第十六話
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
ほんの数瞬のようにも、あるいは永遠のようにも感じられた光と音の奔流が過ぎ去った後、後に残されたのは水を打ったような静寂だけだった。
俺の怒りが具現化した血のように紅い炎の嵐は、森の王『エンシェント・トレント』が流したたった一粒の涙によって、まるで幻だったかのようにその存在をかき消されていた。
後に残ったのは、魔力も闘志も、そして怒りという名の最後の支えさえも失った、ちっぽけで無力な一匹の黒猫だけ。
俺は広場の中央で、ただ呆然とへたり込んでいた。
腕の中には確かな温もりがある。
王が与えてくれた生命の雫によって奇跡的に息を吹き返した、俺の唯一無二の相棒チカ。その小さな身体が俺の毛皮にすり寄ってくる感触だけが、ここが現実なのだと俺にかろうじて教えてくれていた。
「ちきゅ……」
チカが心配そうに俺の顔を見上げてくる。そのつぶらな瞳は、完全に元の輝きを取り戻していた。俺の腕の中でその小さな心臓が、とくとくと力強く鼓動しているのが伝わってくる。
よかった。
本当に、よかった。
その安堵感が、俺のささくれ立った心を優しく満たしていく。
そうだ。もうどうでもいい。
勝敗なんて、森の王座なんて、次のステージへの挑戦権なんて。
チカがこうして無事でいてくれる。
俺にとっては、もうそれだけで十分だった。
俺は腕の中の温もりを確かめるように、チカをぎゅっと抱きしめた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
目の前には相も変わらず、天を衝くほどの巨大な樹木が静かにそびえ立っていた。
俺が怒りの全てを込めて穿ったはずの巨大な傷は、跡形もなく再生している。その小山のような幹には、戦いの痕跡などどこにも見当たらない。
ただ、その幹の中心に浮かぶ森の叡智を宿したかのような琥珀色の瞳だけが、俺のことをじっと見つめていた。
その瞳にはもはや怒りも悲しみも、慈愛さえも浮かんでいない。
ただ静かに、俺という存在を値踏みするかのように観察している。
『……小さき者よ』
再び、重くそして温かい老賢者のような声が、俺の魂に直接響いてきた。
『汝は敗れた。だが、その瞳の色は敗者のそれではないな』
「にゃあ……(ああ、負けたさ。完膚なきまでにな)」
俺は素直に敗北を認めた。
不思議と悔しさはなかった。
むしろ嵐が過ぎ去った後の、晴れ渡った空のような清々しい気持ちだった。
「にゃーん(だが、俺は俺が守りたかったものを守ることができた。それだけで十分だ)」
俺は腕の中のチカを優しく撫でた。
チカは気持ちよさそうに目を細める。
その光景を、エンシェント・トレントはしばらくの間ただ黙って見つめていた。
やがて、その琥珀色の瞳にほんのかすかな満足げな色が浮かんだように見えた。
『……うむ。ならば問おう。汝はこれから、どうする?』
どうする?
俺は一瞬、言葉に詰まった。
そうだ。戦いは終わった。
俺はこの森の王に手も足も出ずに敗れた。
次のステージへの挑戦権も、おそらく失ったのだろう。
ならば俺に残された道は一つ。
この森のどこか静かな場所で、チカと共に穏やかに暮らしていく。
それも悪くない選択だ。
そう思った。
だが、俺の口から自然とこぼれ落ちたのは、全く違う言葉だった。
「にゃあ……(強くなりたい)」
それは、俺自身の心の底からの叫びだった。
「にゃーん(もっとだ。もっと強く。今度こそ本当に大切なものを自分の力で守り抜けるくらいに。誰かに助けてもらうんじゃなく、誰かに道を譲ってもらうんでもなく……俺自身の力で運命を切り開けるくらいに、強くなりたい!)」
そうだ。
俺はもう無力な自分にうんざりなのだ。
怒りに任せて暴走することしかできない、未熟な自分。
相棒の自己犠牲に気づくことさえできない、愚かな自分。
そんな自分を変えたい。
真の強さを、この手に掴みたい。
俺の魂の叫びを聞いて、エンシェント・トレントは満足そうに、ゆっくりと一度だけその巨大な幹をしならせた。
まるで深く頷いたかのように。
『……よろしい。その覚悟、確かに受け取った』
王の声に厳かな響きが加わる。
『ならば、小さき挑戦者よ。汝に我が力を、託そう』
「にゃっ……!(力……を?)」
俺は思わず聞き返した。
なぜだ? 俺はお前に敗れた、ただの侵入者のはずだ。
なぜ敵である俺に力を与えようとする?
