魔法卿と竜の花嫁 〜女嫌いで有名な辺境伯様に使用人として雇われたと思ったら実は婚約者でした〜
「俺はお前を愛することはない」
開口一番告げられたのは、その言葉だった。
いささか矛盾しているような言葉とともに突きつけられたのは──氷の剣。
魔法によって創られたその剣は、グレイの喉へと突きつけられていた。
グレイはその氷剣を、瞳だけを動かして観察する。
自分の顔が反射するほどの刀身に、鍔にあたる部分は美しい氷の彫刻が施され、氷で出来たことを主張するかのように冷気をその刀身に纏っていた。
ひんやりとした空気がグレイの皮膚へと伝わってくる。
喉元まで後数センチほどのその氷剣は、見た目こそ家宝として飾られていそうなほど美しいものの、グレイの喉を引き裂くには十分すぎる働きをするであろうことは分かっていた。
しかし、グレイは動じなかった。
無言で、目の前の男へと視線を向ける。
(美しい顔の割には、随分と物騒な歓迎だ)
自分に氷剣を突きつけていたのは、大層顔が整っている青年だった。
絹のようにサラサラと輝く金髪は後頭部で纏められており、自分を睨めつけている青い瞳は、今突きられている剣と同じく、氷のように冷ややかな印象を受けた。
だが、冷たい印象だけではなくどこか瞳の中に引き込まれるような、魔力を感じる瞳だった。
鼻筋はすっと通っており、まるで絵画の中の天の使いだとか、およそ人間とは思えない隔絶した美貌。
一週間というごく短い期間でグレイの頭の中に詰め込まれた情報では、アレク・エルドリッチという名の青年だったはずだ。
二つ名は──『魔法卿』。
これは社交界にすごく熱心な信者がいるのだろうな、とグレイは思った。
自分のようにくすんだ灰色の髪、そして髪と同じく奇異の視線の対象である赤い瞳とは大違いだ。
「俺はお前を丁重には扱うつもりもない。贅沢三昧もさせるつもりはない。金もお前には渡すつもりはまったくない。ましてや、俺が死んだとてエルドリッチの遺産は相続させない。それでもいいなら、この城に滞在することを許す」
(この男は、何を言っているんだ?)
グレイは頭の中で首を傾げていた。アレクの言葉が意味不明だったのだ。
愛するとか、相続だとか考えたこともないような話しばかり。
自分は使用人としてこの家に連れてこられたと思ったのだが、どうしてそんな話をしているのだろう。
グレイは少し考えて、得心がいった。
(ああ、なるほど。愛人にはしない、ということか)
多分、アレクは自分に対して釘を刺しているのだ。
この美貌だ。今まで数多の女性から言い寄られて来たはず。これは別に目の前の美男子が自意識過剰なのではなく、本当に今までに使用人に言い寄られたこともあるのだろう。
その経験から、自分へと言い寄ってこないように、予め強く脅すということをしているのだろう。
自分はそんなに美しい見た目でもないし、どちらかと言えば普通くらいのはずだ。そんな自分にまで脅すということは、相当の人間が寄ってきて迷惑していたのかもしれない。
別に、いくら目の前の男が美しかろうがグレイにとってはどうでもいいことで、言い寄るつもりは毛頭ない。恋をすることなんて絶対ないだろう。グレイは顔が良いだけの男には興味がない。だから別にその脅しは素直に聞いておくつもりだ。
だからこそ、アレクにとっては予想外の反応を示した。
「別に、構いませんが」
「は?」
アレクが素っ頓狂な声を上げた。
目を見開き、まるでグレイが信じられないような事を言ったような反応を見せている。
喉に突きつけられた氷剣も少し揺らいでいるほどだ。
なんだろう、自分の反応はそんなに特異だっただろうか。
アレクはすぐに衝撃から立ち直り……グレイの言葉に更に細く目を細めた。
「お前……間諜か?」
アレクは再度、グレイの喉に真っ直ぐ氷剣を突きつける。
先程までとは比較にならないほどの鋭い雰囲気と、気の弱いものなら卒倒しそうなほどの怒気をもって、グレイを睨めつける。
「確か、お前が来たのはウィンターハルト家だったな」
(いや、知らないんですけど……。関係があるって聞いたのもつい最近だし……)
グレイは心のなかで一人呟く。
