第十七話
俺がこの広大なエターナル・フォレストの新たな『王』となってから、どれくらいの時が流れただろうか。
体感では数週間か、あるいは数ヶ月。猫の身体になってからというもの、人間だった頃の時間の感覚はすっかりあやふやになっていた。太陽が昇り沈み、月が満ちては欠けていく。森の生命の循環と一体化した俺にとって、一日一日はあまりにも穏やかで、そしてあまりにも速く過ぎ去っていった。
「にゃーん……(んー、今日も平和だー)」
俺はかつてエンシェント・トレントとの死闘を繰り広げた、あの神聖な広場の中央で大あくびを一つした。
あの殺風景だった一枚岩の広場は、今では俺の魔力によって色とりどりの花々が咲き乱れる美しい花畑へと姿を変えている。柔らかな緑の苔が絨毯のように大地を覆い、その上で寝転がれば土の匂いと花の蜜の甘い香りが心地よい眠気を誘うのだ。ここが俺の玉座。俺とチカだけの、秘密の花園。
「ちきゅーっ! こっちだよーっ!」
少し離れた場所で、チカの楽しそうな声がした。
見れば、花畑の中で数匹のホーンラビットの子供たちと追いかけっこをして遊んでいる。あの、かつて俺を殺そうとした凶暴な牙付きウサギも代替わりを繰り返し、今ではすっかり俺に懐いていた。まあ、俺がこの森の王であるということを本能的に理解しているのだろう。俺がその気になれば、森の全ての生物を意のままに操ることさえできるのだから。
そう、俺は王になった。
エンシェント・トレントからこの森の記憶と、生命を司る力を受け継いだ正真正銘の、森の王。
その力は絶大だった。
俺の意識は森全体に張り巡らされた、見えないネットワークのように広がっている。森のどこで一本の若木が芽吹いたか、どこで一匹の虫が命を終えたか、その全てが手に取るように分かる。
俺はその気になれば天候さえもある程度は操作できた。雨が少ない時期には恵みの雨を降らせ、森の喉を潤す。森に病が広がれば俺の生命力を分け与え、その進行を食い止める。
破壊の力ではない。
育み、癒し、そして見守る力。
それこそが王たる者の本当の力なのだと、エンシェント・トレントは教えてくれた。
先代の王エンシェント・トレントは、俺に全てを託した後その活動を完全に停止し、今はただの静かなる古の巨木として俺たちのことを見守っている。その琥珀色の瞳が開かれることはもう二度とないだろう。だが、俺には分かる。あの巨木が今のこの森の平和を、穏やかな気持ちで見守ってくれているのが。
「にゃはは!(待て待てー!)」
「キャッキャッ!(王様、こっちー!)」
俺はチカとウサギたちの輪の中に、わざと無様に転がり込むようにして飛び込んでいった。
ウサギの子供たちがきゃっきゃと歓声を上げながら、俺のふさふさの尻尾にじゃれついてくる。チカはそんな俺の背中にぴょんと飛び乗ると、勝ち誇ったように「ちきゅ!」と一声鳴いた。
なんと平和な光景だろうか。
人間だった頃、俺はこんな穏やかな日常を心のどこかでずっと求めていたのかもしれない。
レポートに追われることも、バイトに明け暮れることもない。
ただ気の置けない仲間たちと、こうして日がな一日のんびりと過ごす。
悪くない。
いや、最高だ。
俺の冒険はここで終わり。
これからはこの森の心優しき王として、チカと共に末永く平和に暮らしていくのだ。
うん、それがいい。それが俺にとっての最高のハッピーエンドだ。
俺は心からそう思っていた。
あのふざけた神様が、再び俺の前に姿を現す、その瞬間までは。
◇
その日も俺は、いつものようにチカや森の動物たちと花畑で昼寝をしていた。
柔らかな日差しが黒い毛皮を温め、心地よい微睡みへと誘う。
ああ、幸せだ。
このまま溶けてなくなりたい。
俺がそんな、猫として百点満点の感想を抱いていた、その時だった。
『やあ、随分と腑抜けた顔になっちゃって。すっかり平和ボケかい?』
唐突に頭上から、あのやけに軽い聞き覚えのある声が降ってきた。
俺はびくりと身体を震わせた。
