第20話 開眼
中盤に少しだけ暴力描写があります。
──────江戸の城下町・童雀の屋敷。
早朝、蒼は目を覚ます。
静かな朝だった。
蒼と也場が常陸国の屋敷を出立し、すでに四日。
二人は、昨晩の内にすでに江戸へ到着していた。
蒼は屋敷へ到着して、すぐに屋敷内を隅々まで確認する。
その後は湯を沸かし、さっと汗を流す。
そして、その日はゆっくり休み、次の日に備えた。
なぜなら、次の日の夜が決戦であることを知っていたからだ。
そして、今日がその当日。
朝から起きた蒼は、さっそく準備に取り掛かる。
といっても、殆どのことは智が事前に用意していた。
やることといえば、自身の装備の点検や食事の心配くらいだ。
そうしていると、そこへ也場も合流する。
「十霞殿、何か変わったことは?」
「特には。也場殿、準備を始めましょうか。」
二人は、昼過ぎから身支度を始める。
蒼も也場も、旅装に少しばかり脛当てや手甲、額当てを追加。
蒼においては、鎖帷子も着込んでいる。
今回は、通常の戦とは違ったものになるだろうとの想定だ。
防御力を上げつつも、なるべく機動力を落とさないことを重視した。
そして、夕方になり、蒼と也場は梯子で屋根の上へと上がる。
そこには、いつものように江戸城の天守が見えていた。
悠然と聳えるそれは、いつものように城下を見下ろしている。
それは、徳川安寧の象徴でもあった。
それからすぐにその時が訪れた。
城下町に、凄まじい轟音が響き渡ったのだ。
その轟音は地響きと共に、突風を起こした。
蒼らは屋根にしがみつき、姿勢を低く保つ。
「決して信じていなかったわけではありませんが……。この目で見ても、"まさか"と思ってしまいますね……。」
「知っていながら止められぬとは、もどかしいものよ。あそこに上様がおられぬことは知っておるが……。」
二人が見ている目の前で、明らかに景色に変化が生じる。
象徴的存在であった天守が、視界から忽然と消失してしまったのだ。
現在、その場所には巨大な粉塵が巻き起こっている。
それはまるで巨大な生き物のように、うねるように飛散していく。
これは、迷葉鹿頭火の信奉者による決起が行われたことを意味する。
それは正に開戦の狼煙だった。
江戸城は爆破されたのだ。
この時点で、江戸の城下町も大混乱となる。
結果、二人は童雀への連絡手段もなく、ここで消息を経ってしまった。
──────大阪・某所。
そこには、迷葉鹿頭火と十一の姿があった。
鹿頭火は、うどん屋でお椀を片手に街並みをボーッと眺めていた。
隣では、十一もうどんを啜っている。
「迷葉の旦那。俺ら、こんなところでうどん食ってる場合かね。」
「ん?口に合わなかったか?」
「いや美味いよ。美味いけども。そうでなく。江戸じゃもう始まってんだろ?」
「恐らくな。まぁここまで三年かけたのだ。今更焦ってもしょうがあるまい。"細工は流流"なんとやらだ。」
「俺も江戸に残してくれりゃぁ、ちったぁ遊べたのによぉ。」
「時期が来れば、お主にも働いてもらうさ。」
「で、"新しいの"ってのは、いつ手に入るんだ?」
「まぁ待て。楽しみは後に取っておくもんだ。それよりも大阪城を見に行かぬか?ここにはまだ天守が残っておるのよ。」
「いや、旦那。俺ら観光に来てんじゃねぇから……。」
「堅いことを言うな。どうせしばらく暇なのだ。有意義に時間を潰そうではないか。戦というものは、始まった時にはもう終わっておるのだよ。大事なのは事前の仕掛けよ。あとはどこを落とし所にするか、くらいかのう。」
「ふぅん、俺にはよくわかんねぇけど。アンタの中では、仕掛けは既に終わってるってことか。つーか、それなら俺は、観光よりも美味いもん食いてぇよ。"天下の台所"つーぐらいだから、美味いもんあんだろ?」
*
──────山中の屋敷。
蒼たちが出立して、すでに一週間が経っていた。
座敷には、恋十郎と智がいた。
恋十郎は、窓の外を眺めながら茶を啜る。
「瑞白殿は良いのですか?」
「ん?ああ。今は重路の旦那が相手してるよ。おいらは休憩中。」
「そうですか。」
「……なぁ、智。雪には、言わなくていいのか?江戸のこと、蒼のこと。もう今頃は、事が起きちまってんだろ?」
「やめておいた方がいいでしょう。今は、自己鍛錬と蝦夷地の方に注力してもらわねば困ります。言えば、おそらくは江戸に行くと言うでしょうし。彼女が行けばどうなることか。」
「その口ぶりじゃ、江戸で死ぬ予定のやつに雪も含まれてたってことかい?」
「さぁ、それは分かりません。私も聞かされていませんので。」
「……ふぅん。なぁ、おいらもこのままでいいんかな。」
「え?なんです、急に。」
「雪頑張ってるしよ。……それに、蒼にも頼まれたしな。」
「貴方は十分強いのですから、あとはまぁ普段の心構えというか……。そのムラっ気がなんとかなれば、十分かと思うのですが。」
「そこはまぁ……、難しいかな。」
