表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒猫転生~理不尽な異世界で魔法と爪牙で生き抜く~  作者: 速水静香
第二章:アストリア王立魔法学園

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/29

第十九話

 儀式場を支配していた重苦しい空気は、俺のささやかな反抗によってほんの少しだけその色を変えた。

 教頭と呼ばれた年老いた男は、忌々しげに舌打ちを一つすると、「好きにするがよい。だが、決定は覆らんぞ」と冷たく言い放ち、ローブの裾を翻して去っていった。その後に続く生徒たちの視線は、もはや嘲笑だけではなかった。得体の知れない黒猫に対するわずかな警戒と好奇。そして、そんな猫に固執する『出来損ない』の少女エリーナに対する、より一層深い侮蔑の色がそこにはあった。

 だが、そんな周囲の視線など、今の俺たちにはどうでもいいことだった。


「……猫、さん……?」


 エリーナが、涙に濡れた翠色の瞳で俺をおそるおそるといった様子で見つめている。その声はまだか細く震えていた。

 俺は返事の代わりに、もう一度「にゃあ」と短く鳴いてみせる。

 大丈夫だ。俺がいる。

 その単純なメッセージだけが彼女に伝われば、今はそれで十分だった。


 エリーナはしばらくの間、呆然と俺を見つめていたが、やがてその瞳にほんのわずかだが意志の光が戻ってきた。彼女はごしごしと制服の袖で乱暴に涙を拭うと、震える足でゆっくりと立ち上がった。

 そして、俺に向かって小さな震える手を差し伸べてくる。


「……一緒に、来てくれる……の?」


 その問いかけに、俺は迷わずその小さな手の中に自分の頭をぐりぐりと押し付けた。

 温かい。人間の柔らかな肌の感触。森では決して味わうことのできなかった温もり。その温もりが、チカを失った俺の心の空虚な部分にじんわりと染み渡っていくようだった。


「……ありがとう」


 エリーナはそう呟くと、俺の小さな身体を壊れ物を扱うかのようにそっと優しく抱き上げた。

 こうして、俺とこの世界の仮初のご主人様との主従関係は始まった。

 もちろん、俺の心の中にある本当の目的はただ一つ。

 一刻も早く、チカの元へ帰ること。

 そのための、これは一時的な潜入作戦に過ぎない。

 俺はエリーナの腕に抱かれながら、誰にも気づかれぬよう心の奥底で静かに牙を研いでいた。



 アストリア王立魔法学園。

 それが、俺が新たに送り込まれた場所の名前らしい。

 エリーナに抱かれて歩く学園の廊下は、とにかく広くて長かった。床も壁も天井も、全てが寸分の狂いもなく磨き上げられた大理石でできている。窓はステンドグラスになっており、そこから差し込む光が床に色とりどりの模様を描き出していた。

 俺がいた森の荒々しい自然とは対極にある、人工的な美しさ。だが、その美しさにはどこか冷たい無機質な感じがあった。森の木々がそれぞれ個性を持って自由に枝を伸ばしていたのとは違う。ここでは全てのものが完璧な秩序の下に管理されている。そんな息苦しさを俺は感じていた。


