第十五話
世界から音が消えた。
そう錯覚するほどの、圧倒的な轟音。
俺の怒りを燃料にして顕現した血のように紅い炎の嵐『フレイムサイクロン』が、森の主『エンシェント・トレント』の懐、その中心核目掛けて突撃した瞬間、俺の聴覚は完全にその機能を放棄した。
視界は、ただ白。
全てを焼き尽くす純白の光。
俺が放った破壊の化身が、この森の始まりにして終わりの存在と衝突し、その二つの絶対的な力が互いの存在を消し去らんと激しくせめぎ合っている。その余波が空間そのものを震わせ、光と熱の津波となってこの聖域の全てを洗い流していく。
「にゃ……ああああああああああああああああああああああッ!」
声にならない絶叫を上げながら、俺はその奔流の中心にいた。
熱い。
痛い。
苦しい。
全身の毛皮が内側から燃え上がるようだ。魔力を通す身体の回路が、許容量を遥かに超えたエネルギーの奔流に耐えきれず悲鳴を上げている。
だが、そんな肉体的な苦痛などどうでもよかった。
俺の意識はただ一点。
この腕の中でか細い息をしている、小さな相棒にだけ注がれていた。
「ちきゅ……」
チカ。
俺の前足の中で、氷のように冷たくなった銀色の毛玉。
その身体を包んでいた生命力の光は、もはや風前の灯火。俺が作り出した紅蓮の嵐の禍々しい照り返しを受けて、かろうじてその存在を認識できるほどに弱々しくなっていた。
俺のせいだ。
俺が弱かったから。
俺がこの森の王の力を見誤っていたから。
チカは俺を守るために、その小さな身体で無茶をした。
その結果が、これだ。
「……許さない」
俺の濁った赤い瞳が、目の前の光の中心を睨み据える。
「絶対に、許さない……!」
怒りが俺の最後の燃料だった。
チカを傷つけたこの森の王に対する、底なしの憎悪。
その黒い感情が俺の魔力をさらに禍々しい紅蓮の炎へと変え、フレイムサイクロンの勢いをさらに増大させていく。
もはや制御など考えていない。
ただ、破壊。
目の前のこの絶対的な存在を、この世界から完全に消し去ること。
それだけが俺の唯一の目的となっていた。
ズズズズズズズズズズズズズズン……!
俺の増大した破壊の力に、エンシェント・トレントが押し負け始めた。
小山のような幹の中心、俺の炎の槍が突き刺さった箇所が、まるで巨大なスプーンで抉られるようにゆっくりと、しかし確実に侵食されていく。
樹皮が炭化し、その内側にある数千年、数万年の時を重ねたであろう硬質な木質部が、紅蓮の炎に舐め取られ、ぱちぱちと甲高い音を立てて爆ぜていく。
いける。
このまま押し切れる!
このまま中心核まで焼き尽くしてやる!
俺が勝利を確信しかけた、その時だった。
エンシェント・トレントのマグマのように燃え盛っていた琥珀色の瞳が、ふっとその色を変えた。
怒りではない。
悲しみ。
森の全てを慈しむかのような、どこまでも深く、そして青い悲しみの色。
そしてその瞳から、一筋の黄金色の雫が流れ落ちた。
それは、涙。
森の王が流した一粒の涙。
その雫が俺の紅蓮の嵐に触れた瞬間。
世界が変わった。
◇
ジュワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!
俺の怒りの炎が、まるで水をかけられたかのようにその勢いを急速に失っていく。
王の涙。それはただの水滴ではなかった。
この森の全ての生命の源。
星そのものの生命力そのもの。
俺の憎悪に染まった破壊の力など、その絶対的な生命力の前ではあまりにもちっぽけで無力だった。
紅蓮の嵐は色を失い、ただの激しい風の渦へと戻っていく。
そしてその風さえも、王の涙から放たれる穏やかで温かい黄金色の光に触れて勢いを失い、やがて春のそよ風のように静かに消えていった。
「にゃ……あ……?」
後に残されたのは、魔力を完全に使い果たし、怒りという名の支えさえも失ったただの無力な黒猫。
俺は、その場にくずおれるようにへたり込んだ。
負けた。
完膚なきまでに。
俺の全力は、この王の前では赤子の癇癪にも等しいものだったのだ。
エンシェント・トレントの幹に空いた巨大な傷。
その傷口から黄金色の樹液がゆっくりと流れ出し、傷を癒していく。
俺が怒りの全てを込めて穿ったはずの傷は、ものの数秒で跡形もなく再生してしまった。
そしてその琥珀色の瞳は、再び怒りでも悲しみでもない、ただ静かでどこまでも深い森の叡智の色へと戻っていた。
その瞳が俺を見下ろしている。
だが、その視線には侮蔑も嘲笑も含まれてはいなかった。
むしろそこにあるのは、愚かな子供を優しく諭すような慈愛の色。
その時、俺の脳内に直接声が流れ込んできた。
それは輝石の洞窟で聞いたあの魔道書の声とは違う。
もっと古く、もっと重く、そして温かい老賢者のような声。
エンシェント・トレントの声だった。
『……小さき者よ。汝の力、確かに見事であった』
その声は言葉というよりも、意思の塊。
魂に直接語り掛けてくるような、不思議な響きを持っていた。
『だが、汝の力はあまりにも未熟。怒りに任せて振るわれる刃は、いずれ汝自身をも傷つけるだろう』
「にゃ……(うるさい……!)」
俺は弱々しく反論した。
「にゃあ……(お前のせいでチカが……! 俺の相棒が死にかけてるんだぞ! 怒って当然じゃないか!)」
『……否』
王は静かに首を振った。
いや、幹がわずかにしなった。
『あの小さき光の生命は、まだ消えてはおらぬ。汝の怒りは早計であったな』
「にゃっ……(え……?)」
俺ははっとして、腕の中のチカを見た。
確かに光は消えかかっている。
身体も氷のように冷たいままだ。
だが、その小さな胸がほんのわずかに上下しているのを、俺は確かに見た。
生きている。
チカはまだ、生きている!
