6.九死に一生と真実を得る
落ちる。
落ちる。
落ちていく。
いつ崖の底に叩きつけられて、絶命するとも分からない。
命を失う恐怖に駆られて、ルカはどうにもならないと分かっていながら、必死で虚空に手を伸ばした。
すると勢いで上半身が持ち上がる。
「……ぅえ?」
ぱちぱちと目を瞬く。
先程まで鮮明に感じていた、ひたすらに落ちゆく感覚は既になく、あるのはへたりこんだ下半身に伝わる冷たい岩肌の感触だけ。
おかしい。
先程、ルカはゼスィリア共々、ヘルグリューンが引き裂いた地面の底に突き落とされたはずだ。
(夢……では無いよな……だったら家で目ぇ覚めなきゃおかしいし……じゃあ、まさか……)
「死んだ……?」
有り得るかもしれない。そう考えてみれば、この薄暗い、冷たい岩肌ばかりのこの空間も、冥府の入口に見えないこともない。
「13年かあ……短い人生だったなあ……」
しんみり涙ぐむ。生きていると、何の保証もなく、明日も明後日も人生は続いていくと勝手に思ってしまいがちだが、決してそんなことはないのだと、否応なしに思い知らされる。
人間の命ってあっけないなあと思いながら、ルカは何の気なしに立ちあがろうとした。
が。
「……いっぐぅ!?」
右足に尋常ではない痛みが走り、体がその場に崩れ落ちる。
反射的に右足に目をやれば、ふくらはぎがどす黒く腫れきっていた。
「うっわあ……」
あまりのえげつなさに言葉を失う。これは確実に、先程ヘルグリューンとの交戦時に負った傷だ。ということは。
「まだ生きてる……どうしよう、喜ばしいことのはずなのに絶望感しか感じない……」
生きている。それすなわち、ここはヘルグリューンに突き落とされた崖の、奈落の底という訳だ。
せっかく一命を取り留めたというのに、こんな陽光の薄い地底にいるばかりでは、どのみち飢えるなり渇くなりして死んでしまうだろう。
と、そこまで考えて、ルカはそもそもの前提が間違っていることに気がついた。
(いや、『せっかく一命を取り留めた』って……そもそもあんな崖から墜落しといてよく『一命取り留めた』な……? もしかして、ゼスィリアが助けてくれたとか……あっ!?)
「そうだ、ゼシリア……ゼスィリア!」
ルカは慌てて、共々崖から墜落した少女を探し始めた。
右足が使い物にならないので、這いずって辺りを探索する。
幸い、ゼスィリアは程遠くない場所に横たわっていた。
「ゼスィリア!」
「う、うぅん……」
必死で揺さぶったおかげか、ゼスィリアはすぐに目を覚ましてくれた。
「ゼスィリア! よかった、目が覚めた……」
「だからゼスィリアだって……ん?」
不快そうに眉を顰めたゼスィリアは、しかし唐突に怪訝な声を漏らして、言った。
「……発音できてる」
「へ?」
「ちゃんと言えてるわ……私の名前」
「えっ、マジで?」
ルカは反射的に前のめりになった。
「言えてる? ゼシリアって!?」
「あ、戻った」
「嘘ぉ!? やっとちゃんと『ゼスィリア』って言えるようになったと思ったのに!」
「あ、今は言えてたわ」
「駄目だ自分で違いが分からない……」
「勝率は五分五分ってとこかしら……」
二人で顔を見合わせる。ふいにゼスィリアが吹き出した。
「なんっで笑うんだよ! こっちは真剣なんだぞ!?」
「だ、だって、貴方がそんな、何とも言えない変な顔してるから……」
「誰のせいだと思ってんだぁ! 元はと言えばお前が滅茶苦茶発音にこだわるから、こんなに苦労してんだろうがぁ!」
ルカは八つ当たりする。八つ当たりだ。分かっている。そりゃ誰だって自分の名前を変な発音で呼ばれたら嫌だろう。それがわかっているから真面目に発音できるように努力しているのだ。それなのに笑われるとは何たる理不尽。八つ当たりだってしたくなるというものだ。
そんなルカの憤慨を知ってか知らずか、ツボに入ってしまったらしいゼスィリアは、ひたすらころころ笑い転げている。
ルカは自業自得とわかっていつつ、ふくれっ面でぶうたれた。
「……ったく、そんなにあんまり笑われちゃあ、命の恩人に感謝する気も失せるんだけど」
「……え?」