この声は間違いない。
俺をこの理不尽な世界に放り込み、俺の人生、いや猫生を面白半分で弄んできた元凶。
「にゃ、にゃあああ!(猫神!)」
俺はばっと飛び起きた。
周囲で一緒に昼寝をしていた動物たちも、俺のただならぬ気配に驚いて一斉に目を覚まし、森の奥へと逃げていく。
チカだけが俺の背後にぴたりと寄り添い、全身の光を強めて警戒態勢に入っていた。
俺は声のした方、空を見上げる。
そこにはいつの間にか、一匹の黒猫がぷかぷかと宙に浮かんでいた。
夜の闇を固めたような艶やかな毛並み。
爛々と輝く金色の瞳。
その姿は俺が転生する前の、あの社で出会った黒猫。そして、俺がこの世界で生きるこの黒猫の姿と瓜二つだった。
『おっと、そんなに敵意を剥き出しにしないでくれたまえよ。せっかくの感動の再会じゃないか』
猫神は俺の怒りなどどこ吹く風とばかりに、空中でくるりと一回転してみせた。
そのどこまでも人を食ったような態度に、俺の怒りのボルテージがぐんぐんと上昇していく。
「にゃろー!(感動の再会だと!? どの口が言うか! お前のせいで俺がどれだけ……!)」
『はいはい、その話はもう聞き飽きたよ。それより本題に入ろうじゃないか』
猫神は俺の言葉を、前足で制するようにひらひらと振った。
そして満足げな笑みを浮かべて、こう言ったのだ。
『まずは、おめでとう。見事だったよ、エンシェント・トレント戦。まさかあの古の王を継承という形で実質的に打ち破るとはね。僕の想像を遥かに超える最高の結末だった。おかげで神々の間での君の戦いの視聴率も、うなぎ登りさ』
「だから、俺の戦いを娯楽番組みたいに言うなと何度言えば分かるんだ!」
俺は思わず叫んだ。
こいつのこの、どこまでも自分本位で悪びれない態度が、俺は心の底から気に食わなかった。
『まあまあ、細かいことはいいじゃないか。ともかく君は見事に第一ステージをクリアした。そして約束通り、第二ステージへの挑戦権を手に入れたわけだ』
「第二ステージ……?」
俺は夢の中で聞いた、あの言葉を反芻した。
この森での戦いはまだ序章に過ぎない、と。
「にゃあ……(断る)」
俺はきっぱりと、そう言い放った。
『……ん?』
猫神の金色の瞳が、意外そうに俺を見つめる。
「にゃーん(俺はもう戦わない。俺はこの森の王になったんだ。この森の平和を守り、育んでいく。それが俺の新たな使命だ。お前のふざけたゲームに、これ以上付き合うつもりはない!)」
そうだ。
俺はもうこいつの操り人形じゃない。
俺には俺の意志がある。
俺が守りたい世界がある。
その俺の固い決意を聞いて、猫神はしばらくの間きょとんとした顔で黙り込んでいた。
そして、次の瞬間。
『……ぷっ。あははははははははははははははははははははははははははっ!』
腹を抱えて笑い出したのだ。
涙を流さんばかりに、その小さな身体をぷるぷると震わせて。
「にゃ、にゃろー……(な、何がおかしい!)」
『いや、すまない、すまない。あまりにも君が真剣な顔で青臭いことを言うものだから、つい』
猫神は笑いすぎて出てきた涙を前足で拭うと、再び俺に向き直った。
その金色の瞳にはまだ、面白くてたまらないという色が、ありありと浮かんでいる。
『森の王? 使命? 平和を守る? 君は自分が一体、何になったつもりでいるんだい?』
「にゃあ!(何って……俺は、この森の後継者で……)」
『違うね』
猫神は俺の言葉をぴしゃりと遮った。
その声には先ほどの軽薄さは消え、神格としての抗いがたい冷たい響きだけがあった。
『君は、僕が選んだ僕だけのエンターテイナーだ。君の役割は僕を楽しませること。ただ、それだけだよ』
「……っ!」
『森の王になった? 結構じゃないか。それも僕が用意したシナリオの一つだ。君が力を手に入れ、成長していくための壮大なチュートリアルさ。エンシェント・トレントも、なかなかいい仕事をしてくれたじゃないか。あいつは僕の古くからの友人なんだよ』
なんだと……?