『我が名はエンシェント・トレント。この森の始まりにして、終わりの存在。悠久の時をこの大地と共に生きてきた』
王は静かに語り始めた。
その声は、まるで歴史そのものが俺に語り掛けてくるかのようだった。
『我は、この森の生命力の循環を司るいわば『心臓』。だが、その鼓動も永遠ではない。永すぎる時は神でさえも摩耗させる』
エンシェント・トレントの琥珀色の瞳に、ほんのかすかな寂寥の色が浮かんだ。
『我が力は今、静かに衰えつつある。いずれこの森の秩序を保てなくなる時が来るだろう。故に我は探していたのだ。我が意志を、この森の記憶を、未来へと繋ぐ新たな『器』を』
「器……それが俺だって言うのか……?」
『うむ。汝にはその資格がある。汝は力に溺れず、敗北を知り、そして守るべき者のために再び立ち上がろうとしている。それこそが、この森を統べる王たる者の第一の資格なのだ』
王の言葉に、俺はただ圧倒されていた。
話があまりにも壮大すぎる。
森の王の後継者?
俺が? この元しがない大学生で、現役のただの黒猫が?
冗談じゃない。荷が重すぎる。
「にゃ、にゃあ……(待ってくれ! 俺にはそんな大役、務まらない!)」
俺は思わず弱音を吐いた。
だが、王はそんな俺の戸惑いなどお見通しであるかのように、静かに言葉を続けた。
『案ずるな。汝に我と同じになれと言っているのではない。汝は汝のやり方でこの森を守ればよい。汝のその、しなやかで奔放で、そして温かい心で新たな時代を築いていけばよいのだ』
その声には、絶対的な信頼が込められていた。
俺が俺自身でさえまだ信じきれていない俺の可能性を、この古の王は信じてくれている。
その事実が俺の心を強く打った。
腹の底から、新たな覚悟が静かに、しかし力強く湧き上がってくるのを感じた。
「にゃあ……」
俺は一度目を閉じた。
そして、ゆっくりと開く。
もうその瞳に、迷いはなかった。
「にゃーん(……分かった。その大役、この俺が引き受けた)」
俺が覚悟を決めてそう答えると。
エンシェント・トレントは心なしか嬉しそうに、その琥珀色の瞳を細めたように見えた。
『……感謝する、小さき、そして偉大なる、我が後継者よ』
その言葉と共に、継承の儀式は始まった。
◇
エンシェント・トレントの一本の巨大な根が、再び俺の目の前までゆっくりと伸びてきた。
だが、それは先ほどの暴力的で破壊的な槍ではない。
もっと穏やかで、全てを包み込むような優しい動き。
根の先端が俺の額にそっと触れた。
その瞬間。
俺の意識は光の奔流に飲み込まれた。
それは情報という名の洪水だった。
森の記憶。
このエターナル・フォレストが産声を上げた遥か太古の昔から、今日この瞬間に至るまでの全ての出来事が、俺の脳内に凄まじい勢いで流れ込んでくる。
最初の種が芽吹き、最初の獣が生まれ、最初の魔物が咆哮を上げた原始の光景。
季節が巡り、木々が栄え、そして朽ちていく生命の循環。
ホーンラビットの、ゴブリンの、シルバーフェンリルの、ウィンドイーグルの、そしてポイズン・ハイドラの、その種族がこの森でどのように生まれ、どのように生きてきたかという壮大な歴史。
喜びも、悲しみも、怒りも、慈しみも。
この森で生きてきた全ての生命の、全ての感情が俺の中に流れ込んでくる。
脳が焼き切れそうだ。
俺というちっぽけな個人の意識が、森という巨大な集合意識の奔流に飲み込まれ、溶けてしまいそうになる。
「にゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
俺は必死に自我を保とうと抵抗した。
俺は、俺だ。
この森の記憶ではない。
俺は立川ケイイチという一人の人間だった、黒猫だ!