それも仕方がない。
グレイはつい半月ほど前に「血縁がある」と半ば強引に連行……世間一般で言うなら拉致され、一週間後にはウィンターハルト家の一員として、このエルドリッチ領へと送り出されたのだ。
つまり、ウィンターハルト家の人間とは、一週間ほどしか関わりがない。それなのに一緒くたにされるのは勘弁してほしかった。
「真実を話さなければ殺す」
さらに冷たい声でアレクは剣を突きつける。
「私は、そのようなものではございません」
弁明したいが、ウィンターハルト家に滞在していいた一週間で詰め込まれた礼儀作法には、「主人には極力口答えしないこと」という教えがあった。
貴族の身ならともかく、貴族に口答えすれば、今から使用人として雇われる自分の首なんて、すぐに飛んでしまうことだろう。
だからグレイにできるのは、ただ必死にアレクの目を見つめて無言の釈明をすることだけだった。
張り詰めた緊張感がグレイとアレクの間に漂う。
(どうする、このままじゃ…………いや、いざとなったら”力”を使えば……)
グレイが黙っていると、アレクからフッと張り詰めていた雰囲気が消えた。
「……ひとまずは合格にしておいてやる」
アレクが剣を収めた。
いや、正確には氷剣を下ろすと氷の剣が音を立てて消えていった、という方が正しい。
アレクはそう言い残してマントを翻しながら踵を返し、去っていこうとした。
「ちょっと待ってください」
しかし、グレイはその背中を呼び止めた。
「……なにかあるのか」
アレクは面倒くさそうな表情を隠さずに振り向く。
平民が貴族様に意見するのはとても気が引ける。
だが、一点だけ。グレイにとって聞き逃がせない部分があった。
「あの……賃金は支払っていただかないと困ります」
そう、グレイにとって聞き流せなかったのはその一点だった。
一番大切なものはなにか、と尋ねられれば、グレイは迷わずに「金貨」と答える。
それくらいに大切なお金が支払われない。それは相手が貴族であったとしても退けない点であった。
まぁ、グレイも命は惜しいので、危険がありそうなら退くつもりではあるが。
「……はぁ?」
アレクはまた素っ頓狂な声を上げた。
もしかして、クールそうな雰囲気とは裏腹に、実際は心根は明るい感じなのだろうか、と仏頂面の下でグレイは考えを巡らせた。
「どうして俺がお前に金を払わなければならない」
「私たちは雇用関係になるわけですよね? でしたら賃金を支払っていただかないと困るのですが」
しかしアレクはグレイが想像していたのとは別の言葉に反応した。
「雇用関係……?」
アレクはグレイの言葉に眉を顰めたあと、「いや待て……」と顎に手を当てて考え込む。
「なるほど、そういうことか……。俺は縁談を断ることが出来て、その見返りに金を受け取る事ができる、両者得をするわけだ」
ぶつぶつと一人で呟いた後、顔を上げた。
「中々いいアイデアだ、考慮に入れておこう。だが、ここを追い出されてどうして困る? 追い出されればウィンターハルト家に帰れば良いだろう」
グレイにはアレクの言っていることが九割以上理解できなかったが、まずはアレクの質問に答えることにした。
「私は王都で暮らしていて、半ば無理やりここまで連れてこられました」
「……それはつまり、お前はこの話を望んでいなかったと?」
「……嘘偽りなく申し上げるなら」
グレイの言葉を聞いて、近くに控えていた執事やメイドたちがざわめいた。
まさか一介の使用人(予定)ごときの人間が、そこまで赤裸々に本音を語るとは思っていなかったのだろう。
アレクも面食らったような顔で固まっている。
「ここから追い出されても、ウィンターハルト家は私のことを養ってくれないでしょう。私がここを追い出されれば、一文無しになってしまいます」
元々平民の出なうえ、一週間で礼儀作法や口調などを叩き込まれたため、本当にこの言葉が正しいのかはわからない。
「……つまり、俺との関係が切れた後のための、ある程度の蓄えが欲しいと?」
しかし、アレクはグレイの言いたいことを正確に読み取った。
グレイはアレクの言葉に頷く。
「いくら欲しい」