エンシェント・トレントが、こいつの友人?
じゃあ、あの戦いもあの継承の儀式も、全てはこいつが裏で糸を引いていた茶番だったとでも言うのか?
『君がこの森で平和に暮らしたい? 冗談じゃない。そんな退屈なエンディング、誰が見たいと思う? 物語はまだ始まったばかりなんだよ。君という最高の主人公が、これからどんな冒険を繰り広げ、どんな強敵と出会い、どんな理不尽に立ち向かっていくのか。それを僕も、神々の観客たちも、楽しみにしているんだ』
猫神の言葉が冷たい刃となって、俺の心をずたずたに切り裂いていく。
俺の決意も、覚悟も、使命感も。
全てがこいつにとっては、ただの暇つぶしのおもちゃに過ぎなかった。
俺はこいつの手のひらの上で、踊らされていただけだったのだ。
「ふざ……けるな……」
俺の喉からか細いうめき声が漏れた。
怒りで目の前が真っ赤に染まる。
俺は森の王として受け継いだ生命の力を解放しようとした。
こいつに一撃でも叩き込んでやらなければ気が済まない。
だが。
『おっと、無駄だよ』
猫神が前足を軽く振る。
そのたった一つの何気ない動作。
それだけで俺の身体は完全に自由を奪われた。
エンシェント・トレントの時とは比べ物にならない、絶対的な拘束。
体内の魔力が完全に沈黙する。
俺はただの置物の猫へと成り下がった。
『言っただろう? 君は僕のおもちゃだ。おもちゃが持ち主に逆らえるとでも?』
猫神は俺の目の前までゆっくりと降りてきた。
そして俺の鼻先を、自分の鼻先でこつんと突いた。
その金色の瞳が、俺を見下している。
『さあ、茶番はここまでだ。君のリハビリ期間は終わり。ここからが本番の第二ステージ。君の新たな使命は、人間社会にある』
「にんげん……しゃかい……?」
俺は愕然とした。
この猫の身体で、人間の世界へ行けと?
一体何をさせようというんだ。
『のんびり平和に暮らしたい、だって? 結構じゃないか。だったら、その平和を君自身の手で守ってみせるといい』
猫神は意味深な言葉を残すと、ふっと俺から離れた。
そして、ぱちん、と指を鳴らすような仕草をした。
いや、猫だから肉球を鳴らしたというべきか。
その、瞬間だった。
俺の足元に、眩い光が迸った。
見れば地面に、複雑で幾何学的な模様が光の線で描かれていく。
魔法陣だ。
それも俺が今まで見たどんな魔法とも次元の違う、神々しいまでの力を秘めた転移の魔法陣。
「にゃっ!? こ、これは……!?」
『さあ、行っておいで、僕の最高のエンターテイナー。次の舞台が君を待っている』
猫神の楽しそうな声が遠ざかっていく。
魔法陣の光がどんどん強くなっていく。
俺の身体が足元から光の粒子となって分解されていくような、奇妙な感覚。
「ま、待て! やめろ! 俺は行かないぞ!」
俺は必死に抵抗しようとする。
だが、神の力の前では森の王の力さえも無力だった。
俺の身体は抗うこともできず、光の中へと吸い込まれていく。
「チカ……!」
俺は最後に相棒の名前を叫んだ。
魔法陣の外で、チカが悲痛な顔でこちらに手を伸ばしている。
いや、前足を。
その小さな身体から必死の光が放たれている。
俺を助けようと。
だが、その光も神の魔法陣の前ではあまりにもか弱かった。
「ちきゅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
チカの悲痛な叫びが遠ざかっていく。
ごめん、チカ。
また俺は、お前を一人に……。
俺の意識は、そこで光の中に飲み込まれた。
そして、全てが無になった。




