第2話 奈落
後半に暴力描写があります。
雪緒は、自室のある二階から一階へと降りていく。
食卓テーブルの上には、ラップのかかった朝用のおかずが置いてあった。
目玉焼きとソーセージ、それとほんの少しの野菜。
冷蔵庫を開けると、晩用のおかずも作り置きされている。
両親は共働きだ。朝以外、顔を合わせないことも多い。
これが用意されているということは、今日も遅いのだろう。
昼ごはんは、いつも適当に済ませているが、丁度目の前には朝食がある。
雪緒は、それをレンジで温め直し、食パンを焼いた。
家の中が静かなせいか、少しだけ外の音が聞こえてくる。
ざわざわとする音の中で、ゆっくりと時間が過ぎていく。
こうして時間を過ごすのも、もう三日目だった。
出来上がりを示すトースターの音が鳴った。
だが、焼き上がったパンを取り出すこともせず、何かを見つめ続けた。
それから、冷めたパンにジャムを塗り、淡々と口に入れていく。
「どこか、行ってくるかな……。」
実は、例の事件の数日後に一度登校していた。
だが、学校には尾ヒレを付けて事件のことが広まっていた。
その中には、雪緒がずっと秘密にし続けていた内容も含まれている。
それを打ち明けたのは、両親以外では一人しかいない。
*
雪緒は街へと出かけた。
家を出る時、少し緊張していたが、しばらくすると気にならなくなった。
その理由は、"秘密"を身に纏っていたからだ。
『ゴスロリ』。
ゴシック・アンド・ロリータの略。
2000年初頭から流行り始めたもので、『ロリータ』ファッションの発展系。
ロリータのイメージは、白基調の可愛らしさだ。
だが、ゴスロリのイメージは、吸い込まれるような黒。
愛らしいシルエットを残しつつ、ゴシックの重厚さや病的イメージを併せ持つ。
それは、優等生を演じていた彼女にとって、ほんの少しの冒険だった。
ただその冒険は、いつも自室の中だけで完結していた。
秘匿された冒険であり、それが人目に触れることはない。
この冒険こそ、雪緒の心のバランスそのものだった。
雪緒は幼少期から悪夢や幻覚に悩まされ続け、病院通いをしていた。
精神が安定しないせいもあり、友人もなかなかできなかった。
それで両親に心配かけまいと、必要以上に学業に励んだ。
気がつくと、自分だけでなく、他人にも厳しくしてしまうようになった。
更に、友人というものは遠ざかっていく。
そんな中で、友人と呼べる人ができた。
茶髪で、いつも甘い匂いのする彼女は、雪緒にとって刺激的な人物だった。
だが、彼女の一挙一動は嘘に塗れ、雪緒の心はいつも乱された。
ただそれでも、一度得たものを手放す気にはなれなかった。
彼女は次第に、雪緒のもう一つのバランスになった。
そして、その均衡はすでに崩れてしまった。
雪緒は周りの視線に気付いた。
だが、あれほど気にしていたのに、不思議と何も感じなかった。
(こんなことなら、もっと前から着れば良かった。)
案外他人というものは、自身を見ていないことに気付く。
目で見てはいても、その心内まで覗き見るわけでもない。
そういう格好の人は、"そういう格好の人"でしかないのだ。
そこに至るストーリーにまで、考えを巡らせる人は殆どいない。
なら、"好きにやればいい"と、やっとそう気付いた。
あの事件以来、例の"スローの魚の世界"は現れなくなった。
ただ、それはそれで良かった。
見たくないものを見なくてよいから。
魚になると、必要のないものまで見えてしまう。
だが、それとは別に、ひとつ困ったことがあった。
例の悪夢が再発したことだ。
子供の頃からずっと苦しめられた夢であり、幻覚。
人差し指から伸びた長く冷たい"それ"が、稲妻のように空を裂く。
すると、透明な白昼の軌跡が、赤黒い飛沫に変わっていく。
最初、それはひどく心地良いのだが、必ず最後に嫌なものに変わる。
手に残る生暖かさがベタつき、鉄の臭いに吐き気がしてくる。
気がつくと、足元に見知った顔が転がっていた。
そこでようやっと、自身の手で殺したと理解する。
そんな夢を延々と見続けるのだ。
(しばらく見てなかったのにな……。やっぱりあれは、私の精神状態次第なんだな……。)
両親にまた心配をかけてしまう。
それだけが気がかりだった。