「使用人の最低賃金でも構いませんので、支払っていただければ」
「し、使用人……?」
アレクがまた驚いたような声を上げた。
「はい。適切かと思われるのですが」
「……本当にそれだけで構わないのか?」
「それだけあれば十分です」
アレクの質問にグレイは頷く。
使用人という職業は、世の職業の中でも結構な高給取りだ。
使用人としての最低賃金と言っても、自分が元いた王都で就いていた職業よりは実入りがいい……と思う。
追い出されるのが半年後か一年後かはわからないが、流石に一ヶ月足らずで追い出されることはないだろう。追い出される頃には、それなりの蓄えになっているはずだ。
それだけあれば王都にある自分の家に帰ることも可能なはず。
(それにしても、さっきは一銭も払わないと言っていたのに、それで足りるのかを聞いてくるなんて、なんか変だな……)
グレイはアレクの言葉に若干の疑問を覚えつつもアレクの返答を待った。
「……今すぐには返答できない。考えておいてやる」
そのアレクの言葉に、グレイはホッと安堵のため息を付いた。
これで追い出されたときの当面の生活資金は確保できる。
首になって即文無し、という状況は回避できるだろう。
「今日は城に滞在することを許す」
「ありがとうございます」
去っていくアレクにグレイは頭を下げる。
すると使用人たちが突然騒ぎ始めた。声は顰めていたものの、とても興奮しているためか近くにいたグレイには聞き取れた。
「まさか、滞在を許可なさるなんて……」
「今までで初めてではないの……!?」
(え、別に変なことは言ってないと思うんだけど…………まさか、この人たち、賃金が支払われてないのか?)
グレイは自分が変なことを言ったのかと不安になると同時に、この部屋の使用人たちに賃金が支払われていない可能性があることに戦慄する。
アレクが部屋から出ていくと、グレイに一人のメイドが近づいてきた。
「では、お部屋にご案内します」
そのメイドはまるで大切な客人に接するかのように恭しく、丁寧にお辞儀をする。
それに釣られてグレイもお辞儀をした。
「どうぞこちらへ」
メイドが示すままにその後ろをついていく。
(私はただの使用人なのに……やけに丁寧だな)
グレイはそんなことを考えながらメイドについていく。
この時、グレイはまだ自分の勘違いに気づいていなかった。
自分が盛大な勘違いをしていたと気が付いたのは、部屋についたときのことだった。
「ここがグレイ様のお部屋でございます」
「な、なんだこれ……」
グレイは自分の部屋を見て唖然とした。
なぜならそこは……。
まるで広間かと思うほど広い部屋。天蓋付きの大きなベッド。北向きの日当たりの良い部屋。そして壁には効果そうな絵画や、暖炉、そして服が何十着でも入りそうなクローゼットまでついていたのだから。
どう見ても平民の使用人に与えられるような部屋ではない。
挙げ句の果てには部屋の中には部屋を案内してくれたメイドと、執事二人までついており、グレイへと恭しくお辞儀をしている。
この使用人たちは、絶対にただの使用人には必要ない。
ここで初めて、グレイは自分がなにか勘違いしていることに気が付いた。
「あ、あの……ここは?」
恐る恐る、グレイは執事に尋ねる。
「あなた様のお部屋でございます──お嬢様」
「お、お嬢様……? まさか、私……?」
まさかと思いグレイは尋ねる。
「はい」
執事は頷いた。
「アレク・エルドリッチ様と婚約なさった、グレイ様のお部屋です」
「こん、やく……」
グレイは呆然と呟く。
かくして、グレイは『魔法卿』ことアレク・エルドリッチと婚約することになったのだった。
***
ガラガラと馬車に揺られていた。
もう王都を出発してから一週間ほど、馬車に揺られ続けている生活のせいか、最初に感じていた酷い馬車酔いも、今はまったく感じなくなっていた。
(どうして私はこんなところにいるんだろう)
グレイは自分がどうしてこんな状況に陥っているのかを思い出す。
二週間ほど前、王都の片隅でしがない薬屋として暮らしていたグレイの元に、執事がやって来た。
「あなたはウィンターハルト家の血縁にあたります」