「結局、変える気ないじゃないですか。まぁ貴方のおかげで、瑞白殿もだいぶ仕上がってきたみたいですしね。蝦夷地へ向かっても良さそうですね。」
「アイツ、自分がどんだけ化け物染みてんのか分かってんのかねぇ。なんせずっと格上としかやり合ってねぇからな。ロクに前世の力も引き出せねぇくせに、今じゃそれなりに動きやがる。あっち行ったら、何があるか分かんねぇし。必ず庇えるかも分からんしな。」
「もう大丈夫でしょう。だいぶ、実力もついたようですし。」
「というか、先に言っといた方が良かったんじゃねぇの?蝦夷地行きは雪の仕上がり次第だって。その蝦夷地行きだって、そもそも雪姫様の指示なんだろ?」
「ええ。言わないのも雪姫様の指示ですよ。瑞白殿は、徳川最後の希望となるやもしれぬそうです。そのための試練です。このままでは瑞白殿は生き残れません。蝦夷地での経験こそ彼女を強くする。少なくとも雪姫様が直々に選んだ人物ですからね。頑張ってもらわないと。」
「で、信長の方はなんとかなるんかい。おいら、責任持てないぜ?」
「それは心配ないかと。信長の未来も雪姫様の手中にありますから。彼女は現在、蝦夷地でもそれなりの地位にあるようです。戦乱の世に戻ることは、彼女も望んではいないはずです。」
「んじゃ、もう伝えていいかい?蝦夷地へはもう出立するってさ。」
「ええ。おそらく今夜、瑞白殿もある一定のところまで完成するでしょう。」
*
──────山中の修練場。
今夜は新月。
涼しげな広場には、月明かりなど何処にもなかった。
雪緒は、今、その広場の中心で佇んでいる。
深い闇の中、目を瞑り、辺りに溢れる草木の音に耳を傾けた。
彼女は一言も発することなく、風に揺られていたのだ。
まるで自然と一体化したかのように、その佇まいは穏やかであった。
深く息を吸うと、鼻の奥まで新緑が届く。
雪緒の気力は十分だった。そして、落ち着いていた。
その後ろ、入り口付近には恋十郎がいた。
いつものように、雪緒の様子を腕を組んで見守っていた。
そうして少しした後、静かに黒面の亡霊が現れた。
亡霊は何かを確かめるでもなく、ひっそりと速やかに忍刀を抜いた。
それに呼応するかのように、雪緒もゆっくりと刀を抜く。
両者の間合いは十分離れている。
だが、それも今だけだ。
その様子に、恋十郎はごくりと唾を飲んだ。
(雪のやつ、きっちり集中してやがる。随分と意識の持っていき方も上手くなったもんだな。まるでアイツ自身が冷たい刃になっちまったみてぇだ。こりゃひょっとするとひょっとするかもな。)
新月の夜は、広場もすべて闇の中。
最初から、黒面の亡霊の姿も朧げにしか感じ取れない。
だが、それでも雪緒には見えていた。
森のざわめきの中に、砂つぶを乱すような摺り足の音が混ざる。
それは、以前の雪緒にはただ漠然としたものでしかなかった。
だが、今はもう、どのように動いているかまで察知できてしまう。
それどころか、身体や刀の構えまでも容易に推測できてしまうのだ。
これはひとえに、何度も死線を越えたから得られたものであった。
ただ漫然とした練習の中では、一生涯得られなかったであろう。
しかし、亡霊はさらにその上をいく。
足を器用に使い、緩急のフェイントを入れてくるのだ。
最早、音だけではすべてを感知できない。
そうして暗闇の中、亡霊は雪緒の目前に出現する。
忍刀が弧を描き、雪緒の首を狙う。
だが、雪緒はそれを左手に持った刀だけでいなす。
受け止めたのではない、僅かな力のみで逸らすのだ。
ただ受け止めたのでは、反動で切り返すことはできないだろう。
しかし、受け流してしまえば、立場は逆転する。
これから斬撃を喰らうのは、亡霊の方となるのだ。
雪緒の刀はいなした勢いのまま弧を描き、今度は亡霊を捉える。
だが、そこに亡霊はいない。
いなされた忍刀に逆らわず、そのまま前方へと前転して避けていく。
こうして今宵、両者の騙し合い化かし合いは再び始まった。
実はこの時、雪緒にはもうひとつ見えはじめていたものがある。
それは言葉では説明しにくいものだ。
端的に言えば、気配や殺気というものに近い。
言い表すとすれば、雪緒の中で最も近い言葉は"存在感"であった。
この深い暗闇の中でさえも、そこに何らかの存在を感じるのだ。
そうなってくると、もはや暗闇は目眩しとして機能しなくなる。
すでに、亡霊の視覚的な優位は無くなっていたのだった。
雪緒は何度も亡霊の攻撃をいなし、反撃する。
ざわめく森の中で、小気味良い金属音が幾度となくこだましていく。
まるで示し合わせたかのように、綺麗に真剣が交差するのだ。
雪緒はこの時、ひとつの感情を持っていた。
『面白い』と。
全く知らない相手であるはずが、なぜか旧知の仲のように錯覚する。
剣を交えただけで、知るはずもないことを知ってしまうような。
それは本当に不思議な感覚であった。
その様子に恋十郎は嫉妬する。
(くそぉ!楽しそうだな!)
