理解できない。誘拐か? いや、だとしたら、なぜこんな場所に放置されているんだ。何かのドッキリか? にしては、スケールが大きすぎる。この壮大な自然は、どう見ても作り物には見えなかった。空気の味が違う。植物の放つ生命力が、肌で感じられるほど濃い。
とにかく、起き上がって現状を確認しなければ。
そう思って、俺は身体に力を込めた。
ぐにゃり。
奇妙な感覚。手足を動かそうとしたはずなのに、まるで自分の身体ではないような、ちぐはぐな動き方をする。まるで、初めて自転車に乗った時のような、もどかしさ。脳からの指令が、身体の末端まで正しく届いていない感じだ。神経が一本、どこかで断線しているような。
「う……にゃあ」
声を出そうとして、喉から飛び出したのは、そんな間抜けな音だった。
……にゃあ?
今、俺は「にゃあ」と言ったのか? 自分の声じゃない。高くて、可愛らしい……猫の声だ。いつも俺がベランダで聞かされていた、あの要求がましい声とそっくりじゃないか。
混乱する頭で、もう一度、声を出してみる。
「にゃ、にゃあ……ごろごろ」
だめだ。どうやっても、猫の鳴き声しか出てこない。しかも、なぜか喉が勝手に奇妙な音を立てている。この振動、知ってる。猫が満足した時に出す音だ。こんな状況で、何に満足してるっていうんだ、この身体は! 空気を読め!
パニックになりながら、俺は自分の『手』を見た。
そこにあったのは、人間の手ではなかった。
夜の闇を固めたような、漆黒の毛に覆われた、小さな前足。その先には、鋭く尖った爪が、キラリと光っている。
嘘だろ。
俺はもう片方の『手』も見てみる。同じだ。黒い毛皮の、可愛らしい肉球がついた、紛れもない猫の前足。ぷにぷにとした感触が、なぜか鮮明に脳に伝わってくる。押すと気持ちいい。いや、感心してる場合か!
自分の身体を見下ろす。しなやかに伸びる胴体も、ふさふさとした尻尾も、全てが黒い毛で覆われている。あの社で見た、黒猫とそっくりだ。
信じられない思いで、俺はよろよろと立ち上がった。四本の足で地面を踏みしめる感覚は、あまりにも奇妙で、慣れない。二本足で自由に歩き回っていた、ついさっきまでの自分が遠い昔のことのようだ。数歩歩いては、もつれて転ぶ。そのたびに、自分の視界の低さに愕然とする。地面を覆う草の一本一本が、まるで自分の背丈ほどもあるように見える。世界が、巨大だ。
まさか。
そんな、馬鹿なことがあるはずない。
俺は、人間だ。猫に振り回されるのが日常の、ただのしがない大学生だったはずだ。
それが、どうして。
脳裏に、あの軽い声が蘇る。
『あ、君に決めた』
『面白そうだから、頑張ってね』
……あの時の声。あれは、猫神様の声だったのか。俺の愚痴を聞いていた、あの神様が。
そして、俺は『選ばれて』、猫にされてしまった、とでもいうのか。面白そうだから、という、ただそれだけの理由で?
冗談じゃない。
ふざけるな! 人の人生をなんだと思ってるんだ! 俺は猫に振り回されるのはもうごめんだって言っただろうが! 自分が猫になるなんて、もっと最悪じゃないか!
そんな軽いノリで、人の人生を、いや、種族そのものを変えてしまうなんてことが、許されていいはずがない。
俺は、この見知らぬ森で、一匹の黒猫として生きていけと?
あまりの理不尽さに、頭がくらくらする。怒りと絶望と混乱で、思考がぐちゃぐちゃになる。
俺は天を仰ぎ、ありったけの声で、この理不尽な運命への抗議を叫んだ。
「にゃああああああああああああああああッ!」
森中にこだましたのは、ただ、一匹の猫の情けない絶叫だけだった。
◇
俺の悲痛な叫びは、どこまでも広がる不気味な森に吸い込まれて消えた。いや、叫びというよりは、ただの猫の鳴き声だ。それがまた、どうしようもなく腹立たしい。抗議の言葉すら、この身体は許してくれないらしい。
俺は、猫になった。
改めてその事実を認識すると、足元から地面が崩れ落ちていくような感覚に襲われる。冗談じゃない。俺は人間だ。名前だってある。それがどうだ。今の俺は、名もなき一匹の黒猫。それ以上でも、それ以下でもない。
あの軽いノリの神様……猫神の仕業であることは、ほぼ間違いないだろう。『面白そうだから』、ただそれだけの理由で、俺の人生は無茶くちゃにされたのだ。ふざけるな。ふざけるなよ! 猫の世話で苦労はしても、猫自身になりたいなんて、ただの一度だって思ったことはない!
