第十三話
目の前にそびえ立つのは、生命そのものとしか言いようのない絶対的な存在、森の主『エンシェント・トレント』。
その小山のような幹に浮かぶ、森の叡智を宿したかのような琥珀色の瞳が、俺というちっぽけな黒猫をただ静かに見下ろしている。
森の全てを操り俺を追い詰めたあの猛威が嘘のように、広場には再び神聖なまでの静寂が戻っていた。だが、それは決して戦いの終わりを意味するものではない。むしろ、本当の戦いがここから始まるのだという無言の宣告だ。
王の懐、その絶対的な領域に足を踏み入れた俺に、エンシェント・トレントは次の手を待っている。試練の第二段階、といったところか。
「にゃあ……」
俺はごくりと喉を鳴らした。
全身の毛穴から、じっとりと汗がにじみ出る。勝てない。本能がそう叫んでいた。俺が持つ最強の技ポイズン・ハイドラさえも塵へと変えた『フレイム・トルネード』でさえ、この巨木の前では線香花火ほどの意味もなさないだろう。その事実が、絶望という名の冷たい塊となって腹の底にずしりと沈む。
「ちきゅ……」
俺の毛皮に顔をうずめるようにしがみついているチカが、か細い声で鳴いた。その小さな身体の温もりが、凍てつきかけた俺の心に確かな熱を思い出させてくれる。
そうだ。俺は一人じゃない。
それに、ここで諦めるためにあの死の猛攻をくぐり抜けてきたわけじゃない。
道がないのなら、作るまでだ。
力が足りないのなら、この場で、今この瞬間に新たな力を生み出すしかない。
「にゃあ……(チカ、少し離れていろ。ここから先は、少し……いや、かなり危ない)」
俺は肩の上の相棒に、できるだけ穏やかな声で語りかけた。チカは俺の瞳に宿る尋常ではない光を見て取ったのか、一瞬ためらった後にこくりと小さく頷いた。そして音もなく俺の肩から飛び降りると、広場の端にある巨大な木の根元まで駆け寄り、心配そうにこちらを見守っている。
よし。これで心置きなく無茶ができる。
俺はエンシェント・トレントと真正面から向き合った。
琥珀色の瞳は変わらず静かだ。まるで、これから俺が何をしようとしているのか全てお見通しであるかのように。
面白い。見ていろよ、森の王様。お前というあまりにも巨大すぎる壁を前にして、このちっぽけな黒猫がどんな悪あがきを見せるのか。
俺はゆっくりと両の前足を前に突き出した。
右の前足には、純化された黄金の炎の魔力を。
左の前足には、翠色に輝く風の魔力を。
俺が持つ、二つの根源的な力。
これまでは、炎は『攻撃』、風は『機動』と、その役割を明確に分けて使ってきた。シルバーフェンリル戦では二つを『組み合わせる』ことで勝利をもぎ取った。ポイズン・ハイドラ戦では二つを無理やり『混ぜ合わせる』ことで、フレイム・トルネードという荒業を生み出した。
だが、どれも不完全だ。
組み合わせるだけでは、一足す一が二になるだけ。
無理やり混ぜ合わせても、それは不安定なエネルギーの暴走に過ぎない。
俺が目指すのは、その先。
炎と風、相反する二つの属性が互いの力を打ち消し合うことなく、相乗効果で無限にその力を増幅させ合う、完璧な『融合』。
一足す一が、十にも百にもなる究極の複合魔法。
理論は分かる。だが、どうすればそんな奇跡が起こせるのか皆目見当もつかない。
だが、やるしかないのだ。
「にゃあああ……(まずは、基本からだ……!)」
俺は二つの魔力をゆっくりと慎重に近づけていく。
右手の爪先に灯る、太陽のかけらのような黄金の炎。
左手の周りに渦を巻く、新緑のような翠の風。
二つのエネルギーが触れ合うか触れ合わないか、そのギリギリの距離。
ぴりぴり、と。
間の空間が、まるで高圧電流が流れているかのように激しく軋む。
炎は天へと昇ろうとし、風は地を這うように流れようとする。
水と油。プラスとマイナスの磁石。
本能的に互いを拒絶し合っているのが、手に取るように分かった。
「にゃっ……(くそっ、言うことを聞け……!)」
俺は強靭な精神力で、二つの魔力を無理やり押さえつけようと試みる。
だが、その瞬間。
パンッ!