剣技では、雪緒よりもまだまだ恋十郎の方が数段上手だ。
だが、こうした極限下では、もしかすると雪緒に分があるかもしれない。
何より、その類まれな集中力は、恋十郎にも真似できるものではなかった。
視野が狭窄するような錯覚と、研ぎ澄まされていくすべて。
雪緒は、意識的にそこへ切り替えできるようになっていた。
それは"スローな世界の魚"とはまた違う、雪緒自身の新境地であった。
そして、とうとう雪緒はそれを捉えた。
雪緒の刀の切っ先が、黒面の真ん中を射抜いたのだ。
その瞬間、面は割れて地面に落ちた。
一瞬、雪緒は面の音に気をとられる。
そして、すぐさま亡霊は闇に退き、掻き消えていく。
気配もそのままどこかへ消えてしまった。
雪緒は割れた黒い面を拾い上げる。
それは、ひどく小さなものだった。
「子供用……?」
雪緒の元へ恋十郎が歩いてきた。
「勝ったな。」
「え?勝ったのかな。」
「面割って退かせたんだ。勝ちだろ。」
「うーん。」
「なんだよ、なんか不満か?」
「うまく説明できないけど……。"勝った"というより、"勝たせてもらった"って感じがするんだよね。」
「は?」
「勿論、手を抜いてた感じではないんだけど、なんて言えばいいか……。そうなるように、誘導されていたような……。」
「そうかぁ?気のせいだろ?まぁとりあえず、ここはもういいだろ。オマエの勝ちだって。さっき言ったように、明後日にでも出発するからな。」
「うん、分かったよ……。」
*
二日後の早朝。
雪緒と恋十郎は旅装に身を包んでいた。
智はそれを見て、にっこりと微笑んだ。
「良さそうですね。なかなかお似合いですよ。」
「えへへ……。有難うございます。」
雪緒の旅装は、今までとは違うモノだった。
手甲も脚絆も合羽も、すべて黒を基調としたものだ。
これらは雪緒のために、しつらえたものであった。
雪緒は、今まで自前の刀すらも持っていなかった。
だが、今の雪緒の腰には、柄も鞘も真っ黒い刀が差してあった。
すべては、雪姫からのせめてもの贈り物であったのだ。
「お雪ちゃん、とても素敵ですよ。どうか宜しくお願いしますね。」
「ああ、えっとお雪ちゃん。ありがとうございます、私のために……。」
「いえ、私にはこんなことくらいしかできませんので。どうかご無事で。」
「はい、行って参ります。」
「うし、それじゃあ行ってくるぜ。雪、ほらもう行くぜ。」
「ああ、うん。」
こうして雪緒と恋十郎は、蝦夷地へと旅立った。
結局、蝦夷地へは船を使わずに、徒歩で行くことになった。
どのみち、途中で船に乗る必要はあるのだが。
ルートとしては、まずは奥州街道を辿って陸奥国の三厩まで行く。
現代では、青森県の外ヶ浜町にあたる場所だ。
更にはそこから船を使い、松前藩へ至る旅程となっている。
これは松前藩の参勤交代のルートでもあった。
丁度蝦夷地への往来も増えており、宿場町も発展し始めていたのだ。
なお、宇都宮宿までは、日光街道と共用になっている。
まず、雪緒らは山から降り、奥州街道を目指す。
雪緒は振り返るが、もう誰の姿も見えなかった。
「なんだよ雪。もうホームシックか?」
「そんなんじゃない。……現代と違って、すぐに戻ってこれないからさ。ちょっと名残惜しいだけだよ。」
「まぁ先は長いから、ゆっくり行くか。」
「いーや、すぐ行ってすぐ戻るから。」
「いやいや。まぁ焦る気持ちも分かるけどよ。どうなるもんでもないだろ。」
「そうだけど……。」
この時、雪緒はまだ聞かされていなかった。
すでに江戸では事変が発生していることを。
そして、蒼らとは連絡が付かなくなっていることに。
恋十郎は、智から聞かされてはいたが、それを雪緒には言わなかった。
(蒼、無事でいろよ。おいらたち、なるべく早く帰ってくるからよ。死んでたら承知しねぇからな。)
恋十郎は江戸の方の空を見上げ、ゆっくり流れる雲を見ていた。