怒りで全身の毛が逆立つのが分かった。猫の身体は、感情がストレートに表に出てしまうらしい。これもまた、不便で仕方がない。人間だった頃のように、ポーカーフェイスで感情を隠すことすらできないなんて。
地面にへたり込み、黒い毛玉のような自分の前足をじっと見つめる。ぷにぷにした肉球。鋭い爪。どう見ても、これは現実だ。夢なら早く覚めてくれと何度願っても、目の前の光景は変わらない。湿った土の匂い、肌を撫でる生ぬるい風、遠くで聞こえる知らない鳥の鳴き声。五感の全てが、ここが異世界なのだと訴えかけてくる。
これから、どうすればいいんだ。
この森で、猫として生きていけと? 冗談じゃない。俺は都会育ちのひ弱な大学生だぞ。サバイバルの知識なんて、せいぜいテレビで見たことがある程度だ。ましてや、猫の身体でなんて。餌はどうする? 寝床は? 雨が降ったら? 危険な動物に襲われたら?
考えれば考えるほど、目の前が真っ暗になる。これはもう、絶望という名の底なし沼だ。希望の光なんて、どこにも見当たらない。ああ、もうダメだ。俺の人生、ここで終わりか。せめて最期は、あのふてぶてしいメインクーンの動画を見ながら……。
そんな風に、俺が本格的に現実逃避を始めようとした、その時だった。
ガサガサッ!
すぐ近くの茂みが、激しく揺れた。
びくりと身体が跳ねる。全身の神経が、一瞬で警戒態勢に入るのを感じた。これも猫の本能なのだろうか。人間の時にはなかった、危険に対する過剰なまでの反応だ。
俺は茂みから目を離さずに、じりじりと後ずさる。四本足のもどかしい動きが、今はただ憎い。もっと速く、もっと静かに動きたいのに、身体が言うことを聞かない。
ガサッ、ガサガサッ!
茂みの揺れが、どんどん大きくなる。何かが、こちらに向かってきている。それも、かなりの大きさの何かが。
やがて、茂みの中からぬっと姿を現したのは、俺がよく知る動物だった。
ウサギだ。
ぴんと立った長い耳。もふもふとした白い毛並み。愛くるしい三日月の口元。だが、その姿に安堵したのは、ほんの一瞬だけだった。
そのウサギは、異常だった。
まず、大きさが尋常じゃない。そこらの大型犬くらいはあるだろうか。俺が猫の視点だから大きく見える、というレベルではない。明らかに、生態系がおかしい。
そして何より、その口元から、まるでサーベルタイガーのように鋭く湾曲した二本の牙が、不気味に突き出ていた。牙の先端は茶色く汚れ、こびりついた何かが乾いている。
さらに、その目が、血のように赤く輝いていた。その赤い瞳は、俺の姿を捉えると、ぴたりと動きを止める。
こいつは、ヤバい。
そう思った瞬間、頭の中に直接、情報が流れ込んできた。まるで、検索結果がポップアップ表示されるみたいに。
【ホーンラビット】。鋭い牙を持つ、気性の荒い草食性の魔物。縄張り意識が非常に強い。
なんだこれは……? 鑑定スキル的なやつか? そういえば、あの神様の声、最後に何か言っていたような……。
『ああ、そうだ。ちょっとしたオマケも付けといてあげるよ』
これか! このご丁寧な解説機能が『オマケ』か! いや、ありがたいけど、それならもっとマシな身体にしてくれよ!
