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第一話

 俺の人生は、どうやら猫に呪われているらしい。

 いや、マジで。ガチで。そんじょそこらの「猫好き」なんて生易しいレベルの話じゃない。これはもう、前世で猫の国でも滅ぼしたんじゃないかと疑うレベルの、根深い因縁としか言いようがない。


 物心ついた頃の記憶といえば、なぜか近所の野良猫たちの縄張り争いのど真ん中で、ランドセルを盾にしながら登下校していた光景だ。右を見れば茶トラ軍団がメンチを切り、左を見ればキジトラ連合が唸りを上げる。その真ん中を、俺は毎日「シャーッ!」という威嚇の集中砲火を浴びながら、まるで最前線を駆け抜ける衛生兵のような気分で通り抜けていた。なんで俺が。


「お前、なんか変な匂いでも出てんじゃねーの? 猫を惹きつけるフェロモン的なやつ」


 当時、数少ない友人だったヤツは、面白そうにそう言った。


「出るか、そんなもん! どっちかっつーと、俺は被害者やっちゅーねん!」


 そう、俺は断じて猫好きアピールをしているわけではない。むしろ被害者だ。小学生の頃なんて、その被害はさらに深刻化した。ある日の算数の授業中、静まり返った教室に、それはもう可愛らしい声で「にゃーん」という鳴き声が響き渡ったのだ。声の発生源は、俺の足元に置かれたランドセル。中をそっと開けてみると、いつの間にか潜り込んでいた手のひらサイズの子猫が、きょとんとした顔で俺を見上げていた。


 結果、どうなったか。言うまでもない。先生にはこっぴどく叱られ、クラスの女子からは「動物虐待ー!」となぜか俺が悪者扱い。いやいや、虐待してるのは俺のランドセルを不法占拠してるそっちやろがい! と叫びたかったが、子猫の「にゃあ…」という心細そうな鳴き声を聞いたら、もう何も言えなくなってしまった。結局、その子猫は俺がこっそり家に連れて帰り、親に内緒で一晩だけ段ボールハウスを提供したが、翌日、両親に見つかり、こっぴどく怒られた。あの時、子猫から指先をぺろぺろと舐められたザラザラした感触は、今でも忘れられない。


 中学生になれば、カバンに入れておいた昼食のサンドイッチを、いつの間にか校舎に忍び込んだ猫に食い逃げされるのが日課になった。最初は犯人が分からず、クラスメイトの誰かのイタズラかと思っていた。だが、ある日、俺の机の引き出しからツナマヨサンドを咥えて走り去る三毛猫の後ろ姿を目撃した時、全ての謎は解けた。犯人はお前か! しかも、ご丁寧にタマゴサンドは残し、ツナマヨだけを的確に選んでいくあたり、相当な食通と見た。


 高校の文化祭では、クラスで運営していた喫茶店の休憩室で仮眠をとっていたら、いつの間にか窓から侵入してきた猫軍団に身体を占領されていた。目が覚めた時、俺の腹の上ではボス猫らしきふてぶてしい顔のヤツが香箱座りを決め込み、足元では数匹の子猫がじゃれ合い、頭の周りではなぜか猫たちが円陣を組んでいた。俺の身体は完全に猫タワーと化していたのだ。その光景をクラスメイトに激写され、俺は『猫憑き』という、なんとも不名誉なあだ名を頂戴することになった。動画はなぜかバズり、しばらくの間、俺は校内の有名人だった。嬉しくもなんともない。


 そんな俺の猫難は、大学に入って一人暮らしを始めてから、さらに深刻化の一途をたどることになる。



「だから! うちはペット不可だって何度言えば分かるんだよ!」


 俺は、アパートのベランダで大あくびをしている三毛猫に向かって叫んだ。こいつが、この辺りの猫社会を牛耳っているボス猫だ。片耳が少し欠けているのが、数々の修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の猛者の証らしい。


「にゃーん」


 ボス猫は、まるで俺の訴えなどどこ吹く風とばかりに、悠然と毛づくろいを始めた。そのふてぶてしい態度は、もはや王者の風格すら感じさせる。


 そう、俺が住むこのアパートは、契約書にもでかでかと『ペット飼育厳禁』と書かれている、ごく普通の学生向けアパートだ。それなのに、なぜか俺の部屋のベランダだけが、地域の猫たちの公式集会所になってしまっているのだ。口コミならぬ「猫コミ」で、『立川の部屋はセキュリティガバガバで居心地最高』みたいな評判でも広がっているのだろうか。


「おい、新入り! そこは俺様の席だぞ!」


「シャーッ!」


 見れば、最近よく顔を出すようになった喧嘩っ早い茶トラが、古参のキジトラに喧嘩を売っている。やめろお前ら、俺の安物のサンダルを爪とぎに使うのは! もうボロボロじゃないか!