途端、ゼスィリアが怪訝そうな顔になった。その態度に何か噛み合わないものを感じて、ルカは首を傾げながら問いかける。
「ん? だって、あんな高いところから落ちといて、ふたり揃って無事に助かったってことは、ゼスィリアが助けてくれたんでしょ?」
そう言った途端、先程まで笑い転げていたのが嘘かのように、ゼスィリアの顔が青ざめた。唇を噛み、まるで隠し事のある罪人のような表情をしている。……先程、ヘルグリューンに、「飛んで逃げればいいじゃない」と言われた時と、同じ顔。
何を、隠しているのだろう。何を、躊躇っているのだろう。彼女は一体、心に何を抱えているのだろう。
「……そんなに、言いづらいこと?」
「っ……!」
(あ)
気がついたら口に出ていた。気まずい空気が流れる。
(またやってしまった……)
いつもこうだ。熟慮する前に、言葉が口から飛び出してしまう。口に出してしまってから、まずかったことに気づく。
しかし飛び出した言葉はもう二度と、口の中にはしまえない。
引っ込みがつかなくなってしまったルカは、結局思ったことを全て口にすることにした。
「さっきも、同じ顔してた。何がそんなに、言いづらい?」
「……」
「あのさ」
ルカは、拙い言葉を選び選び、言った。
「まだ知り合って一日も経ってない相手に、隠し事も何もするなってのは、どだい無理な話だよ。でもさ、さっきも言ったけど……一緒に飯食って、色々しゃべって……もう、他人とは思えないほど、関わり合ったと思ってるから……だから、そんな絶望的な顔されたら、気になってしょうがないよ」
「……」
「それに、あの、無責任な言い方だけど、自分ですっごく悩んでることって、人から見たらそこまで大したことなかったりするし。何より、竜と人間じゃ、全然常識も違うしさ。意外に、何だそんなことかってなったりするかも」
「……」
「だから、ゼシリアの悩んでること、出来ればちゃんと教えて欲しい。……そりゃ、話したくなければ、話さなくても、いいんだけど……でも、話してくれる方が、すっきりするし、嬉しい」
「……」
ゼスィリアはルカの拙い弁明をずっと黙って聞いていたが、やがて口を開いて、言った。
「……いい話だったのに発音で台無しだわ」
「おい蒸し返すな」
真剣に心の内を吐露したというのに、茶化されてしまってはどうしようもない。
やっぱりそう簡単に自分の事情を話す気にはならないか、と肩を落とし、それならそれで他のことを考えよう、と、ルカは思考を切り替えることにした。
だが。
「……貴方は本当に、どうしようもないくらいに、真っ直ぐね」
「え?」
「……自身の醜さも、情けなさも、さらけ出すことを厭わない。だからこそ、とても眩しくて……」
「……」
「そんな貴方の真っ直ぐな目が、失望に染まるのが、とても怖くて……元より過ぎたものだと分かっていても、貴方の無償の信頼を失うのがとても怖かった」
ぽつぽつ語るゼスィリアの顔は、自嘲に満ちていた。
「だけど、貴方はやっぱりどこまでも誠実で……その誠実さに、私は報いるべきだと思うから。だから、話すわ。私の、真実を」
迷いを払うように、そっと瞼を閉じて、そして開く。
ゼスィリアは瞳に決意の光を湛えて、やがてゆっくりと懺悔するかのように話し出した。
「私ね、飛べないの」
「え……」
「それどころか、竜の姿になることもできない。竜の血を引いているだけで、姿はずっと、人間のまま。一応神術を使えるだけの神力は授かっているけれど、それを自身の思うままに操れたことも、一度もないわ」
「……」
「竜の国の王女であるというのは本当。だけど、その実態は、竜の長を継ぐにはあまりにも頼りない、王女とは名ばかりの出来損ないなのよ」
「……そんな。どうして、そんなことに……」
「……私が、完璧な竜じゃないからよ」
「……?」
「私にはね。半分、人間の血が流れているの」
「えっ……!?」
ルカは固まった。
「そうね……あれこれ断片的に話すより、最初から説明した方が早いかしら。少し、私の身の上話に、付き合ってもらえる?」
そうしてゼスィリアは、ぽつりぽつりと、自身の過酷な半生を語り始めた。