小さな、しかし鋭い破裂音と共に二つの魔力は弾け飛んだ。
俺の身体はその衝撃で後ろに数歩よろめく。
両の前足がじんと痺れていた。
「ちきゅーっ!?」
遠くからチカの心配そうな声が聞こえる。
「にゃあ!(大丈夫だ、問題ない!)」
俺は強がって見せたが、内心では冷や汗がだらだらと流れていた。
今のはほんのわずかな魔力で試したからこの程度で済んだ。もし本気でやっていたら、俺の前足ごと吹き飛んでいたかもしれない。
やはり、単純にぶつけるだけではダメか。
俺は再び魔力を練り上げる。
今度はイメージを変えてみる。
炎を、風で包み込むイメージ。
炎という荒れ狂う獣を、風という名の檻に閉じ込める。
俺はまず、左手で安定した球状の風のバリアを作り出した。
そしてその中に、右手からそっと炎の魔力を流し込んでいく。
最初はうまくいっているように見えた。
黄金の炎は風の檻の中で大人しく燃え盛っている。
だが、俺が炎の魔力の注入量を増やしていくと、次第に檻の中の炎は勢いを増し、内側から風の壁を激しく叩き始めた。
ガンッ! ガンッ!
風の檻が悲鳴を上げるように、ぎしぎしと軋む。
まずい、このままでは檻が壊れる!
俺は慌てて風の魔力を強め、檻を補強しようとする。
だが、それがさらなる悪循環を生んだ。
風の圧力が高まったことで、中の炎はさらに激しく抵抗を始めたのだ。
まるで密閉された容器の中で、火薬が爆発する寸前のような危険な状態。
「にゃ、にゃああああっ!(まずい、暴発する!)」
俺は制御不能に陥った魔力の塊を、咄嗟に真上へと放り投げた。
黄金と翠の光球は、放物線を描いて空高く舞い上がる。
そして、広場の上空で。
ドゴオオオオオオオオオオオオンッ!
耳をつんざくような轟音と共に大爆発を起こした。
衝撃波が広場を吹き荒れ、周囲の木々がざわめき葉を散らす。
空からは、きらきらとした魔力の残滓が雨のように降り注いできた。
「……にゃふぅ……」
俺は爆心地の真下で、ぽっかりと口を開けてその光景を見上げていた。
今の爆発、下手をすればポイズン・ハイドラに放ったフレイム・トルネードの初撃くらいの威力はあったんじゃないか。
これを、もし自分の手元で暴発させていたら……。
考えただけで、全身の毛が逆立つ。
「ちきゅーっ! 大丈夫ーっ!?」
チカが木の根元から、半泣きのような声で叫んでいる。
「にゃ、にゃーん!(だ、大丈夫だ! 計算通りだ! 今のは威力を確かめるための、ただの実験だからな!)」
もちろん、真っ赤な嘘だ。
俺は自分の身体が黒焦げになっていないか、そっと確認する。幸い爆発が上空だったおかげで、俺は無傷だった。
ふと、エンシェント・トレントに視線を向ける。
森の王は相変わらず、静かにそこに根を張っているだけだった。
今の爆発にも動じた様子は一切ない。
その琥珀色の瞳は、まるで「そんなものでどうするのだ?」と俺に問いかけているかのようだった。
「にゃろー……(なめやがって……!)」
俺の負けん気に再び火がついた。
包み込むのがダメなら、今度は逆だ。
炎の中に、風を通す。
俺は右手に安定した黄金の炎球を作り出す。
そしてその炎の中心に向かって、左手から針のように細く絞った風の魔力をそっと送り込んでみた。
鍛冶師が炉にふいごで空気を送り込み、炎の温度を上げる、あのイメージだ。
すると、どうだ。
風の魔力を注ぎ込まれた炎は、その輝きをさらに一段階増した。
ごうっ、と。
燃焼効率が上がったのか、炎の温度が急激に上昇していくのが感じられる。
これだ! この方向性は間違っていない!
「にゃはは! 見つけたぞ、正解への糸口を!」
俺は歓喜の声を上げた。
だが、喜んだのも束の間。
俺はすぐに新たな問題に直面することになる。
風を送り込みすぎたのだ。
ボフッ!
