2.腹が減っては話も出来ぬ
「おいひい……」
もっしゃもっしゃと音を立てながら、ルカは焼き魚を頬張っていた。
そう、寝てしまえと布団に飛び込んだのは下校後のこと。
つまりルカは、まだ夕飯を食っていなかったのである。
育ち盛りの子供が、定時に腹を空かせるのは当然のことであった。
……本当は、腹の減り具合を無視して話を続けようとしたのだが。
育ち盛りを甘く見てはいけない。
まるで目覚ましのアラームの如く、しかも回を増すごとにどんどん大きくなっていく腹の音に、少女の方が耐えかねて、「あぁもうはしたない! 食べ物があればいいんでしょう!」と叫んでルカの腕を引っ張って歩き始めたのだ。
慣れた足取りで草の根を踏み分ける少女に引きずられるがままに、着いた先は川だった。
穏やかに流れる川の水は澄みきっており、水底を濃淡さまざまな色の石が彩っている。
「綺麗な川……」
ほう、とため息をつくと同時に、腹がまたぐぅおぉぉおぉぉと悲鳴を上げた。
あれからさらに歩いたせいか、なんだか音が悪化している。
「風情もへったくれもないわね……まぁいいわ、ちょっとそこに離れて座ってなさい」
そう言って少女は、ルカを川岸から離れたところに座らせた。
そして、川岸に立つと、水面の方にすっと手を伸ばした。
次の瞬間、ルカは信じられないものを見た。
少女の伸ばした手の先に、青く光る、魔法陣の様なものが現れたのだ。
そして、その光に呼応する様に、川を下る水流が大きく波打ち。
どっぱぁあん!
川の水が、大量の魚を跳ね上げた。
無数の銀の煌めきが、ビチビチと川岸に打ち上げられる。
常識ではあり得ない一部始終に、ルカは目玉が飛び出そうだった。
が、その時。
魚を跳ね上げて大きく波打った川の水が、留まるところを失った勢いで、少女目掛けて落下してきた!
「危ないっ!!!」
叫んだがもう遅い。
桶をひっくり返したかの様な激流が少女を襲った。
そのまま水が引いて、何事もなかったかの様にまた川へ流れていく。
そして、思いっきり落下してきた川の水を浴びてずぶ濡れになった少女もまた、何事もなかったかの様にくるりとこちらを向いて、言った。
「さ、火を起こして焼くとしましょうか」
「待て待て待て待て!!!!!」
どこから突っ込んでいいかわからなくなったルカは、とりあえず全力で少女を制止しにかかった。
「死ぬかと思ったよ!!!」
「あの程度の水流で死ぬ訳ないでしょう」
「んなばかな!!!」
普通、こんな華奢な少女があんな激流に打たれたら、首が折れて死ぬと思う。あるいは溺れる。無知な中学生でもそれくらいはわかる。
常時電撃を食らって生きていられるのはアニメの中だけの話だ。
何が何だか、とパニックを起こしているルカをよそに、少女は濡れた髪をぴっぴっと払い、打ち上げられた魚を拾って、言った。
「とりあえず、その喧しい腹をなんとかしなさい。話はそれからよ」
そんなわけで、ルカはもくもくと、少女が焼いた焼き魚を頬張っているのだった。
「よく食べるわね……」
するするとルカの胃に消えていく魚を見て、少女は若干引いている。
「とれたてうまい……いくらでもくえる……」
「そ、そうなの……やっぱり男の子の食欲って、化け物じみてるのね……」
「え? 何?」
「いえ、何でもないわ……」
少女の呟きを聞き取り損ねたルカは、はて……と思いながら、また魚を頬張り始めた。
そして。
「……ふう、食べた食べた。美味しかった~。ごちそうさまでした」
「『ごちそうさまでした』?」
「あ、えっと、食後の挨拶。食べ物作ってくれた人とか、いただいた生き物の命に、ありがとう、って、お礼の気持ちを表す言葉……」
たぶん。とルカは心の中で付け加えた。普段当たり前に使っている言葉を、いざ「どう言う意味?」と問われると答えるのが難しい。
