第十一話
睡眠から起きた、俺の身体は、嘘のように軽かった。
ポイズン・ハイドラとの死闘で完全に枯渇したはずの魔力は、満々と水を湛えた湖のように、その隅々まで満ち溢れている。いや、回復どころか、一度完全に空っぽになったことで何かの変化さえ起きているようだった。以前よりもさらに澄み渡り、力強く、そして穏やかに、俺の身体の中心で循環しているのが分かる。
だが、それ以上に俺の心を占めていたのは、眠りの中で起きた、あのあまりにも鮮明な出来事だった。
「にゃあ……(猫神……)」
俺は、洞窟の入り口に立ち、どこまでも広がるエターナル・フォレストを見渡しながら、あの軽いノリの神の名を忌々しげに呟いた。
夢の中で告げられた、衝撃の事実。この森での俺の戦いが、壮大な物語の、まだ序章に過ぎないという、謎めいた言葉。そして、この森の生態系の頂点に君臨するという、真の『王』の存在。
腹立たしい。実に腹立たしい。俺の覚悟も、苦悩も、全てが奴の掌の上で踊らされていたのだと思うと、腸が煮え繰り返る思いだ。
だが、同時に、俺の心の奥底では、消えかけていた闘争心の炎が、再びごうっと音を立てて燃え盛っていた。
森の主。最強の、その先。俺が倒すべき、最後の目標。
あのふざけた神様は、俺に、まだこの理不尽で面白いゲームを続けろと、そう言っているのだ。
「ちきゅ?(どうしたの? 難しい顔をして……)」
俺の背後から、心配そうな声がした。振り返ると、そこには完全に元気を取り戻したチカが、つぶらな瞳でこちらを見上げている。その銀色に輝く毛並みは、以前にも増して生命力に満ち溢れているように見えた。
「にゃーん(いや、ちょっとな。チカ、俺たちは、もう一度旅に出なきゃならなくなった)」
「チカッ!(旅に?)」
俺は頷くと、森の最も深く、最も魔力が濃い一角を、顎で示した。
「にゃーん(ああ。この森の、本当の『王様』に、挨拶をしにな)」
俺の瞳の中に、再び宿った決意の光を見て取ったのか、チカは一瞬きょとんとした後、満面の笑みで、いや、満面の光で力強く一声鳴いた。
「ちきゅーっ!(うんっ!)」
その返事に、迷いは一切なかった。最高の相棒だ。
そうだ、目標は定まった。
あの猫神の思惑通りに進むのは癪だが、このままでは終われない。俺が俺自身の物語の主人公であるために、この最後の試練を乗り越えなければならない。
「にゃーん(行くぞ、チカ。腹ごしらえが済んだら、すぐに出発だ。目指すは、この森の最深部!)」
「チカッ!(うんっ!)」
俺の決意に満ちた声に、チカは力強くもう一度鳴いた。そのつぶらな瞳には、俺への絶対的な信頼と、未知なる冒険への期待がきらきらと輝いている。
そうだ、目標は定まった。
この広大なエターナル・フォレストの生態系の頂点に君臨するという、真の『王』。猫神はそいつを倒すことが、次のステージへの挑戦権だと言っていた。
面白い。面白じゃないか。
これまでの戦いが、まだ壮大な物語の序章に過ぎないというのなら、その物語、とことんまで付き合ってやろうじゃないか。
チカが集めてくれた木の実で腹を満たし、俺たちは簡単な旅の準備を整えた。
準備といっても、身一つ、いや、猫一匹と光る毛玉一匹の旅だ。荷物など何もない。俺の魔法とチカの光、そして互いへの信頼。それだけが俺たちの装備の全てだった。
俺はチカを肩に乗せ、拠点である巨大な木の洞を後にした。
目指すは、森の主が待つという、いまだ誰も足を踏み入れたことのない未知の領域。
俺たちの新たな冒険が、今、静かに幕を開けたのだった。
◇
森の深部へと向かう道は、これまで俺たちが経験してきたどの道程とも全く異なっていた。
シルバーフェンリルと戦った中層域でさえ、まだ森としての秩序や法則のようなものが感じられた。だが、ここは違う。