 すれ違う生徒たちが、俺たちに好奇の視線を向けてくる。そして、ひそひそと囁き合う。


「あれが、エリーナ様の……」

「まあ、本当にただの黒猫なのね」

「伝説の魔法陣を使ったというのに、この結果とは……アストリア家の恥さらしめ」


 その悪意に満ちた言葉のナイフが、俺の超高性能な耳に容赦なく突き刺さる。

 俺を抱くエリーナの腕に、ぎゅっと力が入るのが分かった。彼女は顔を俯かせ、ただ黙々と歩き続けている。その小さな背中が、あまりにも頼りなく震えているように見えた。

 俺は思わずその背中に向かって、喉をごろごろと鳴らしてやった。大丈夫だ。気にするな。そんな意味を込めて。

 エリーナは、はっとしたように俺の顔を見た。そして、ほんの少しだけその唇の端に力ない笑みを浮かべた。


 やがて俺たちは、一際古びた小さな扉の前にたどり着いた。どうやら、ここがエリーナの部屋らしい。彼女は扉を開けると、俺をそっと床に下ろした。

 部屋は狭かった。ベッドと机と小さな本棚。それだけでもう足の踏み場もない。だが、部屋の中はきちんと整理整頓されており、彼女の真面目な性格がうかがえた。

 窓から差し込む夕日が、部屋の中をオレンジ色に染めている。


 エリーナは扉を閉めると、その場にずるずると座り込んでしまった。そして、両手で顔を覆う。その小さな肩が小刻みに震え始めた。嗚咽を必死にこらえているのが分かる。

 退学。

 その無慈悲な宣告が、今になって現実の重みとなって彼女のか細い心にのしかかってきているのだろう。


 俺はそんな彼女の姿を、ただ黙って見つめていた。

 同情はしない。俺には俺の目的がある。俺が今すべきことは感傷に浸ることではない。情報収集と脱出計画の立案だ。最優先事項はチカとの再会。そのためにはまず、俺たちがいたあの『エターナル・フォレスト』がこの世界のどこに位置するのかを特定する必要がある。そして、この厳重に管理されているであろう学園からどうやって抜け出すか。その具体的な方法を考えなければならない。


 だが、そこには一つのあまりにも巨大な障壁が存在していた。

 それは、『言葉が通じない』という絶望的なまでの事実。

 俺の頭の中には森の王として受け継いだ膨大な知識がある。この身体にはエンシェント・トレントさえも認めさせた強大な力が秘められている。だが、それを目の前のご主人様に伝える術がない。俺がどれだけ流暢な日本語で作戦を説明しようとも、彼女の耳に届くのは「にゃあ」という間抜けな鳴き声だけ。

 下手に力を見せれば、ただの猫ではないと警戒され、最悪の場合、研究対象として解剖台の上に送られるかもしれない。そうなれば脱出計画どころの騒ぎではない。


 つまり、俺は当面の間『賢いが、ただの猫』として振る舞うしかないのだ。

 この落ちこぼれの少女の信頼を得て、その庇護の下で自由に行動できる権利を確保する。そしてその裏で、虎視眈々とチカのいる森の場所を突き止め、脱出の機会をうかがう。

 これしか道はない。

 なんとまどろっこしく、そして屈辱的な作戦か。だが、今は耐えるしかない。

 全てはチカと再会するために。


 俺は覚悟を決めた。そして、まずは目の前の主人のご機嫌取りから始めることにした。

 俺は静かにエリーナのそばに歩み寄り、その膝の上にぴょんと飛び乗った。


「……ひゃっ!?」


 エリーナが驚きに小さな悲鳴を上げる。

 俺はそんな彼女の反応などお構いなしに、その膝の上でくるりと丸くなった。そして、猫が最も信頼と親愛を示す最高の必殺技を繰り出した。

 喉を、ごろごろと鳴らす。それも、モーターでも内蔵しているのかと思うほどの大音量で。


「ごろごろごろごろごろごろごろ……」

「……あ……」


 エリーナの震えが少しだけ収まった。彼女はおそるおそるといった様子で、俺の黒い毛並みにそっと指先で触れてくる。その指先がまだ少しだけ冷たい。


「……あったかい……」


 ぽつりと、彼女が呟いた。

 俺は返事の代わりに、さらに喉を鳴らす音量を上げてやった。どうだ、参ったか。これが猫の癒やしの力だ。人間だった頃、俺もこのごろごろ音にどれだけ心を救われたことか。

 エリーナはしばらく俺の毛並みを撫でていたが、やがてその動きが止まった。

 そして、ぽたりと温かい雫が俺の鼻先に落ちてきた。彼女の涙だった。


「……ごめんね……」


 その声は嗚咽に震えていた。


「あなたのせいじゃないのに……。私、ひどいこと思った……。ただの猫だなんて……ハズレくじだなんて……」


 俺は何も言わず、ただ静かにその涙を受け止める。


「私……もう、どうしたらいいか分からないよ……。お父様にもお母様にも、なんて言えば……。アストリア家の名に泥を……」


 彼女の途切れ途切れの独白が続く。俺はその言葉の全てを、ただ聞いていた。

 今はそれでいい。まずは彼女の心の毒を全て吐き出させる。そして空っぽになったその心に、俺という存在をゆっくりと染み込ませていく。

 信頼という名の、見えない絆を編み上げていく。

 それが、俺の最初の仕事だった。



 翌朝、俺はベッドの上で目を覚ました。

 昨夜、泣き疲れて眠ってしまったエリーナを俺がベッドまで念動力で運んだわけではない。俺が彼女の膝の上で一緒にうたた寝をしていたら、いつの間にか彼女が俺を抱きかかえてベッドに連れてきてくれたのだ。