「……それじゃあ、改めて、いろいろ教えてもらってもいいかな。ここがどこなのかとか、君のこととか、さっき使ってた魔法……神術? のこととか。正直、目が覚めてから衝撃の連続で、何にもわかってないから……」
「そうね。貴方の腹の虫もようやく鳴き止んだことだし」
「すんませんでした……」
ルカは赤くなって頭を下げた。
少女はぷっと吹き出した後、慌てて真面目な顔を取り繕い、ごほんと咳払いをして、話し始めた。
少女によると、ここは、神獣帝国と言う、神獣だけが住まう、神聖なる国なのだそうだ。
神獣帝国は、四つの王国と、中央に位置する帝都から成っている。
北に位置する『蛇の国』シュヴァルスタ、南に位置する『鳥の国』フレイヤール、西に位置する『虎の国』クラウドブーケ、そして、東に位置する『竜の国』ドラグレア。
この四つの王国がそれぞれ東西南北を守護することで、帝国の安寧を保っている。
ルカが寝惚けていたのは、帝国の東、『竜の国』の中でも最東端にある、草原地帯の一角だった。
そして、寝惚けていたルカを叩き起こした少女は、名前をゼスィリア・ドラグレアというらしかった。
苗字に国名を冠していることから分かる通り、なんとこの国の王女様だったらしい。
何でそんな偉い身分の人がこんな草っぱら歩き回ってんだ……とルカは思ったが、口には出さなかった。
「しかしまぁ、ゼシリアって言いづらい名前だね……どんな意味なの?」
「ゼ・スィ・リ・ア・よ! ……別に、深い意味なんてないわ」
「え、何で……? 親御さんに、聞いたこととか……」
「……ないわ。聞いても、教えてくれないわよ」
ゼスィリアの表情が翳る。聞いちゃいけないことを聞いてしまったと思い、ルカは話題を変えようとした。
「……てか、『竜の国』の王女様ってことは、ゼシリアさんも竜ってこと?」
「だからゼスィリア! ……当たり前でしょう、竜の王の娘なのだから」
「そ、そりゃそうか。でも、未だに信じられなくて……だって、今の見た目、どう見ても人間だし……」
ルカはマジマジとゼスィリアを見つめた。今の彼女の姿はどうみても、銀の髪と青い瞳の絶世の美少女だ。この美少女が、漫画で見る様な四つ足のドラゴンになったりするのだろうか、とルカは考えてみたが、あまり想像がつかなかったので早々に諦めた。
「……こっちの方が、神力を使わなくて済むのよ」
「へぇ、そうなんだ。本当の姿の方がエネルギーを使うってのも難儀な話だね」
ルカは首を傾げる。ファンタジーものを読んでいると、力を失って小さくなったり小動物の姿になったりする魔物がいたりするが、この子も例に漏れずそうらしい。
「じゃあ、必要な時だけ竜に変身するってことか。……あの、ちょっと見せてもらっても」
「いやよ」
「ですよね……」
すげなく断られてルカはしょげた。ちょっと興味があったのだが、本人が嫌なら仕方ない。力をそれなりに使うと言うことはそれだけ疲れることでもあるだろうし、無理に頼むもんじゃなかったとルカは反省した。
「……そういえば、さっきから思ってたんだけど、ゼシリアさんって王女様なんだよね? ……あれ、すごい今更だけど、口のきき方改めた方がいいですか……?」
「だから! ゼ・スィ・リ・ア! 馬鹿にしてるの!? 口のきき方以前にまずはそっちをどうにかしなさいよ!」
「ご、ごめんなさい! だって言いづらくて!! 決してわざとじゃないんです!!!」
「取ってつけた様に丁寧な言葉を使われても余計に煽られてる様にしか聞こえないわよ!!!」
「ごもっとも!!!」
過度な敬語はかえって相手に失礼になると言う事例を、身をもってルカは体験した。
「ついでに言えば、本当に今更すぎよ! 今更敬われても気持ち悪さしかないわ!!」
「ひでぇ!」
言いたい放題だ。ルカはちょっと泣きそうになった。
「全く……名前ひとつ満足に発音できないなんて、幼児じゃあるまいし……」
「だってうまく発音できないんだもん……あ、そうだ」
ルカは一つ、打開案を思いついた。
「つづめて呼んじゃダメ? ゼシィリアだから……そうだ、『ジェシー』とか!」
