第十八話
「にゃ……ん……」
俺はうめき声を漏らしながら、重たい瞼をなんとかこじ開けた。
最初に目に飛び込んできたのは薄暗い天井だった。石を組んで作られたアーチ状の高い天井で、所々が黒く煤けており、長い年月を経ていることがうかがえる。
全身を打つ鈍い痛み。そして骨の芯まで凍えさせるような、硬質な冷たさ。
次に、匂い。
嗅ぎ慣れた森の土や草いきれの匂いではない。埃っぽさと黴の匂い、それから線香のような何かを燻した独特の香りが鼻腔をくすぐった。
そして、音。
人の話し声だ。
俺が知らない言語のようだが、不思議とその意味は頭の中に直接流れ込んでくる。これもあの猫神がよこした、ご丁寧な『特典』の一つなのだろう。
「……これで終わりか。やはり、あやつに大役は荷が勝ちすぎたか」
「ええ。卒業を懸けた最後のチャンスでしたのに。まさか、こんな……ねえ?」
「『出来損ない』はどこまでいっても『出来損ない』ということじゃな。アストリア家の名折れよ」
嘲りを含んだ声。侮蔑を隠そうともしない囁き。それらが刃となって俺の耳に突き刺さる。
俺はまだ朦朧とする意識のまま、ゆっくりと身体を起こした。そして、目の前に広がる光景に言葉を失った。
俺が寝かされていたのは、冷たい石畳の床の上だった。俺の身体を中心に、巨大で複雑な幾何学模様が淡い光を放って描かれている。
魔法陣だ。
あの時、俺をこの場所に強制的に転移させた忌々しい光の紋様。
その魔法陣の周囲を十数人の人間が遠巻きに取り囲んでいた。誰もがフードのついた揃いのローブを身にまとっている。顔はフードの陰になってよく見えないが、その視線だけは嫌というほどはっきりと感じられた。
好奇と失望、そしてあからさまな嘲笑が入り混じった無数の視線が、俺という一匹の黒猫に集中砲火のように突き刺さっている。
状況はすぐに理解できた。
俺は召喚されたのだ。この世界の誰かによって『使い魔』として。
森の王として穏やかな日々を手に入れたはずの俺が、今度は誰かのペットか、あるいは奴隷としてこの場所に引きずり出されたのだ。
これ以上ないほどの理不尽。
これ以上ないほどの屈辱。
「にゃああああ……(ふざけるな……!)」
俺の喉の奥から怒りに満ちた低い唸り声が漏れた。全身の毛がぶわっと逆立つ。
体内の、森の王として受け継いだ生命の力を解放しようとする。だが、身体が動かない。あの猫神に拘束された時と同じ、絶対的な無力感。この魔法陣、あるいはこの場所そのものに、俺の力を封じる何らかの仕掛けが施されているらしい。
『言っただろう? 君は僕のおもちゃだ、と』
脳裏にあの軽いノリの神の声が反響する。
そうだ。これも全てあいつが仕組んだこと。俺を次のステージとやらで、新たな見世物にするためのご丁寧な舞台設定だ。
怒りで頭がどうにかなりそうだった。だが、俺は必死に理性の手綱を握りしめる。ここで暴れても意味がない。まずは状況を正確に把握するんだ。
ゲームの基本は情報収集からだ。
俺は周囲の人間たちを冷静に観察し始めた。
ローブの人間たちは、どうやら教師と生徒といったところか。ここは学校のような場所らしい。そして俺を召喚したのは生徒の一人。卒業を懸けた最後のチャンス。その言葉から察するに、相当な落ちこぼれなのだろう。
俺は視線を魔法陣のすぐ外へと向けた。
そこに一人の少女が、膝から崩れ落ちるようにへたり込んでいた。
おそらく彼女が、俺の『ご主人様』ということになるのだろう。
年は十六か、十七くらいだろうか。彼女だけはローブを着ていない。白いブラウスにチェック柄のスカートという、簡素な制服のようなものを身につけていた。
夕焼けを溶かしたような柔らかな赤毛。どこか頼りない、あどけない顔立ち。そしてその大きな瞳は、春先の若葉のような優しい翠色をしていた。
だが今、その翠色の瞳は絶望という名の暗い沼の底に沈んでいた。焦点はどこにも結ばれず、ただ魔法陣の中心、俺というちっぽけな黒猫の姿を映しているだけ。血の気の引いた真っ白な顔。か細く震える唇。その全身から全ての希望が、音を立てて崩れ落ちていくのが見て取れた。
「……そんな……」
少女の唇から、か細い吐息のような声が漏れた。
「私の最後のチャンスだったのに……。伝説の魔獣を召喚できるはずの魔法陣だったのに……」
その声は誰に言うでもない、ただの心の叫び。
「どうして……ただの猫……なの……?」
その言葉は俺の胸にぐさりと突き刺さった。
ただの猫。確かに今の俺はそう見えるだろう。俺がこの森の生態系の頂点に君臨した王であることなど、この世界の誰も知る由もない。俺がどれだけの死線を乗り越え、どれだけの力をこの小さな身体に秘めているかなど、誰にも分かりはしない。
この少女にとっても俺は、彼女の最後の希望を無残に打ち砕いた、ただのハズレくじなのだ。