執事の説明によると、どうやらウィンターハルト伯爵家の当主の弟がグレイの父に当たるらしい。
道理で母に父のことを尋ねても教えてくれないはずだ。貴族の血が混じっているなんて、街で知れ渡ってしまえば面倒でしかない。
「それで、我々はグレイ様をウィンターハルト家にお迎えしたく思います」
なんでも、グレイの父は平民だった母と駆け落ちし、そのまま当時当主だった先代に勘当されたそうだ。しかし現当主は寛大な心の持ち主であることから、一族に戻っても構わないのだそうだ。
グレイは別に貴族になりたくなかったので、断ろうとした。
大抵の場合、うまい話には裏がある。
しかしグレイが断ると執事は半ば強制的に、誘拐犯もびっくりするような華麗な手口でグレイを拉致した。
グレイの悪い予感は当たっていた。
ウィンターハルト家に到着するや否や、貴族用の石鹸で体をゴシゴシと洗われ、ゴテゴテとした飾りがある窮屈な服を着させられ、慣れない口調と礼儀作法を叩き込まれた。
その仮定で元々の姓であるアッシュフォードから、ウィンターハルトという姓に変えられた。
そして一週間後にはまるで家畜の牛を出荷するみたいに少量の荷物を持たされて、馬車に詰め込まれ、旅立たされた。
かくして、グレイ・アッシュフォードは弱冠十五歳でありながら、知らぬ土地へと旅立つこととなったのである。
馬車に揺られながら窓枠に頭を預け、外の様子をぼんやりと眺める。
(貴族の血さえなければ、こんなことにはならなかったのに)
顔さえ見たことのない、父を少し恨んだ。
この二週間、良かったことと言えば熱い湯の張った湯船に、ゆっくりと浸かれたことくらいだ。
平民として暮らしていた頃は濡れタオルで身体を拭くか、大衆浴場に行くくらいだった。
たった一週間という短い期間で詰め込まれた礼儀作法や最低限の知識の中によれば、今から自分が向かわされるのは四大貴族と呼ばれる貴族のうちの一つらしい。
この国は東西南北の四方を敵国に囲まれており、四大貴族は敵国の侵略を防いでいることから、四大貴族と呼ばれているそうだ。
その権力は国王の次に高く、たとえ王族であろうとも四大貴族には簡単には手を出せないほどだそうだ。
独自に城を持つことを許可されている、といえばその権力の大きさがわかるだろうか。
グレイが向かわされているのは国の西側を防衛している、エルドリッチ伯爵家。
通称『魔法卿』と呼ばれている貴族だ。
ウィンターハルト家で盗み聞いた話しでは、魔法卿は現在婚約者を募集中で、四大貴族ということもあり、今までたくさんの貴族令嬢が魔法卿と婚約したらしい。
しかしその全てがたった一日で魔法卿に追い出されてしまったそうだ。
魔法卿は随分と気難しい性格らしい。
女嫌いである、という噂もあるが案外間違いではないのかも知れないな、とグレイは思った。
そんな人物のところに向かわされているのかと不安になったが、問題ない。
なにせ、自分は使用人として向かうのだ。自分のいとこであるウィンターハルト家の令嬢も、「使用人として雇ってもらえればいいわね」と言っていた。
ある程度働く力があると証明できれば一日で追い出されることもないだろう。
このときのグレイは、自分がまさか婚約者候補として送られているなど露ほども考えられなかった。
窓の外を見ていると、向こうの方に城壁が見えてきた。
あれが、自分が嫁ぐことになるエルドリッチの城下町だと知ることになるのは、もう少しあとになる。
***
目が覚めた。
まず目についたのは天井の天蓋。
実家兼薬屋だった実家とは似ても似つかない目覚めの光景だ。
そして身が沈むほど柔らかいベッドに、肌触りの良い寝間着。
挙句の果てにはベッドから起き上がれば。
「おはようございます、お嬢様」
「目覚めの紅茶をご用意いたします」
控えていた執事が流れるように自分へと紅茶を差し出した。
「ご朝食の用意は出来ております」
そしてグレイの前へ朝食を載せたワゴンがゴロゴロと音を立てながら到着し、あっけにとられている内に部屋の中にある少し大きなテーブルに朝食が並べられていく。
(ああ、そうだ……私、エルドリッチ伯爵と婚約したんだっけ?)