そうして暗い表情のまま、雪緒は街をアテもなく歩く。
すると、一番会いたくない人物に出会ってしまう。
レイは息を切らし、何かから逃げているようだった。
雪緒に気付くと立ち止まった。
いつもの綺麗な茶髪は、何かと争ったのか、少し乱れていた。
「……え?アンタ、もしかして雪……?え、なんでその格好……?」
雪緒は何も言わず、そのまま立ち去ろうとする。
だがその時、ガラの悪い不良女が追いついてきた。
そして、レイに掴みかかった。
「オイ!てめぇ、逃げてんじゃねぇ!」
「離してよ!だから、違うって言ってんでしょ!人違いだって!」
不良女は振りかぶり、レイの頬を思い切り打った。
「痛ッ!なにすんだよ!!」
「人違いじゃねぇ!こっちは面知ってんだよ!毎日逃げやがって、やっと捕まえたぞ!私の男に手出して、ただで済むと思ってんじゃねぇだろうなぁ!?」
「離せよ、ブス!オマエがブスだからだろ!ウチの方が可愛いからって僻んでんじゃねぇよ!ブス!」
「ああん!てめぇ!」
再び不良女がレイを打つ。
だが、今度はレイも不良女を殴り返す。
「この、テメェ!」
「先にそっちがやったんでしょ!」
揉み合う二人。だが、そこに不良女の仲間が追いついてきた。
仲間の男が、レイの肩を掴んで連れ去ろうとする。
「なによ!触んないでよ!やっ!やだって!!」
急に旗色の悪くなったレイは、雪緒に助けを求めた。
雪緒の手に触れ、グッと力をこめて掴んでくる。
「ね、ねぇ!雪、助けてよ!コイツら馬鹿だからさ、なんか逆ギレしてんだよね。知ってるよ、アンタ結構強いんでしょ?合気道とかやってたじゃん。ねぇ、ウチらダチじゃん?また助けてよ、この前みたいにさ?」
「あ?オマエ、こいつの仲間か?」
不良女が雪緒を睨む。
だが、雪緒はレイの手を冷たく払った。
「……誰、知らない。私は関係ない。」
「オマエ、ふざけんな!助けろよぉ!!」
その瞬間、激昂したレイが雪緒の背後に回り込む。
そして、両手で雪緒を突き飛ばそうとした。
恐らく、先日にやったことと同じことをしようとしたのだろう。
だが、雪緒は後ろも見ずに、スッと右へ移動する。
すると、レイは不良たちの方へと、身体全体を投げ出すように転んでしまう。
不良女は雪緒を一瞥したが、それ以上雪緒には手を出さなかった。
そして、仲間と一緒にレイを連れ去っていく。
レイは引っ張られ、去り際に雪緒に向かって罵詈雑言を浴びせていった。
「ぼっちだからダチになってやったのによぉ!恩返せよ!オマエみたいなつまんねぇヤツ、誰が本気でダチになるかよ!バぁカ!死ね!死ね!!」
雪緒は、何も言い返さなかった。
*
──────駐車場。
レイは髪を掴まれたまま、引き摺り回されていた。
茶髪はもうクタクタになり、顔も腫れ上がり始めていた。
いつも薄く化粧をしており、人一倍見た目に気を使うレイ。
だが今は、涙で化粧もぐずぐずになっていた。
駐車場の中には、他に何人かいた。
だが、彼らが入ってくると、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
彼らのすぐそばには、ワンボックスカーが停まっている。
そこから、四人の男たちが出てきて、下卑た笑いを浮かべた。
他に三人の女と一人の男がいた。
レイひとりに対し、相手は八人だった。
レイは男に殴られ、すでに戦意喪失してしまっている。
彼女は無駄と知りながらも、何度も涙ながらに懇願した。
「やめ、やめてください……。お願いします、お願いします……。」
「さっきまでイキってたのに、どうしたよ?」
「すみませんでした……。もうしないから、もう帰して……。」
「オマエ、バカか。帰すわけねぇだろうが。」
不良女は、レイの髪を掴んだまま、勢いよく蹴り飛ばす。
レイは、ワンボックスのすぐ隣まで突き飛ばされる。
そして、そこにいた男たちに掴まれる。
「手伝ってくれたコイツらに、餌やんねぇといけねぇしなぁ。意味分かるよな?……ああ、後で動画送ってよ?学校にばら撒いてやるから。」
「ほら、来いよ!乗れ!」
「やだ!やめて!やだああ!!お願い!やだ!やだ!!」
泣き叫ぶレイ。だが、誰も助けようとする者はいない。
男たちは、レイの身体をベタベタと触りながら、車の中に押し込める。