鑑定結果を理解する間もなく、ホーンラビットは巨大な身体を低く屈め、後ろ足に力を溜める。筋肉が盛り上がるのが、白い毛皮の上からでもはっきりと見て取れた。あれは草食動物の穏やかな目ではない。獲物を見つけた捕食者の、飢えた目だ。
逃げろ。
頭の中で、誰かが叫んだ。
理屈じゃない。本能が、生存するための唯一の選択肢を俺に突きつけていた。
ホーンラビットが地面を蹴るのと、俺が身を翻したのは、ほぼ同時だった。
「ミ゛ャアアアアッ!」
情けない悲鳴が、また喉から飛び出す。
ドスッ! という鈍い音と共に、ほんの数瞬前まで俺がいた場所に、巨大な牙が突き刺さる。土がえぐれ、草が舞い散った。もし反応が少しでも遅れていたら、俺の小さな身体は、あの牙で串刺しにされていただろう。
全身の血が、一瞬で氷になったかのような感覚。
だが、立ち止まっている暇はなかった。初撃を外したホーンラビットは、すぐに体勢を立て直し、再び赤い目で俺を睨めつける。
俺は、もつれる足を必死に動かして、がむしゃらに走った。どこへ向かうかなんて、考えている余裕はない。ただ、あの牙から、あの赤い目から、一秒でも長く遠ざかりたい。その一心だった。
しかし、猫の身体はまだ俺に馴染んでいない。四本の足の連携がうまくいかず、何度も転びそうになる。そのたびに、背後から迫るホーンラビットの荒い息遣いが、すぐそこまで聞こえてくるようで、たまらない恐怖に襲われる。
速い。あのでかい図体で、なんて速さだ。
あっという間に距離を詰められる。もうダメだ。追いつかれる。
絶望が脳裏をよぎった、その瞬間。
目の前に、巨大な木の幹が現れた。俺が最初に目を覚ました、あの木の根元だ。
その時、俺の意思とは関係なく、身体が勝手に動いた。
地面を強く蹴る。
にわかには信じられないほどの跳躍力で、俺の身体は宙を舞った。まるでバネでも仕込まれていたかのように、軽々と。人間だった頃には、決して届くことのなかった高さへ。
そして、前足の先から、カシャン、と鋭い爪が飛び出す感覚。
その爪を、木の幹に突き立てる。
ザシュッ、ザシュッ、ザシュッ!
俺は、まるでロッククライマーのように、垂直な木の幹を駆け上がっていた。自分の身体能力に驚いている暇もない。ただ、上へ、上へ。ホーンラビットが届かない、安全な場所へ。
背後で、「ギィッ!」という悔しそうな鳴き声が聞こえた。ちらりと下を見やると、ホーンラビットが木の周りをぐるぐると回りながら、赤い目で俺を睨み上げている。その口元からは、涎がだらだらと垂れていた。どうやら、木登りはできないらしい。
助かった……。
そう思った途端、全身から力が抜けた。俺は、なんとか近くの太い枝に身体を移動させると、そこにぐったりと突っ伏した。あり得ない速さで動く心臓の音が、頭の中でガンガン鳴っている。全身の筋肉が、情けないくらいに小刻みに震えていた。
◇
どれくらいの時間が経っただろうか。
木の枝の上で、俺はただ荒い呼吸を繰り返していた。下からは、まだホーンラビットの執念深い気配がする。諦めてどこかへ行くまで、ここから動くことはできそうにない。
少しだけ冷静さを取り戻した頭で、先ほどの出来事を反芻する。
死ぬかと思った。本気で。
あの牙が、もし俺を捉えていたら。考えただけで、全身の毛がまた逆立つ。
そして、同時に、猛烈な自己嫌悪が押し寄せてきた。
なんて情けないんだ、俺は。
訳も分からず猫にされ、絶望して泣き言を並べ、得体の知れないウサギに追い回されて、必死に逃げ惑う。最後の木登りに至っては、完全に猫の本能頼み。俺自身の力で成し遂げたことなんて、何一つないじゃないか。
人間だった頃のプライド? そんなもの、あの牙の前では何の役にも立たなかった。知識も、理性も、全てが吹っ飛んで、ただ生き延びるためだけに、みっともなく逃げ回っただけだ。
ははっ、と乾いた笑いが漏れた。いや、猫の喉からは「にゃはは」という、これまた間抜けな音しか出てこないのだが。
結局、俺は何もできないのか。この理不尽な世界で、ただ怯え、逃げ惑い、運が尽きたらあっけなく食われて死ぬだけの、ちっぽけな存在なのか。
……それで、いいのか?
俺の人生は、本当にそれで終わりでいいのか?
あの猫神の、ふざけた『面白そうだから』という一言のせいで、こんな無様な最期を迎えることが、俺の運命なのか?