「エリーナ・アストリア」
その時、ローブの集団の中から一人の年老いた男が、一歩前に進み出た。その声は厳格で冷たい響きを持っていた。
「弁解の言葉はあるかね?」
エリーナと呼ばれた少女は、びくりとその小さな肩を震わせた。そしてゆっくりと、声のした方へと顔を向ける。その翠色の瞳には恐怖と、そして諦めの色が浮かんでいた。
「……いえ……何も……ありません……教頭先生……」
「そうか。ならば結果は結果として、受け止めてもらうしかないな」
教頭と呼ばれた男は、冷徹にそう言い放った。
「使い魔召喚の儀式は、我がアストリア王立魔法学園の卒業試験でもある。召喚された使い魔の能力、希少性、そして主人との親和性。それらを総合的に判断し、卒業の可否を決定する。それは知っているな?」
「……はい」
「では聞こう。その黒猫、何か特別な能力でも持っているのかね? あるいは伝説の猫の王族、キャット・シーの末裔とでも言うつもりかな?」
教頭の言葉に、周囲の生徒たちからくすくすと下卑た笑い声が漏れた。
エリーナはその嘲笑の集中砲火を浴びながら、顔を真っ赤にして俯いた。そして、か細い声で答える。
「……分かりません。見たところ、ただの普通の黒猫……です」
「だろうな」
教頭は鼻でふんと笑った。
「つまり君は、卒業試験において最低の結果を出したということだ。由緒正しい魔法陣を使いながら、召喚できたのはその辺の路地裏にでもいるような、何の価値もない野良猫一匹。これが何を意味するか、分かるな?」
「…………」
エリーナは何も答えられない。ただその白い頬を、一筋の透明な雫が伝っていく。悔しさと情けなさ、そしてどうしようもない絶望。その全ての感情が、その一粒の涙に凝縮されているようだった。
「よって宣告する。エリーナ・アストリア。君のアストリア王立魔法学園からの退学を、正式に決定する」
その無慈悲な宣告は、静まり返った儀式場に重く響き渡った。
エリーナの翠色の瞳から光が完全に消えた。まるで魂が抜け落ちてしまったかのようだ。彼女はその場に崩れ落ち、小さな声で嗚咽を漏らし始めた。
そのあまりにも惨めで救いのない光景を、俺はただ黙って見つめていた。
俺の中に再びあの黒い感情が、鎌首をもたげてくるのが分かった。
怒りだ。
この少女をここまで追い詰めた、この理不尽な状況に対する。この少女を嘲笑う、周囲の人間たちに対する。そして何よりも、この茶番劇を高みの見物と洒落込んでいるであろう、あのふざけた猫神に対する。
だが、それと同時に俺の心には、もう一つの全く別の感情がこみ上げてきていた。
それは悲しみ。チカと引き離された、あの瞬間の記憶。俺の名前を叫ぶあの悲痛な声が、耳の奥で何度も何度も反響する。
会いたい。チカに会いたい。あの温かい光に、もう一度触れたい。
そのどうしようもない喪失感が、俺の胸を締め付ける。
怒りと悲しみ。その二つの相反する感情の嵐が、俺の中で激しく渦を巻いていた。
だが、その嵐の中心で俺の意識は不思議なほど冷静だった。そうだ。嘆いていても何も始まらない。怒りに任せて暴走しても何も解決はしない。俺はエンシェント・トレントとの戦いで、それを学んだはずだ。
俺が今すべきことは一つ。
生き抜くことだ。
そして必ず、チカの元へ帰ることだ。
そのためなら俺は何だって利用してやる。悪魔にだって魂を売ってやる。ましてや目の前で絶望に打ちひしがれている、この落ちこぼれの少女を利用することくらい、何の躊躇いもない。
俺はゆっくりと立ち上がった。そして魔法陣の中から一歩踏み出す。俺の身体を縛り付けていた見えない枷は、儀式が終わったことで解けていた。
俺は床に突っ伏して泣きじゃくっているエリーナの元へと歩み寄った。そして、その震える小さな手の甲を、俺のザラザラとした舌でぺろりと舐めてやった。人間だった頃、俺が雨に濡れた子猫にされたことと全く同じように。
「……え?」
エリーナがはっと顔を上げた。涙に濡れた翠色の瞳が、驚きに大きく見開かれている。その瞳に映る俺の姿。夜の闇を固めたような漆黒の毛並み。そしてその奥に、森の王の叡智と不屈の闘志を宿した金色の瞳。
「にゃあ」
俺は短く一声鳴いた。
その声には俺の全ての決意が込められていた。
安心しろ、ご主人様。お前がどんな『出来損ない』だろうと知ったことか。俺がついてる。お前が引いたのはハズレくじなんかじゃない。世界でたった一つの大当たりだ。
だから顔を上げろ。俺たちの逆転劇はここから始まるんだからよ。
言葉は通じない。だが、俺のその強い意志は確かに彼女の魂に届いたようだった。
エリーナの翠色の瞳に、ほんのわずかだが光が戻っていた。彼女は呆然と俺を見つめている。
周囲の嘲笑も教頭の冷たい視線も、もはやその耳には届いていないかのようだった。