俺がそう強く念じた、その瞬間。
情報の洪水がぴたりと止んだ。
そして、それらの膨大な記憶は俺の意識を飲み込むことなく、俺の魂のもっと深い場所に静かに整理整頓されて収まっていった。
まるで巨大な図書館の書庫に、膨大な蔵書があるべき場所へと収められていくように。
ふっと、額から木の根が離れていく。
継承の儀式は終わったのだ。
「はぁ……はぁ……にゃあ……」
俺はその場に四肢をついて、荒い呼吸を繰り返した。
たった数秒の出来事だったはずなのに、まるで数千年を生きたかのような途方もない疲労感。
だが、それと同時に俺の中には確かな変化が起きていた。
俺はゆっくりと目を開ける。
世界が、違って見えた。
今までただの木や草にしか見えなかったものが、その一つ一つが名前を持ち、歴史を持ち、意志を持って生きているのが分かる。
風の音に、森の囁きが聞こえる。
土の匂いに、生命の息吹が感じられる。
俺の五感、いや第六感とも言うべき感覚が森全体と完全にリンクしている。
この広場の隅に咲く一輪の小さな花の、か細い生命力も。
はるか彼方、森の外周部でホーンラビットの子供が元気に駆け回っている、その足音も。
全てが手に取るように分かるのだ。
これが『森の王』であるということ。
この森の全てを我が身のことのように感じ、慈しみ、そして守るということ。
その、あまりにも重く、そして温かい責任の意味を俺は、ようやく理解した。
俺の体内の魔力も変化していた。
エンシェント・トレントから受け継いだ森の生命力が、俺の純化された魔力と完全に融合している。
それはもはや、ただの炎や風の魔法を生み出すためのエネルギーではない。
破壊だけでなく創造をも可能にする、もっと根源的な『生命の力』。
俺はその気になれば、この枯れた広場に一瞬で花を咲かせることもできるだろう。
あるいは傷ついた動物を、その生命力で癒すことも。
俺の力は新たな段階へと、完全に移行したのだ。
「ちきゅーっ!」
儀式が終わったのを察して、チカが俺の元へと駆け寄ってきた。
そして俺の顔を見て、ぴたりと足を止める。
そのつぶらな瞳が、驚きに大きく見開かれていた。
「ちきゅ……?(あなた……なんだか……すごく、大きくなったみたい……)」
俺の身体の大きさは変わっていない。
だが、俺から放たれる気配、オーラとでも言うべきものが以前とは全く別次元のものになっているのを、この聡い相棒は感じ取ったのだろう。
俺はそんなチカに向かって、今までで一番優しい笑みを浮かべてみせた。
「にゃあ(ああ。少しだけな)」
俺はチカの頭を優しく撫でる。
その時。
俺たちがいた、殺風景だったはずの一枚岩の広場に奇跡が起こった。
俺がチカを撫でたその優しい気持ちに、俺の体内の森の力が呼応したのだ。
俺たちの足元から柔らかな緑色の苔が、まるで絨毯のように広がっていく。
そしてその苔の間から、色とりどりの小さな花々が次々と顔を出した。
赤、青、黄色、白。
見たこともないような美しい花々が、広場全体を埋め尽くしていく。
花の甘い香りが風に乗って、優しく俺たちの鼻腔をくすぐった。
新たな森の王の誕生。
それを森全体が祝福しているかのようだった。
エンシェント・トレントは相も変わらず、ただ静かにそこに根を張っている。
だが、その琥珀色の瞳はどこまでも穏やかで、満足げに俺たちのことを見守っているように見えた。
「ちきゅーっ!きれいーっ!」
チカが花畑の中を嬉しそうに駆け回っている。
俺は、その光景を愛おしそうに見つめていた。
そうだ。
俺が守りたかったものは、これだ。
この何気ない、平和な日常。
この笑顔を、この光を守るためなら俺は何だってできる。
森の王にだって、なってやる。
俺は、天を仰いだ。
木々の隙間から、穏やかな光が差し込んでいた。