雪緒が駐車場に足を踏み入れた時、奥から泣き叫ぶ声が響いた。
その声を聞いても、雪緒は何も感じない。……はずだった。
(あー、いやだ。なんで私……。)
「ごめんなさい!ごめんなさい!もうしないから!もうしな、……やだあ!!触らないで!!いや!いやぁ!!」
(きっと、最初から友達じゃなかったんだよね……。私、馬鹿みたい。)
「やだ!やだああああ!!お母さぁああん!!やだぁ!!」
泣き叫ぶ声が聞こえなくなる。
雪緒の位置からは車の影になり、その様子は何も見えなかった。
だが、その時、微かに声が聞こえた。
「…………ゆ、雪ぃ……、助けて……。」
ただそれはあまりにも小さく、消えてしまいそうな音。
だから、雪緒は気のせいだと思いたかった。
(ああ、手の震えが止まらない。どうして、もう関係ないのに。私は一体何をしようとしてる……?今はもう、あれは見えないんだ。トレースできないんだ。私には何もできない。でも……。)
その時、一瞬、光が見えた。
それは雪緒のつま先から伸びていき、ずっと奥の方まで続いていく。
地を這うような光のながれは、視界を塞ぐ車の影へと繋がっていた。
(どうして……。もう見えなくていいのに。)
雪緒はそれをトレースする。
ゆっくりと、それでいて足速に進む。
そして、その場所へ着く。
ワンボックスカーの扉は開いていた。
髪を掴まれ、涙でくしゃくしゃのレイ。
彼女はなんとか自力で逃れようと、自分で扉を開けたのだろう。
だが、それは虚しく、再びに車の中へ引き戻されようとしていた。
その時、雪緒はレイと目が合った。
「雪ぃ……っ!」
レイの消えそうな声。
しかし、彼女は押さえつける男に殴られ、身体を縮こませた。
「ああん!?テメェさっきの!?」
不良女が雪緒の姿を確認して叫ぶ。
だが、次の瞬間、女は膝から崩れ落ちていた。
雪緒の掌底が顎を振り抜き、女は一瞬で意識を持っていかれたのだ。
「殺してやる……。」
雪緒の口から、自身でも意図しない言葉が漏れる。
自分でも驚いていた。そして理解できなかった。
なぜこんなにも、ハラワタが煮え繰り返っているのか。
雪緒は、その怒りを解き放った。
ワンボックスカーの入り口に飛びつき、中の男二人の目に同時に指を突っ込む。
そして、その男二人の喉に肘を入れ、潰した。
呼吸が出来ずに悶え苦しむ男たちの胸ぐらを掴み、車外へと引き摺り出した。
背後から別の男に掴みかられると、踵を打ち上げ、急所を潰す。
そのまま髪を掴み、顔面に膝蹴りを食らわせた。
運転席にいた男もやってきたが、今の雪緒の前ではただの生贄でしかなかった。
急所に膝蹴りを入れられ、倒れざまに側頭部にも膝をいられ昏倒した。
その場にいた男どもは、全員急所を潰され、もはや立ち上がることもできない。
一瞬のことに、固まっていた女らも次々と戦闘不能にさせられる。
もうそこで動く者は、雪緒とレイ以外いなかった。
レイが、車から恐る恐る出てきた。
「助けに……、来てくれたの……?」
「……別にそういうわけじゃない。」
「雪……。」
レイは自身の身体を抱きながら少し歩くも、足元は頼りなくよろめいてしまう。
雪緒はいち早くそれに気付き、咄嗟に支えようと手を伸ばす。
だが、レイは身体を縮こませ、それを拒絶した。
「アンタ……、誰……?本当に雪、なの……?」
レイは怯えていた。それは、男共にではない。
目の前の、血塗れの女に対してだ。
雪緒は笑顔を見せた。
「……じゃあね。」
雪緒は、そのまま駐車場を出ていった。
駐車場を出ると、日が落ちかけていた。
辺りには影が落ち、少しずつ暗闇に飲まれていく。
だが、その影も、今の雪緒にはよく見えていなかった。
朧げな陰影は、もうすべて暗黒の中と変わらない。
もう気付いてしまったのだ。
(人を殺す感覚。夢でも幻覚でもなかった。……記憶。私のものではない、私の記憶。……これは、人殺しの記憶。)
雪緒は足の感覚を失った。
今、歩いているのか、走っているのか、立っているのか、座っているのか。
もう何も分からない。
自身の根底から、何かが崩れていく錯覚。
だが、それは錯覚ではなかった。
錯覚を意識した瞬間、本当に奈落へと落ちていたのだ。
そこで一度、雪緒の意識は途切れた。