そこでグレイは昨日のことを思い出した。
グレイを貴族に戻したり、最低限の礼儀作法は身に着けさせた理由がわかる。恐らく、ウィンターハルト家は悪い噂のある魔法卿に、自分のかわいい娘を嫁がせたくなかったのだろう。
そこで身代わりとして送られたのが自分なのだ。
(要するに、使い捨ての駒だったというわけか)
グレイは心のなかで大きなため息を付く。
自分の本心とは別でも命令されれば従わなければならないのが、身分制というものだ。
平民の自分がウィンターハルト家を恨んでも仕返しなんてできる訳が無い。
恨むとするなら貴族の血が混じっていた自分か、それを黙っていた両親だ。
かっちりと整えられたテーブルの上には様々な種類のパンがこれでもかと置かれ、皿にはハムとした肉や、ブルーベリーやイチゴなどの果物が惜しげもなく盛りつけられている。マフィンに至ってはクロテッドクリーム、ジャム、蜂蜜がそれぞれ用意されていた。
少し前までなら考えられないような豪華な食事だ。
普通なら緊張して味もわからないところだろう。
しかし、グレイは変なところで肝が座っていた。
(まぁ、出てきたものは仕方がないし、食べるしか無いか……)
一週間ほどで叩き込まれたテーブルマナーを駆使しながら、グレイはもぐもぐと朝食を食べていく。
ウィンターハルト家でテーブルマナーを叩き込まれたことを少しだけ感謝した。いや、そもそもウィンターハルト家に拉致されなかったらこの状況は生まれていないので、感謝するのはおかしいかもしれない。
そういえば、実家の薬屋はどうなっているのだろうか。
ろくに身辺整理すらできないままこちらへと来てしまったので、零細の薬屋である内の主な収入源である常連の客は、今頃困っているかもしれない。
(まぁ大丈夫か。薬屋くらい王都にいくらでもあるだろうし、それに私が出していたのはとりたてて特別な薬というわけでもない)
確かに、うちの薬はそこらの薬に比べて少しだけ効き目がいいかもしれないが、うちが無くて困るほどではないだろう。
そんなことを考えている内に朝食を食べ終わってしまった。
すでにちょっと慣れてきたグレイはメイドに食後の紅茶を頼むと、それを飲みながら部屋を見渡した。
(しかし……流石に落ち着かないな……)
部屋の中にいる執事三人、メイド三人。恐らくアレクと婚約した自分のために付けられた使用人だろうが、こうも人数がいると落ち着かない。
「あの……寒いのが苦手なので羽織るものをいただけませんか」
「わかりました。すぐにご用意いたします」
本当にすぐに羽織るものが用意された。
メイドがケープをグレイへと差し出す。
「こちらです、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
グレイへとケープを持ってきてくれたのは、グレイへと部屋を案内してくれたメイドだ。
今なら何でも要求が通るような気がしたので、グレイは言うだけ言ってみることにした。
「それと落ち着かないので、使用人の方の数を減らしていただけないでしょうか」
「えっ……?」
グレイの言葉に執事が驚いたように目を見開く。
「それは……できかねます。御主人様より賜った私どもの仕事は、貴方様のエルドリッチ城での生活をサポートすること。私どもごときの意思で勝手に人数を減らすことはなりません」
「それは婚約者である私の命令であっても?」
「私どもの主人はアレク様ですので」
(なるほど、そういうこと)
これは考えを改めなければならない。
この人たちにお願いを聞いてもうなら、言い方を変える必要がありそうだ。
(というか、よくよく考えれば、平民である私が四大貴族の婚約するなんて恐れ多いんじゃないか……?)