一歩足を踏み入れた瞬間から、肌を刺すような濃密な魔力の圧力が全身にのしかかってくる。空気そのものに粘り気があるかのように、呼吸をするたびに肺が重くなる感覚。まるで水飴の中を歩いているかのようだ。
「にゃっ……(こりゃ、想像以上だな……)」
俺は思わず悪態をついた。風魔法で常に身体を軽くしていなければ、一歩進むことさえ困難だっただろう。
周囲の景色も、一変した。
木々の幹はどれも、大蛇が絡み合ったかのように禍々しくねじくれ、その枝葉は空を覆い隠すように鬱蒼と生い茂っている。おかげで昼間だというのに、あたりは夜の帳が下りたかのように薄暗い。
「ちきゅ……(なんだか、ちょっと怖いね……)」
俺の肩の上で、チカが不安そうな声を漏らす。その身体から放たれる光が、まるで心細さを表すかのように、わずかに揺らめいていた。
「にゃあ(大丈夫だ、チカ。俺がついてる)」
俺は相棒を励ますように、力強く喉を鳴らした。
チカの光は、この不気味な森を進む上での唯一の道標だ。こいつが不安になれば、俺たちの進む道も閉ざされてしまう。
俺の言葉に少しだけ安心したのか、チカの光が再び力強さを取り戻した。よしよし、いい子だ。
俺は聴覚と嗅覚を最大限に研ぎ澄まし、警戒を怠らずに進んでいく。
だが、奇妙なことに、あれほど濃密な魔力に満ちているにもかかわらず、この森には生物の気配が全くと言っていいほど感じられなかった。
鳥のさえずりも、虫の羽音も、獣の足音も聞こえない。
ただ、俺たちの足が落ち葉を踏む、かさ、かさ、という乾いた音だけが、不気味な静寂の中に響いている。
「にゃーん(まるで、森全体が死んじまってるみたいだ……)」
いや、違う。
死んでいるのではない。
眠っているのだ。
何か一つの、巨大な意志の下に、森の全てが息を潜めている。
そうとしか思えない、異様な統制感。
木々の一本一本が、まるで監視者のように、俺たち侵入者のことを見下ろしているような、そんな錯覚さえ覚える。
俺は、猫神の言葉を思い出していた。
『森そのものを統べる、古の存在』
この異常な静寂と統制感こそが、その『王』がこの森を完全に支配している証拠なのかもしれない。
しばらく進むと、俺の鼻が奇妙な匂いを捉えた。
甘い花の蜜のような、それでいてどこか金属が錆びたような、ちぐはぐな匂い。
匂いのする方へ近づいてみると、そこには小さな泉があった。
泉の水は、まるで溶かした金のように、美しい黄金色に輝いていた。
「ちきゅ!(わあ、きれい!)」
チカが感嘆の声を上げる。
確かに美しい。だが、俺の本能がけたたましく警報を鳴らしていた。
この美しさは、危険な罠だ。
俺は鑑定スキルを発動させる。
【黄金泉】。高濃度の魔力が液体化したもの。生物が飲めば、その身は内側から魔力に焼かれ、塵と化す。ただし、魔力を糧とする一部の特殊な魔物にとっては、極上の蜜となる。
「にゃっ!(危ねえ! チカ、絶対に近づくなよ!)」
俺は慌ててチカを制止した。
この森では、美しいものほど危険だということを、改めて肝に銘じる。
泉の周りには、いくつかの動物の骨らしきものが白く風化して転がっていた。この泉の美しさに惹かれて、命を落とした者たちの成れの果てだろう。
俺たちは、その不気味な黄金の泉から足早に離れた。
この森の深部は、もはや俺が知っている自然の法則が通用する場所ではない。
一歩間違えれば、即、ゲームオーバー。
そんな死の罠が、至る所に張り巡らされているのだ。
緊張で、肉球にじっとりと汗がにじむ。
さらに奥へと進むと、今度は巨大な植物群生地にたどり着いた。
そこに生えているのは、巨大なキノコだった。
高さは、俺が拠点にしていたあの大木に匹敵するほど。傘の直径は数十メートルはあり、その表面は虹色に妖しく明滅している。
まるでファンタジー映画のセットのような、非現実的な光景。
だが、そのキノコの傘の下からは、絶えず色とりどりの胞子が、雪のようにひらひらと舞い落ちていた。