まるで誕生日ケーキのロウソクを吹き消すように。
俺が作り出した黄金の炎は、自らが送り込んだ風によってあっけなくかき消されてしまった。
「…………にゃ。」
後に残ったのは、一筋の情けない煙だけ。
しーん、と。
広場に気まずい沈黙が流れる。
「ちきゅ……(あの……)」
「にゃ、にゃあ!(い、今のはわざとだ! そう、火加減の調整がいかに難しいかということを再確認するための、高度な実験だ!)」
俺はもはや自分でも何を言っているのか分からない言い訳を、大声で叫んだ。
恥ずかしい。
あまりにも恥ずかしすぎる。
エンシェント・トレントの琥珀色の瞳が、心なしか呆れているように見えたのはきっと気のせいだろう。そうに違いない。
その後も俺の珍妙な実験は続いた。
炎と風をメビウスの輪のように絡み合わせようとして、知恵の輪のように解けなくなりパニックになる。
炎の弾丸を風のレールに乗せて撃ち出そうとして、あらぬ方向へ暴発させる。
右足で炎、左足で風を操り、華麗なステップを踏みながら融合を試みるも、足がもつれて盛大にすっ転ぶ。
失敗。失敗。また失敗。
何度挑戦しただろうか。
俺の身体は魔力暴走の余波で、すでにボロボロだった。
漆黒の毛並みはあちこちが焦げ、土埃にまみれている。
魔力もほとんど底を突きかけていた。
頭がくらくらする。
思考がまとまらない。
「はぁ……はぁ……にゃあ……」
俺はついに、その場にへたり込んでしまった。
もう、ダメだ。
俺の才能ではこれ以上は無理なのかもしれない。
炎と風の完全な融合など、そもそも神の領域の御業なのかもしれない。
諦めの感情が、黒い霧のように心を覆い尽くしていく。
その時だった。
ふわ、と。
どこからともなく吹いてきた風が、一枚の木の葉を運び、力なく投げ出された俺の前足の先にひらりと落としていった。
――その何気ない光景が、疲弊しきった俺の脳裏にかつての穏やかな記憶を呼び起こした。
あれはチカと二人で過ごした平和な昼下がり。
俺の鼻先に落ちた木の葉を、チカが不思議そうに見つめていた。そして、ふーっと小さな息を吹きかけると、木の葉がその場でくるくるとコマのように回転を始めたのだ。『ちきゅ! ちきゅ!(わーい、回ったー!)』と無邪気にはしゃぐ相棒の姿を、俺は目を細めて眺めていた。
ただ風を当てて物を回す。それだけの、単純な遊び……。
――そこで、俺の意識ははっきりと現実へと引き戻された。
……回す?
回転……?
そうだ……そうか……!
俺は今まで、二つの力をどうやって『合わせる』かということばかり考えていた。
だが、それが根本的な間違いだったのだ。
合わせるんじゃない。
一つの力で、もう一つの力を『動かす』んだ!
台風を思い出せ。
台風の目、その中心は穏やかな無風地帯だ。
そしてその周りを、暴風が巨大な渦となって回転している。
あの圧倒的なエネルギーは、回転運動から生まれているのだ。
俺が作るべきなのは、炎と風を混ぜ合わせたただの爆弾じゃない。
炎を『核』とし、そのエネルギーを風の『回転運動』によって無限に増幅させる、巨大な『エンジン』!
「にゃ、にゃは……にゃはははははははは!」
俺は突然笑い出した。
絶望の淵から一気に光明の頂へと駆け上がったような、そんな感覚。
これだ! これこそが俺が探し求めていた、最後のピース!
「ちきゅっ!?(ど、どうしたの!? ついに頭がおかしくなっちゃった!?)」
俺の突然の豹変に、木の根元で固唾をのんで見守っていたチカが本気で心配している。
「にゃーん!(大丈夫だ、チカ! 大丈夫どころか最高だ! 見てろよ、俺の最後の実験を!)」
俺は残された最後の魔力を、一滴残らず振り絞った。
もう失敗は許されない。
これが最後の一撃。
俺はまず、左の前足に全ての風の魔力を集中させる。
そしてそれをただ放出するのではない。
俺の身体の周りに、巨大な水平方向の風の渦を作り出す。
最初は穏やかな流れ。
だが、その渦は周囲の空気を巻き込みながら、次第にその回転速度を上げていく。
びゅうううううううううっ!
やがて俺の周りには、巨大な竜巻の壁が形成された。
そして、次が本番だ。
俺は右の前足に全ての炎の魔力を集中させる。
黄金の炎が爪の先に、太陽のように輝く。
そしてその炎を、爆弾としてではない、燃料として竜巻の壁の内側へとそっと注ぎ込んだ。
その、瞬間だった。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
風の竜巻が炎という燃料を得て、爆発的にその姿を変貌させた。
翠色だった風の渦は、一瞬にして黄金色の灼熱の嵐へと変わる。
それはもはやただの竜巻ではない。
炎そのものが意志を持って渦を巻いているかのようだ。
天と地を繋ぐ、巨大な炎の柱。
その柱は周囲の空間から魔力を根こそぎ吸い上げ、さらにその勢いを増していく。
俺は、その嵐の中心、台風の目の中にいた。
嘘のように穏やかで静かな空間。
だが一歩外に出れば、全てを焼き尽くし、全てを切り刻む破壊の嵐が吹き荒れている。
その圧倒的なエネルギーの奔流を、俺は確かにこの手で制御していた。
できた。
ついに完成した。
炎の破壊力と、風の突破力。
その二つを完璧に融合させた、俺だけの究極の魔法。
俺は嵐の中心で、静かにその名を呟いた。
その名は、『フレイムサイクロン』。
俺が顔を上げると、目の前のエンシェント・トレントの琥珀色の瞳がわずかに見開かれていた。
その瞳の奥に、初めて明確な『驚嘆』の色が浮かんでいるのを、俺は確かに見た。




