第18話 「封印の器と揺らぐ均衡」
夜が明け、湿地帯の霧はわずかに薄らいでいた。
魔族部隊は再び北へ進路を取る。目的地は“黒根洞窟”──魔族側の古文書に「禁忌の器」が眠ると記される場所だという。
蓮は歩きながら、周囲の魔族兵たちの距離感を測っていた。
昨日のロゼッタの単独行動で警戒は緩んだが、完全な信頼には程遠い。
背後から感じる視線は、依然として鋭いままだ。
「ロゼッタ、大丈夫?」
凛が小声で尋ねると、ロゼッタは口元だけで笑った。
「大丈夫じゃないけど、大丈夫に見せるのが得意なの」
「……ややこしいわね」
そんな軽口を叩きながらも、彼女の瞳は常に周囲を警戒していた。
やがて、黒々とした岩肌が地面から突き出したような洞窟が見えてきた。
入口は半ば崩れ、黒い苔と蔦が絡みついている。
その奥からは、冷たく湿った空気と、微かに魔力の匂いが漂っていた。
「ここか……」
レヴァルが先に立ち、部隊を中へと導く。
洞窟の内部は複雑な分岐が多く、足元は濡れた岩で滑りやすい。
松明の炎が壁に揺らめき、影が不気味に伸びては消えた。
数十分ほど進むと、大広間のような空間に出た。
中央には黒い石の台座、その上に長方形の箱が置かれている。
全体に赤黒い鎖が巻き付けられ、鎖の節々には封印のルーンが刻まれていた。
「これが……封印の器」
レヴァルが低く呟く。
ロゼッタは一歩近づき、じっと鎖を見つめた。
その表情は、珍しく硬い。
「……この術式、見覚えがあるわ」
「どこで?」蓮が問う。
「私が封印された時と、ほとんど同じ……だけど、こっちはもっと古い時代のものね」
凛が鎖に手を伸ばそうとした瞬間、ロゼッタが制止した。
「触らないで。これは“監視型封印”よ。無理に解けば、術者かその後継者に感知される」
その言葉に、周囲の魔族兵たちがざわめく。
レヴァルは険しい目でロゼッタを見た。
「なぜそんなに詳しい?」
「理由は単純よ。私も同じものを掛けられたから」
堂々と答えるロゼッタの声には、一切の揺らぎがなかった。
しかし、そこで一人の魔族兵が口を挟む。
「なら、あんたが封印を解けばいい。俺たちが手を出すより早いだろう」
「……簡単に言うわね」ロゼッタは苦笑した。
「これはただの封印じゃない。中身が暴れれば、この洞窟ごと吹き飛ぶわ」
沈黙が広がる。
その間に、蓮は箱の周囲を回り込み、壁の装飾を確認した。
そこには古代文字でこう刻まれていた。
──『器は二度目の覚醒を迎えるなかれ。迎えれば、世界は三日で闇に沈む』。
「……嫌な予感しかしないな」
蓮の低い声に、凛も表情を引き締める。
その時、奥の通路から重い足音が響いた。
現れたのは、全身を黒い鎧に包んだ魔族の男。
背中には禍々しい槍を背負い、目は真紅に輝いている。
「やはり来ていたか、レヴァル。そして……ロゼッタ・ヴァニラ・ベート」
その声は低く、洞窟全体に響き渡った。
「貴様がここにいるということは、この器の封印を解く気だな」
レヴァルが一歩前に出る。
「……そのつもりだ」
「愚か者め。この器は我ら魔族でさえ制御不能だ。
だが……お前が命を懸けるというなら、止めはしない」
蓮は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
──こいつ、器の中身を知っている。
ロゼッタはわずかにフードをずらし、赤い瞳を露わにした。
「あなたが何を恐れていようと、私たちは引き下がらないわ。これは……ロイゼンの遺志でもある」
その名を聞いた瞬間、鎧の男の目が大きく揺れた。
「……ロイゼン? まだ……残っていたのか」
洞窟の空気が張り詰める。
その隙をつき、レヴァルが蓮と凛に目配せした。
「今だ、位置を固めろ。もし交渉が決裂したら、即戦闘だ」
そして三人と魔族部隊は、封印の器を挟んで鎧の男と対峙する。
互いの手はまだ武器に届いていない。
──だが、その距離は息を一つ吸えば届くほど近かった。