一応今の自分は貴族であるとはいえ、庶民根性が抜けないのだろう。
こんな豪華な食事や、大きな部屋を与えられても逆に落ち着かない。
そもそも、つい最近まで平民だった自分と、国を代表する四大貴族の当主であるアレクが婚約するなんて、現実では起こり得ないようなロマンスを描いた恋愛小説でだって「現実味がない」と評されるだろう。
そして、グレイは決心した。
(うん、婚約の件、やっぱり辞退しよう。今ならただの間違いだったで済むだろう)
正直、このままでは身が持たない。
問題があるとすれば、追い出されたところで無一文なので生活資金をどうするかということと、エルドリッチから馬車で一週間かかる王都までどうやって帰るかだが、魔法卿に泣きついたら少々の路銀と馬車くらいは出してくれるかもしれない。
それも無理なら覚悟を決めて、エルドリッチの街で仕事を探そう。
そう心に決めたときだった。
扉がノックされ、部屋の中にとある人物が入ってきた。
グレイは入ってきた人物を見て目を見開く。
(なんでこんなところに……)
部屋に入って来たのは、魔法卿ことアレク・エルドリッチだったからだ。
「もう起きていたのか」
「ご、ごきげんよう、魔法卿……」
「俺をそのような名前で呼ぶ必要はない」
グレイはアレクの言葉を聞いて、唐突に嫌な予感がした。
アレクの浮かべている笑顔が、王都に住んでいた頃に近所に住んでいた子どもの、悪戯を企んでいるときの顔にそっくりなのだ。
これは不味い。早く自分から婚約を辞退しないと更に面倒くさいことに巻き込まれる気がする。
「あの、婚約の件についてですが、辞退──」
「昨夜、お前の言っていたことを考えたが……その話を受けることにした」
アレクはグレイの前までやってくると、グレイへと端正な顔を近づけ……。
そしてグレイの顎をくい、と持ち上げた。
その不思議な引力を感じる瞳から目が離せなくなる。
「──今から、お前には俺の婚約者を演じてもらおう」
「婚約者を、演じる……?」
グレイはアレクの言葉を繰り返した。
意味がわからなかったからだ。
「お前が言ったことだろう。俺とお前は雇用関係である、と」
「い、言いましたが……」
顎を持ち上げられたままグレイは答える。
「それはつまり、俺とお前は協力関係ということだろう」
「……はい?」
「俺は鬱陶しい縁談を断るために、お前を婚約者にする。そしてお前は将来の生活のために金がほしい。ギブアンドテイクというわけだ」
(なるほど……いや、私が言ったのはそういうことじゃないんだが)
グレイは遅まきながら状況を理解する。
昨日、グレイは自分は使用人としてここまで連れてこられたと思っていたので、雇用関係は使用人とその主人を指していると考えていた。しかしアレクの方は婚約の話をしていると思っていたので、雇用関係という言葉を婚約へと当てはめてしまった。
ここで綺麗にすれ違いが起こっていたらしい。
グレイは、昨日自分が「雇用関係ですよね?」と言った後のアレクの反応がおかしかったことを思い出す。
思い返せば、あそこですれ違いが起こっていたのだ。
(あそこでしっかり言葉の意味を考えるべきだった……!)