 ふかふかの羽毛布団。シーツからは太陽と石鹸の清潔な匂いがする。森の木の洞で落ち葉にくるまって寝ていた頃とは雲泥の差だ。正直、最高に寝心地が良かった。

 俺の隣では、エリーナがまだすうすうと穏やかな寝息を立てている。涙の跡が残るその寝顔は、ひどくあどけなく見えた。


 さて、と。

 俺は音を立てないように、ベッドからそろりと抜け出した。ご主人様が起きる前に、少しこの学園を探索させてもらうとしよう。

 俺は猫ならではのしなやかな身のこなしで、部屋の窓枠へと飛び乗った。窓は幸い開いていた。そこから俺は外の屋根の上へとひらりと身を躍らせる。ひんやりとした朝の空気が心地よかった。


 眼下に広がるのは、アストリア王立魔法学園の壮大な全景だった。

 いくつもの尖塔が天に向かって突き刺すようにそびえ立っている。建物は全て重厚な石造り。その間を幾何学的に整備された中庭や並木道が繋いでいる。まるで巨大な城塞都市のようだ。

 そして、その学園全体が目には見えない巨大な魔力の壁で覆われているのを、俺は肌で感じ取っていた。

 結界というやつか。これがある限り、物理的に壁を乗り越えて脱出するのは不可能だろう。やはり正面ゲートから堂々と出ていくしかない。そのためには何らかの身分を証明するものか、あるいは外出許可証のようなものが必要になるはずだ。


 俺は屋根の上を音もなく移動し始めた。

 目指すはこの学園の中枢。おそらく最も多くの情報が集まる場所。

 図書館だ。

 そこにこの世界の地図や歴史書があるはずだ。エターナル・フォレストに関する何らかの記述が見つかるかもしれない。


 俺は超高性能な嗅覚と聴覚をフル稼働させる。生徒たちの話し声。教師たちの足音。厨房から漂ってくるパンの焼ける香ばしい匂い。インクと古い紙の独特の匂い。全ての情報が俺の脳内に立体的な地図を描き出していく。

 図書館は、あっちだ。


 俺は建物の屋根から屋根へと軽々と飛び移っていく。猫として培った身体能力だ。風魔法を使わなくても、この程度のアクロバティックな動きは造作もない。

 やがて俺は、ひときわ大きく荘厳な建物の前にたどり着いた。ここが図書館に間違いない。俺は開いていた最上階の小さな窓から、音もなく内部へと侵入した。


 そこは、まさに知の巨人とでも言うべき空間だった。

 床から天井まで、壁という壁が全て本棚で埋め尽くされている。その本棚にびっしりと詰め込まれた無数の背表紙。革で装丁された古めかしい魔道書。羊皮紙を束ねただけの簡素な記録書。その全てからインクと紙と、そして悠久の時の匂いが立ち上っていた。

 俺はその圧倒的な情報量に、思わず喉を鳴らした。これだけの資料があれば、必ず何か手がかりが見つかるはずだ。


 俺は猫の身軽さを最大限に活かし、本棚と本棚の間を駆け巡る。目当ては地理や歴史に関する書物が集められている区画。俺は鼻を頼りにその場所を探し当てた。そして、一冊のひときわ大きく古びた地図帳を見つけ出す。

 俺はその地図帳を本棚からなんとか引きずり出すと、床に広げた。そして、その内容を食い入るように見つめる。


 そこには、この世界の広大な地図が描かれていた。いくつかの大陸。広大な海。そして国々の名前と国境線。俺が今いるのはアストリア王国というらしい。大陸の中央に位置する豊かな王政国家だ。