「却下! 改善するどころか悪化してるじゃない!!!」
「ですよね!」
「まずは発音する努力をなさい!!!」
「ごもっとも……」
ルカは項垂れた。やっぱり、頑張って発音できる様になるしかなさそうだ。
英語苦手なんだけどなぁ、と、ルカは黄昏れた。……英語じゃないぞ、とツッコむ者はここにはいない。
「……というか、こちらが名乗ったのに、貴方がまだ名乗ってないじゃない」
「あ」
そうだった。
ルカは慌てて居住まいをただして名乗った。
「えっと。水沼ルカ。水沼が苗字で、ルカが名前。13歳。なんと言うか、まぁ……よろしく」
「ミヌマ? 家名が先に来るの? 何だか不思議な響きね……まあいいわ、ルカね、覚えたわ」
ルカ、と訛りひとつなく日本の読み方で発音してみせたゼスィリアは、よし、とひとつ頷いてから、言った。
「じゃあルカ、今度は貴方のことについて聞かせてもらいましょうか。貴方、そもそもどこからきたの? 最初はフレイヤールかシュヴァルスタの民かと思ったけれど、それにしては常識を知らなすぎるし……貴方、何者なの?」
「えっと……ただの人間です……」
そうとしか答えようがない。人間の世界で生まれて、人間の世界で生きてきたのだ。神獣の国の常識なんて知るはずもないし、摩訶不思議な現象なんて起こりもしないところで育ったのだから魔法じみた奇跡を現実で目にしたこともない。人間としては至極当たり前の話だ。
だが、そう口にした瞬間、明らかにゼスィリアが動揺した。
「人間……?」
「うん、人間。ついさっきまで、人間が暮らしてる国で、普通に生きてたはずだったんだけど」
「……うそ」
何故かゼスィリアが震えている。
「目が覚めたらあそこにいた。ぶっちゃけ、どうやって移動したのかとか、なんであそこにいたのかとか、全くもってわかんない」
「……そう」
ゼスィリアは俯いた。
どうしたんだろうと思ってルカが手を伸ばしかけると、ゼスィリアは急にすっくと立ち上がった。
顔を見れば、口がへの字に曲がっている。何か思案する様な面持ちで、しばらく押し黙っていたが、急にぐいっとルカの腕を引っ張って立たせた。
「へ……?」
「此処でグダグダ言っていても仕方ないわ。とりあえず、戻りましょう」
「へ? どこに?」
ゼスィリアは何も答えず、ただルカの手を引っ張って黙々と歩き出した。
***
ゼスィリアは動揺していた。
彼女は幼い頃から、周りの者に、「人間とは汚れたいきものだ」と吹聴されて育っていた。
ゼスィリアに限らず、神獣は大抵、言葉をすぐに翻し、自分の都合の良い様にしか物事を考えない人間を嫌っている。
なのに、ひょんなことから出会った、自らを『人間』だと名乗るルカという少年は、どう見ても、今まで教えられてきた人間像とずれていた。
腹に一物抱えるにはあまりに間の抜けた、嘘がつけなそうな、そんな少年。
会ったばかりのゼスィリアを本気で心配して顔色を青くしたり、嫌味をまともに受け取って落ち込んだり。
(心根の、やさしそうな、ひとに見えた……)
ゼスィリアは、ぎゅっと、胸を押さえた。
(人間……邪悪な生き物。そういうだけじゃ、ないのだとしたら)
それは、彼女にとって、微かな希望。
ゼスィリアは、強引に引っ張っているルカの節くれだった手を、ぎゅうっと握りしめた。
***
「……みいつけた」
草木の影で、無邪気な声がつぶやいた。
しかし、そこには誰もいない。
だが、すぅっと、徐々にその姿が現れる。
「……あ~あ、全く。探すのにずいぶん手間取っちゃたよ」
やがて現れたのは、草原に紛れる様な、萌葱色の髪をした少年だった。
歌う様に紡がれる言葉は、風が吹けば飛びそうな軽さを孕んでいる。
少年は、一歩、また一歩と、足取り軽く、歩む。
「無知で愚かなお姫様。愚かなまんま、殺してあげる」
そう口ずさむように言葉を紡ぐ少年の瞳は、まるで命宿らぬ宝石の様に輝いていた。