内心で苦虫を噛み潰したような表情になりながら、グレイは過去の自分を責める。
「なかなか、良いアイデアだ。俺もどうして考えつかなかったのだと悔いているほどには」
「いえ、その話はやっぱりなしにしてください。私のような者が魔法卿と釣り合うはずがありません」
「そう、それだ。俺がお前を仮初の婚約者へと選ぼうとした理由。それはお前が今までの女とは違い、俺との婚約に全く乗り気でないことだ。そこが逆に信用できる」
アレクはグレイにどうして仮初の婚約者にしようと思ったのかを説明する。
その理由を聞かされたグレイは……。
(いや知らんがな)
というのがグレイの本心だった。
アレクの婚約事情には全く興味がないし、関係もない。それどころかとっととこの城から出ていきたいくらいなのだ。
婚活くらいそこら辺で勝手にしといてくれ、というのがグレイの本音でもある。
自分が婚約者になるなんてまっぴらごめんだ。
(それに、さっきからこの体勢、寒気がするんだが……)
先程からずっとグレイはアレクに指で顎を持ち上げられている状態である。
いくら絶世の美男子といえど、そろそろ鳥肌が立ってきそうな頃合いだった。
それにしても、間近で見るとまるで女性のようにも見える顔だな、とグレイは思った。
しかし顔から視線を外すと喉仏や体格がアレクが男性であることを教えてくるので、間違えることはないだろうが。
あまりにも整っているとどこか中性的に見えてくるのだ、と新たな知見を得ながら、グレイは思考をもとに戻す。
(というか、やっぱり面倒なことに巻き込まれてるじゃないか)
仮初の婚約者とはつまり、これからグレイはアレクの婚約者として振る舞うことになる。
冗談じゃない、とグレイは思った。
アレクの婚約者になるということは、この絶世の美男子の隣で、好奇の視線を浴び続けるということでもある。
魔法卿ことアレクは、これまで数多の婚約者候補をその日に送り返した、というよろしくない噂が流れている。しかしこの顔と四大貴族という地位だ。
婚約者になりたい女性なんて、この世にごまんといるだろう。
女の嫉妬や逆恨みほど怖いものはない。
それが社交界という伏魔殿なら尚更だ。
この男の婚約者なんて、いくら生命があっても足りやしない。
「いえ、やはり考えたのですが、私は婚約者としては相応しくありません」
「仮初の婚約者に相応しいかどうかは関係ない。ただ、「婚約者がいる」という事実が重要だ」
「いやいやいやいや、それでも私は駄目ですって。絶対に」
「そうか、そんなに俺と婚約するのが嫌か…………ますます、欲しくなってくるな」
「……っ!!」
アレクの最後につぶやいた言葉に、グレイの背筋がぞわぞわっ、と粟立った。
「あれを」
アレクが背後に控えていた執事に命令するすると、執事が銀のトレーを持ってきた。
そしてトレーの上に乗っていたものを、グレイの前に置いた。
どんっ、と大きな音と共にグレイの目の前に置かれたのは……革袋だった。
「……っ!?」
グレイは目を見開く。
なぜなら、その革袋の口から覗いていたのは、キラキラと輝く……。
「お前の言っていた雇用関係の報酬だ。金貨十枚が入っている」
──グレイには喉から手が出るほど欲しい大好物がある。
お金だ。
その中でもとりわけ金貨が大好きなのだ。
加えて、街のしがない薬屋で、毎日その日暮らしの生活であったグレイにとっては、金貨はそれ自体が滅多にお目にかかれないものでもあり……。
「き、金貨だぁ……!!」
あっさりと金貨へと飛びついた。
「こ、こんなに綺麗なキラキラが……! 初めてみた……! うぇへへへ……!!」
グレイはへにゃりとした笑みを浮かべ、金貨の入った革袋を頬ずりをする。
「……」
そのグレイの変わりように、金貨を渡したアレクも唖然とした表情を浮かべていた。
グレイは周囲の空気がおかしいことに気がつき、あたりを見渡す。
「………………あっ」
そして自分のしていたことに気がつくと、ごほん、と咳払いをした。
「……私はお金で釣られたりはしませんから」
「それは無理があるだろ」
思わずアレクが突っ込む。
誤魔化すためにグレイはアレクへ逆に質問を投げかけた。
「というか、なんでこんなに大金なんですか」
「俺の婚約者という職業は、使用人の報酬では割に合わないからな」
それは裏を返せば、報酬に見合った働きをしてもらうということだ。
仮初の婚約者が周囲にバレてはいけないため、雑な演技は許されない。
「俺の仮初の婚約者となるなら、毎月同じだけの報酬を用意しよう」
「っ!!!」
毎月金貨十枚の報酬!!!