【幻惑の胞子】。吸い込むと、五感を狂わされ、現実と幻の区別がつかなくなる。長時間吸い続けると、精神が崩壊し、二度と元には戻れない。
「にゃろー……(またこれかよ……)」
俺は、ポイズン・ハイドラ戦での苦い記憶を思い出し、顔をしかめた。
俺はすぐに風魔法で自分の周囲に風の壁を作り出し、胞子がこちらに来るのを防ぐ。
「チカ、息を止めてろ!」
「ちきゅ!(ぷくーっ!)」
チカが、頬をいっぱいに膨らませて息を止める。その姿は可愛らしいが、状況は全く可愛らしくない。
このキノコ地帯を、どうやって突破するか。
風の壁を維持したまま、駆け抜けるしかない。
だが、この規模のキノコ地帯だ。端から端まで、どれくらいの距離があるか分からない。途中で魔力が尽きれば、俺たちは幻覚の世界で永遠に彷徨うことになるだろう。
いや、待てよ。
なにも、地上を進む必要はないじゃないか。
俺には、空を飛ぶという選択肢がある。
「にゃはっ(俺としたことが、すっかり忘れてたぜ)」
俺はにやりと笑うと、チカに息をしてもいいと合図した。
そして、風魔法の出力を上げ、その場で垂直に上昇を始める。
風の壁で胞子を吹き飛ばしながら、ぐんぐんと高度を上げていく。
やがて俺たちは、巨大なキノコの傘の上に出た。
そこは、まるで雲の上にいるかのような、不思議な光景だった。
虹色に輝く傘が、どこまでも続く大地のように広がっている。
胞子の影響も、ここまで来ればもうない。
「にゃーん(空からのショートカットと行こうぜ、チカ!)」
「チカッ!(うん!)」
俺はキノコの傘の上を、滑るように飛んでいく。
地上を進むよりも、はるかに安全で、速い。
ウィンドイーグルとの戦いで手に入れたこの飛行能力が、こんなところで役に立つとは。
全ての経験は、無駄にはならないということか。
キノコ地帯を抜け、俺たちは再び薄暗い森の中へと降り立った。
だが、そこから先の森の雰囲気は、今までとはさらに一線を画していた。
空気が、重い。
物理的に、重力を感じる。
風魔法で身体を軽くしていなければ、地面に押し付けられてしまいそうだ。
【重力地帯】。この一帯は、極めて高い魔力密度により、空間そのものが圧迫され、常に通常の数倍の重力がかかっている。
「にゃ、にゃあああ……(マジかよ……。こんなのアリか……)」
俺は、膝をつきそうになるのを必死にこらえた。
全身の筋肉が、悲鳴を上げている。
ただ立っているだけで、体力がごりごりと削られていくのが分かった。
チカも、俺の肩の上でぐったりとしている。
これが、森の主が住まう領域への、最後の関門ということか。
侵入者を拒む、森そのものが作り出した、天然の要塞。
小手先の魔法など通用しない。
問われているのは、純粋な筋力と、精神力。
この圧倒的な重圧に耐え、前に進むことができるか、どうか。
「にゃろー……(なめるなよ……!)」
俺は、歯を食いしばり、一歩、前に足を踏み出した。
ずしり、と。
足が、地面にめり込むかのような感覚。
だが、俺は止まらない。
「俺は……猫だ……!」
意味不明の雄叫びを上げ、俺は自分を奮い立たせる。
猫の身体は、その小ささに見合わない、しなやかで強靭な筋肉を持っている。
そして、俺の身体には、風の魔力が循環し、常にその能力を底上げしている。
「うおおおおおおおおっ!」
俺は、四肢の筋肉を極限まで隆起させ、この重力地帯を、一歩、また一歩と、踏みしめて進んでいった。
一歩進むごとに、全身から汗が噴き出す。
呼吸が、荒くなる。
意識が、遠のきそうになる。
だが、俺の瞳の奥では、猫神に啖呵を切った、あの時の決意の炎が、まだ消えずに燃え盛っていた。
どれくらいの時間、歩き続けただろうか。
もはや、時間の感覚も、方向の感覚も、あやふやになっていた。
ただ、前に進むことだけを考え、機械的に足を動かし続けていた。