嫌だ。
そんなのは、絶対に嫌だ。
冗談じゃない。俺はまだ、何もしていない。死ぬにしても、せめてあいつに一発、爪の跡くらいは残してやりたい。俺がここにいたという証を、この理不尽な世界に刻みつけてやりたい。
ふと、思考が奇妙な方向に転がった。
そうだ。これは、そういうことなんじゃないか?
これは、ゲームなんだ。
あの猫神が、俺というプレイヤーを選んで、この『異世界サバイバル』という名の、とんでもないクソゲーに放り込んだ。理不尽な初期設定。不親切なノーヒント。いきなりのボス級モンスターとの遭遇。ああ、何もかもが最近のゲームのトレンドとは真逆だ。だが、そう考えれば、少しは納得がいく。
これは、チュートリアルなんだ。
この世界で生き抜くための、最低限のルールを身体で覚えさせるための、手荒い歓迎イベント。そうに違いない。
そう思った瞬間、すっと頭が冷えていくのを感じた。
絶望と混乱で満たされていた灰色の脳内が、クリアな青色に変わっていく。さっきまでのパニックが嘘のように、思考が冴え渡る。
そうだ、ゲームだと思えばいい。これは、神様から与えられた、壮大な暇つぶしだ。クリアできるかどうかは分からない。エンディングがあるのかさえ怪しい。だが、ただ絶望してゲームオーバーになるよりは、足掻いて、足掻いて、少しでも面白いプレイを見せてやる方が、よっぽどマシだ。
あの神様、きっとどこかで見ているんだろう。俺の無様な姿を、高みの見物と洒落込んでいるに違いない。だったら、見てろよ。お前が面白半分で選んだこの俺が、このクソゲーをどこまで攻略できるか、その目で見届けさせてやる。
俺は、枝の上でゆっくりと身を起こした。
絶望している暇はない。今は、次の手を考える時だ。
まずは、情報収集と戦力分析からだ。ゲームの基本中の基本だろう。
俺は、自分の身体を注意深く観察し始めた。
まず、この身体。黒猫。さっきの木登りで証明されたように、身体能力は人間だった頃とは比べ物にならない。跳躍力、瞬発力、バランス感覚。そして、この爪。木の幹に突き立てた時の感触を思い出す。あれは、立派な武器になる。
次に、五感。
目を凝らすと、森の奥の、薄暗い場所にある小さな虫の動きまではっきりと見える。視力は、とんでもなく良いらしい。
耳を澄ませば、風が木の葉を揺らす音、遠くで水が流れる音、様々な生き物の立てる微かな物音が、立体的に聞こえてくる。聴覚も、人間の比じゃない。
鼻をひくつかせると、土や草の匂いにまじって、先ほどのホーンラビットの獣臭さや、甘い花の香り、きのこの胞子の匂いなど、無数の情報が鼻腔を駆け巡る。嗅覚も、超高性能だ。
これだけの索敵能力があれば、不意打ちを受けるリスクはかなり減らせるはずだ。これは大きなアドバンテージだ。
そして、何より最大の武器は、この頭脳。俺が人間だった頃に培った、知識と、思考力だ。
例えば、さっきのホーンラビット。あいつは確かに強かった。だが、動きは直線的で、単純だった。知性はおそらく、あまり高くない。木に登れないという弱点もある。そうやって冷静に分析すれば、対処法はいくらでも考えられるはずだ。
そうだ。俺は無力じゃない。猫の身体能力と、人間の知性。この二つを組み合わせれば、この理不尽な世界でも、十分にやっていけるんじゃないか?
下を見やると、ホーンラビットはまだ諦めきれない様子で、木の根元をうろうろしていた。あの赤い目が、憎たらしくこちらを睨んでいる。
だが、もうさっきまでの俺とは違う。
今の俺にとって、お前は絶望の象徴じゃない。
お前は、このゲームで俺が最初に倒すべき、記念すべき一体目のモンスターだ。
どうやってお前を狩ってやろうか。どうすれば、安全に、効率よく、そして華麗に勝利できるか。
思考を巡らせるのが、楽しくなってきた。
そうだ、それでいい。楽しまなくちゃ損だ。どうせなら、このクソゲー、とことんしゃぶり尽くしてやる。
俺は、夜の闇を映したような漆黒の毛並みを風に揺らしながら、枝の先へと進み出た。そして、眼下に広がる未知の森と、最初の獲物を見据えた。