『汝の怒りは、守るための力ではなかった。ただ己の無力さを、世界の理不尽さを、八つ当たりで破壊しようとしただけの幼き力よ』
王の言葉が、ぐさりと俺の胸に突き刺さる。
そうだ。
その通りだ。
俺はチカがやられたと思い込み、冷静さを失った。
守るべき相棒のことさえ忘れ、ただ目の前の敵を破壊することしか考えていなかった。
輝石の洞窟で俺が克服したはずの、あの黒い俺に再び身体を乗っ取られていたのだ。
『真の強さとは破壊の力ではない。育み、癒し、そして受け入れる力。この森が悠久の時をかけて紡いできた、生命の循環そのもの』
エンシェント・トレントの一本の巨大な根が、ゆっくりと俺の目の前まで伸びてきた。
その先端がぱかりと、花が開くように割れる。
そしてその中から、一滴の透き通った黄金色の雫が現れた。
それは先ほど王が流した涙と同じもの。
星の生命力そのもの。
『さあ、小さき者よ。その雫を、汝の友に』
俺は一瞬ためらった。
こいつは俺の敵だ。
その施しを受けていいものか。
だが、腕の中でか細い息を続けるチカの姿を見て、俺のちっぽけなプライドなどどうでもよくなった。
「にゃあ……(……ありがとう)」
俺は素直に頭を下げた。
そしてその黄金の雫を前足でそっとすくい上げる。
雫は太陽のように温かく、そして驚くほどに軽かった。
俺はその雫を、チカの小さな口元へと運んでいく。
雫がチカの身体に触れた、瞬間。
ぱああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!
チカの身体から温かい、柔らかな純白の光が溢れ出した。
それは今まで俺が見てきたどんな光よりも力強く、そして生命力に満ち溢れていた。
氷のように冷たかった身体が、みるみるうちに温かさを取り戻していく。
風前の灯火だった光が、真昼の太陽のように力強く輝き始めた。
「ちきゅ……? ちきゅーっ!」
チカがぱちりと、そのつぶらな瞳を開けた。
そして俺の顔を見て、嬉しそうに一声鳴いた。
その声は今までで一番元気で、力強かった。
「にゃ……にゃああ……(チカ……! よかった……! 本当に、よかった……!)」
俺は腕の中の温もりを確かめるように、ぎゅっと抱きしめた。
安堵で全身の力が抜けていく。
目頭が熱くなった。
猫の身体になって、初めて泣きそうになった。
俺はチカを抱きしめたまま、再びエンシェント・トレントを見上げた。
その琥珀色の瞳は、どこまでも優しかった。
『……小さき者よ。汝は守るべき者を得て、真の強さへの入り口に立った』
王の声が再び、俺の魂に響く。
『だが、汝の戦いはまだ終わってはいない。むしろ、ここからが始まりなのだ』
エンシェント・トレントの視線が、ふと俺の頭上、はるか天のさらに向こう側へと向けられた。
まるで俺をこの世界に送り込んだ、あのふざけた神様の存在を見透かしているかのように。
『汝には汝の、果たすべき使命がある。この森は汝にとって、学び舎に過ぎぬ』
「にゃあ……(使命……?)」
『いずれ分かる時が来る。その時まで力を蓄え、心を磨くがよい』
そう言うと、エンシェント・トレントはゆっくりとその琥珀色の瞳を閉じ始めた。
マグマのような怒りも、深い海のような悲しみも、全てがその巨大な瞼の奥へと吸い込まれていく。
そして再び、ただの静かなる古の巨木へと戻っていった。
広場を支配していた圧倒的な存在感も、すっと森の空気の中へと溶けていくように消えていった。
戦いは、終わった。
俺の負けだ。
だが、その敗北は不思議と悔しくはなかった。
むしろ今まで感じたことがないほどの、清々しい満ち足りた気持ちで俺の心は満たされていた。
力だけが全てではない。
俺はこの森の王との戦いで、その当たり前で、そして一番大切なことをようやく学ぶことができたのだ。
「ちきゅーっ!」
腕の中で完全に復活したチカが、嬉しそうに俺の顎をぺろぺろと舐めている。
そのザラザラとした懐かしい感触。
俺はくすぐったさに、思わず笑ってしまった。
「にゃはは……(こら、やめろって、チカ)」
俺たちの笑い声が、静かに戻った神聖な広場に温かく響き渡った。