その時。
ふっと、身体が軽くなった。
あの、全身を押し潰すような重圧が、嘘のように消え去っていた。
俺は、勢い余って、前のめりに数歩、たたらを踏む。
「にゃ……?(終わった……のか?)」
俺は、顔を上げた。
そして、目の前に広がる光景に、息をのんだ。
◇
そこは、森の中とは思えないほど、開けた場所だった。
巨大な円形の広場。
地面は、まるで磨き上げられたかのように滑らかな、一枚岩でできている。
そして、その広場の周囲を、まるで闘技場の観客席のように、巨大な木々が円形に取り囲んでいた。
どの木も、俺が今まで見たどんな木よりも古く、そして巨大で、その幹には賢者のような風格さえ感じられた。
ここは、神聖な場所だ。
一目見ただけで、そう理解できた。
森の、中心。
世界の、臍。
そんな、荘厳な空気に満ちていた。
そして、俺の視線は、自然と、その広場の中央へと引き寄せられた。
そこに、それは、いた。
いや、生きていた。
根を張っていた。
それは、一本の、巨大な樹木だった。
周囲を取り囲む木々さえも、まるで盆栽のように見えてしまうほどに、圧倒的に巨大な、古の樹木。
その幹は、もはや幹というよりは、小さな山のようだった。
天に向かって伸びる枝は、雲を突き抜け、その先が見えない。
地面を這う根は、大地そのものと一体化し、どこまでが根で、どこからが地面なのか、その区別さえつかない。
そして、その巨木全体から、生命そのものとしか言いようのない、圧倒的な気配が放たれていた。
それは、魔力ではない。
もっと根源的で、もっと純粋な、星の息吹のような力。
この森の全ての生命は、この一本の樹から生まれ、そして、この樹へと還っていく。
そう確信させるほどの、絶対的な存在感。
猫神は言った。
ポイズン・ハイドラでさえ、赤子同然だと。
その言葉の意味を、俺は今、骨の髄まで理解した。
あの化け物でさえ、この巨大な生命体の前では、その足元に生える、一本の雑草ほどの価値もないだろう。
俺の脳内に、もはや鑑定結果は表示されなかった。
ただ、畏敬の念と共に、その名だけが、魂に直接、刻み込まれる。
【エンシェント・トレント】
森の、主。
古の、王。
この森の、始まりにして、終わりの存在。
その巨木は、動かない。
ただ、そこに在るだけ。
だが、俺には分かった。
この樹は、俺の存在に、とっくの昔から気づいている。
俺がこの森に現れた、その瞬間から、俺の一挙手一投足を、全て、見ていたのだ。
俺の身体が、本能的な恐怖で、動かなくなった。
勝てない。
これは、戦ってどうにかなる相手ではない。
次元が違う。
象が蟻を踏み潰すよりも、もっと一方的に、俺という存在は、消し去られてしまうだろう。
「ち……きゅ……」
肩の上のチカが、か細い声で鳴いた。
その小さな身体は、恐怖で完全に硬直し、光さえも消えかかっている。
ダメだ。
俺が、ここで怖気づいてどうする。
俺は、こいつに会うために、ここまで来たんじゃないか。
俺は、動かない身体に、必死に活を入れる。
震える足で、一歩、前へ踏み出した。
その、たった一歩が、今まで経験したどんな重力地帯よりも、重く感じられた。
俺は、天を衝く巨木を見上げ、ありったけの声で、叫んだ。
それは、恐怖を振り払うための、虚勢の雄叫び。
そして、この絶対的な存在に対する、ちっぽけな黒猫の、精一杯の挑戦状。
「にゃああああああああああああああああッ!」
俺の鳴き声が、神聖な広場に、こだました。
それに応えるかのように。
ごごごごごごごごご……。
大地が、揺れた。
エンシェント・トレントの、太い幹に、ゆっくりと、一つの巨大な『瞳』が、開かれた。
その瞳は、森の全ての歴史を、その内に宿しているかのように、どこまでも深く、そして、静かだった。
王が目覚めた。
俺の戦いは、まだ、終わっていなかった。