 毎日のように新顔が訪れては、「餌を出せ」「撫でろ」「ここは俺の寝床だ」と、それぞれの鳴き声で好き勝手な要求をしてくる。断ろうものなら、爪を立てられ、集団で鳴かれ、ご近所からの苦情の電話が俺のスマホを鳴らす。結局、俺はなけなしのバイト代をはたいて高級なキャットフードを献上し、冬が近づけばホームセンターで買ってきた断熱材入りの猫ハウスまでDIYする始末。俺は一体、何と戦っているんだ。


「おーい、立川。いるかー?」


 玄関のドアがノックされ、大学の友人である男の声がした。


「おう、今開ける」


 俺がドアを開けると、友人は俺の部屋をちらりと見て、すぐにベランダの方に視線を移した。


「……相変わらず、すごいことになってんな。猫カフェでも開くつもりか?」


「誰が好きでこんな状況になってると思ってんだ。ほら、上がれよ」


 友人は苦笑しながら部屋に入り、我が物顔で冷蔵庫を開けて麦茶を取り出した。


「で、レポートは進んだのか?」


「進むわけないだろ、この状況で。昨日もキーボードの上で寝られて、レポートのデータが一行まるごと『にゃにゃにゃにゃにゃ』に変換されてたんだぞ。危うくそのまま提出するところだったわ」


「はははっ! そりゃ災難だったな。でもまあ、お前も満更でもないんだろ?」


 友人はニヤニヤしながら、ベランダで日向ぼっこをしている猫たちを指さした。


「お前、結局あいつらのために、今月のバイト代もほとんどキャットフードにつぎ込んだんだろ? もはやお前は猫のATMだよ」


「うっさいわ!」


 図星だったので、俺は強く言い返せなかった。そうなのだ。どれだけ理不尽な目に遭わされても、文句を言いながらも、結局は許してしまう。雨に濡れて震える子猫を見れば、自分の傘を差し出してずぶ濡れで帰るし、腹を空かせた顔で足元にすり寄られれば、自分の夕飯を抜いてでも、財布の最後の百円玉をキャットフードに変えてしまう。


 これは呪いか、それともただの絆されやすいお人好しか。


 たぶん、両方だ。だから、俺は今日も明日も、猫たちの忠実なる下僕として生きるのだ。


「まあ、頑張れよ、猫の王様。あ、そうだ。この間撮ったお前のとこの猫の写真、例の動画投稿アプリに上げたら、結構『いいね』ついたぞ」


「勝手に上げるな!」


 俺の叫びも、友人はどこ吹く風だった。



 そんな俺が、ほとんど日課として通う場所がある。

 大学からアパートへの帰り道、雑居ビルと民家の間の、人ひとりがやっと通れるような細い路地を抜けた先。そこだけが、まるで都会の喧騒から切り取られたかのように、ひっそりと静まり返っている。今はもう誰も管理していないであろう、小さな社。


 赤色が剥げて白茶けた鳥居は、もはやただの古い木枠にしか見えない。社殿もあちこちが傷んで、屋根には苔が生え、風が吹くたびにぎしぎしと頼りない音を立てる。それでも、ここにはかつて『猫神様』が祀られていたという言い伝えがあった。真偽のほどは定かではないが、俺にとっては、この街で唯一、誰に気兼ねすることなく文句を言える相手がいる場所だった。いわば、俺専用のカウンセリングルームみたいなものだ。


 今日も俺は、その古びた社の前に立ち、コンビニで買ってきた一番高いプレミアム缶詰をそっとお供えする。もちろん、猫用のやつだ。カツオとマグロのゼリー寄せ、グルメな猫も唸る逸品。これは賄賂だ。今日の愚痴をどうか穏便に聞いてもらうための。


「猫神様。本日もお疲れ様です」


 パン、パン、と柏手を打つ。乾いた音が、湿った土と苔の匂いがたちこめる狭い空間に、やけに大きく広がった。


「……聞いてくださいよ、神様。今日もうちのベランダ、大変だったんですから。新入りの茶トラが、ボスの三毛に喧嘩を売って大騒ぎ。おかげで俺の安物のサンダルはズタボロですよ。もう片方しか残ってません。あと、バイト代、今月も赤字確定です。全部あいつらのせいです。いい加減、俺に憑いてる猫難の相でも祓ってくれませんかね? もうちょっと、こう、穏やかな猫ライフを送りたいんですけど……」


 これが俺の毎日の祈り、という名の愚痴だ。もちろん、本気でどうにかなるとは思っていない。ただ、こうして誰かに聞いてもらうだけで、少しだけ心が軽くなる。どうせ俺は、明日もまた猫たちの下僕として生きるのだから。人間関係の悩みは友人に話せるが、猫関係の悩みは、本気で心配されるか、ただ笑われるかのどっちかだ。その点、神様相手なら気楽でいい。