金貨はたった一枚だけで、平民が三ヶ月は全く働きもせずに遊んで暮らせるだけの価値がある。
(ま、毎月金貨十枚!? え、えーと、それはつまり……一年で金貨がひゃ、ひゃくまい以上に……!?)
グレイからすれば途方も無いような金額に、薬屋の仕事で慣らした計算能力ですら怪しくなる。
一年後、自分の目の前に積まれた大量の金貨を想像して、ニヤけた口元からよだれすら出てきていた。
しかしすぐに首をブンブンと振って我を取り戻す。
(い、いやいや……一旦冷静になれ。このままじゃ貴族の政争に巻き込まれる)
アレクは四大貴族のうちの一家だ。
もしアレクの婚約者になってしまえば、どろどろとした貴族の争いに飲まれてしまうことは必至。
自分はまだ死にたくないのだ。
だが、その時また手の中の金貨が目に映った。
(こ、こんなに毎月もらえるなら巻き込まれても…………い、いやいや、冷静になれ!)
グレイは必死に断る言い訳を絞り出す。
「私は演技なんてしたことはありません」
「これから練習すればいい。時間はある」
「わ、私は礼儀作法はおろか、貴族としての振る舞い方も知りません」
「それも、学べばいい話だ」
グレイが絞り出した理由は全てアレクに封殺される。
「そう言えば、昨夜調べたんだが……お前は二週間ほど前までは、平民だったらしいな」
「っ!?」
(な、なんでバレている!?)
グレイは自分の出自が特定されていることに驚愕する。
サーっ、とグレイの顔が青くなっていく。
まずい、自分が平民であることがバレると……。
「つまるところ、お前とウィンターハルト家は、四大貴族である俺に、平民の女を貴族の令嬢だと偽って寄越したわけだ。駄目だろう、経歴詐称は」
「私は、ただ拉致されて……」
「平民が貴族を騙した時、罪の重さはどれくらいになるのだろうな?」
アレクが耳元で囁いてくる。
「っ!!」
知ってるくせに、という言葉をグレイはすんでのところで飲み込む。
平民が貴族を騙したときの刑は──即刻断頭台だ。
自分が「ただ拉致されただけだ」と無実を訴えたところで、ただの平民の言葉をどれだけの人間が信じてくれるのか……いや、それも嘘だと断じられる可能性だって高い。
つまり、アレクにこの事実をバラされると、グレイにはどうしようもないのだ。
ぐっ、とグレイは悔しそうな表情になった。
その表情を見て、アレクは口の端を吊り上げた。
(こ、こんなところで笑うなんて、なんて性根の曲がった男なんだ……!)
グレイは笑顔のアレクにドン引く。
「悪いが、お前に拒否権はない。──命令だ、俺の婚約者となれ」
身分制の辛いところは、地位が上の相手に対しては逆らえないことだ。
たとえ、本心では嫌だったとしても。
こうして、グレイは魔法卿ことアレク・エルドリッチの”仮初”の婚約者となったのだった。
もし少しでも面白いと感じていただけたら、作者の励みになりますので是非ブクマ、評価、感想などをお願いいたします。
長編でも投稿しています!