 俺は必死にその地図の中から、見覚えのある地名を探した。

 エターナル・フォレスト。

 だが、いくら探してもその名前はどこにも見当たらなかった。


「にゃろー……(くそっ、載ってないのか……!)」


 俺は思わず悔しげな声を漏らした。

 あるいは、この世界では別の名前で呼ばれているのかもしれない。あるいは、あまりにも広大で危険な未開の地として、地図にさえ記されていない禁断の場所なのかもしれない。

 手がかりは掴めなかった。だが、俺は諦めない。地図がダメなら、次は歴史書だ。俺は別の本棚へと移動した。


 そこで俺は、この世界の根幹を成すある価値観に触れることになる。

 俺が手に取ったのは『魔法の歴史』と題された一冊の分厚い本だった。そのページを前足で器用にめくっていく。そこに書かれていたのは、魔法の属性に関する記述だった。

 火、水、風、土。四大元素。そして、それらの上位に位置する光と闇。基本的な魔法の分類は、俺が人間だった頃に親しんだファンタジーゲームの知識と大差はなかった。

 だが、問題はその次だった。その本には、それぞれの魔法の優劣が明確に記されていたのだ。


『最も尊ばれるべきは、その圧倒的な破壊力によって敵を殲滅する攻撃魔法である』

『炎は全てを焼き尽くし、雷は天罰となって降り注ぐ。これらこそ王者の魔法と呼ぶにふさわしい』

『次点で評価されるべきは、鉄壁の防御を誇る防御魔法。あるいは戦況を有利に覆す補助魔法である』

『そして、最も価値が低いとされるのが、戦闘に直接寄与しない生活魔法、あるいは創造魔法の類である』

『土をこねて人形を作ること、花を咲かせること。それらが戦場において何の役に立つというのか。これらは魔法使いのまがい物。道化の戯言に過ぎない』


「…………にゃあ」


 俺は、その一文を読んだ時、思わず言葉を失った。

 創造魔法。花を咲かせる力。

 それは、俺がエンシェント・トレントから受け継いだ、生命を育む力。この森の王としての力の根幹を成す、最も尊い力。

 それが、この世界では『価値が低い』『道化の戯言』と断じられている。

 俺は森で学んだ。真の強さとは破壊の力ではない、と。だが、この人間社会では破壊こそが絶対的な価値基準なのだ。

 なんと浅はかな価値観か。

 俺は森とは全く違うこの世界のルールに、戸惑いを隠せなかった。


 そして、俺は思い至る。

 エリーナ。あの落ちこぼれのご主人様。彼女が『出来損ない』と呼ばれる理由。

 おそらく、彼女が得意とする魔法が、この最も価値が低いとされる創造魔法の類なのではないだろうか。だから周りから馬鹿にされ、見下され、心を閉ざしてしまった。

 俺はまだ彼女の魔法を見たわけではない。だが、なぜかそう確信していた。


 俺は静かに本を閉じた。

 エターナル・フォレストの場所は分からなかった。だが、それ以上に大きな情報を手に入れた。この人間社会の戦闘魔法至上主義という価値観。そして、俺のご主人様が抱える孤独の理由。

 俺は、この現状を十分に理解しつつあった。


 その時。

 俺の、森の王としての特殊な感覚が何かを捉えた。

 それは魔力の流れ。

 この学園には至る所に人工的な魔力が張り巡らされている。だが、その人工的な流れの中に、ほんのわずかだが別の流れが存在していた。それは、もっと自然で、もっと生命力に満ちた、大地の息吹のような流れ。俺が慣れ親しんだ森のマナの流れによく似ていた。

 その流れは、この学園の地下深くから湧き出し、そしてある一つの方向へと向かって流れていっている。

 北だ。この学園の遥か北の方向。


「……にゃあ」


 俺は、その微かな流れを辿りながら確信した。

 この流れの先。その遥か彼方に。

 エターナル・フォレストがある。俺の帰るべき場所が。

 そして、チカが待っている故郷が。


 目的地は定まった。あとは、どうやってそこへたどり着くか。

 俺は窓の外を見た。太陽が昇り始め、学園が朝の喧騒に包まれようとしていた。

 俺の潜入生活、二日目が始まろうとしている。

 俺は誰にも気づかれぬよう、再び屋根の上へと身を躍らせた。そして、エリーナの部屋へと急ぐ。

 腹が減った。まずはご主人様に朝飯を要求することから始めるとしよう。

 誰かの飼い猫として生きるというのも、案外悪くないかもしれない。

 俺は冗談交じりにそんなことを考えながら、朝焼けの空を見上げていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