 ふと、社の裏手の、崩れかけた石灯籠の物陰からガサガサと物音がした。そちらに目を向けると、一匹の黒猫がこちらをじっと見ていた。夜の闇がそのまま形になったような、艶やかな毛並み。その中にあって、爛々と輝く金色の瞳だけが、まるで小さな星のように浮かび上がっている。その瞳は、俺の全てを見透かしているかのようだ。その視線は、そこらの野良猫が向けるものとは、どこか質が違うように感じられた。


「おや、先客がいたのか。それとも、神様の使いかな?」


 俺がにこりと笑いかけると、黒猫は「ふん」とでも言うように鼻を鳴らし、ぷいと顔をそむけた。そのツンとした態度がまたたまらない。野良として生きる厳しさが、その小さな全身からにじみ出ている。そこらの餌待ち猫とは一線を画す、孤高のプライドのようなものを感じた。


「まあ、そう邪険にしないでくれ。お供え物は君にやるからさ。きっと美味いぞ、最高級品だからな。俺の昼飯より高いんだから」


 俺はそう言い残し、社に背を向けた。いつまでも居座っては、彼が落ち着いて食事もできないだろう。猫との距離感は、常に猫ファーストで考えるのが紳士の嗜みだ。名残惜しいが、仕方ない。あの金色の瞳、やけに心に残るな。


 さて、帰って動画サイトにアップされている最新の猫動画でもチェックするか。愚痴は言ったが、結局のところ、俺は猫が好きなのだ。最近のお気に入りは、飼い主のキーボードの上で堂々と寝ることで有名な、あのふてぶてしい顔のメインクーンだ。ああ、考えただけで頬が緩む。今日も一日、平和だったな。


 そんな、いつもと何ら変わらない、平和で猫に満ちた一日の終わり。


 そのはずだった。



 社の敷地から出て、アスファルトの道を踏みしめた、まさにその瞬間だった。


 世界が、白になった。


 何の予兆もなかった。突然、視界の全てが純白の光で塗り潰されたのだ。それは太陽を直接見た時のような、目を焼く暴力的な光ではない。むしろ、どこまでも柔らかく、穏やかで、それでいて抗うことのできない絶対的な光だった。まるで、濃い霧の中にいるような、それでいて温かい、不思議な感覚。


 なんだ、これ。


 思考が停止する。あまりに非現実的な光景に、脳が理解を拒絶している。車のヘッドライトか? いや、違う。音がない。匂いもない。ただ、全身が温かい液体の中に沈んでいくような、不思議な感覚だけがあった。まるで、母親の胎内にでもいるかのような、抗いがたい安心感。


 手足の感覚が消えていく。自分が立っているのか、倒れているのかさえ分からない。上下左右の感覚があやふやになり、ただ白い光の中に『俺』という意識だけが、ぽつんと浮かんでいる。


 まずい。これは、何か、とんでもないことに巻き込まれている。この心地よさは、危険な兆候だ。生物としての本能が、けたたましく警報を鳴らしている。


 そう理解した時には、もう遅かった。意識そのものが、ゆっくりと白に溶け込んでいく。まるで、水彩絵の具が水ににじんでいくように、俺という存在のふちがぼやけて、薄れていく。抗おうにも、身体がない。叫ぼうにも、口がない。


 ああ、これが死ぬってことなのか。


 意外と、怖くはない。痛みも苦しみもない。ただ、ひたすらに穏やかで、眠たい。これが運命なら、受け入れるしかないのか。


 最後に思い浮かんだのは、やはり猫のことだった。俺がいなくなったら、アパートのベランダに来るあいつらは、ちゃんと餌をもらえるだろうか。冬用の猫ハウス、もっと頑丈に作っておけばよかったな。あいつらが風邪をひかなければいいが。結局、最後まで猫の心配かよ、俺は。我ながら、本当にどうしようもない。


 そんな、どうでもいい後悔が頭をよぎった、その時。


『あ、君に決めた』


 唐突に、頭の中に直接、声が流れ込んできた。


 男の声でも、女の声でもない。子供のようでもあり、老人のようでもある、性別も年齢も超越した、不思議な声。


『面白そうだから、頑張ってね』


 その声は、やけに軽かった。まるで、道端の石ころでも拾い上げるかのような、何の重みもない口調。


 頑張ってね、じゃないだろ。こっちは人生の一大事なんだぞ。何を頑張れって言うんだ。


 そう反論しようとしたが、もう声は出なかった。


 俺の意識は、その軽い一言を最後に、ぷつりと途切れた。

 真っ白な世界が、今度は真っ暗な闇に変わっていく。

 そして、その闇さえも、やがて無になった。

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