10年後の思浩は何処に
人名のルビは中国語・普通話のピンインです。
居酒屋を出ると、急に回りの景色が霞んできた。まともに歩くこともできない。あれ、そもそも俺はどうやってここに来たんだっけ……。気づくと車のドアが目前に迫っており、思わず足がもつれた。視界が揺らぎ、そのまま意識が遠のいた――。
「思蘭! 思哥!」
どこかから、俺を呼ぶ声がする。薄目を開けると、海が目に飛び込んできた。――故郷、山東省の海だ。まだ大気汚染や海洋汚染で霞む前の、綺麗な海。 俺は、その海岸に放り出されているようだ。
「哥哥! 僕だよ。」
俺の前に、一人の男が立っている。何処かで見たことがあるかのようだがどうしても思い出せない。
「ああ?お前は誰だ!」
「え?思浩に決まってんじゃん。大丈夫?」
口が半開きになった。180cmはありそうなこの長身で細身な男が、本当に、あの思浩なのか……?
「大丈夫じゃないね?」
その少し気取ったような口調が懐かしい。イマドキらしく伸ばした前髪からのぞく俺とよく似た一重のつり目を忘れるわけがなかった。
「大丈夫だよ。つーか、今までどこにいたんだっ。 故郷捨てるとか冗談じゃねえぞてめえ!」
すると、思浩は寂しそうな顔をして呟いた。
「あのままいても、貧困集落から抜け出せるわけないじゃん? せめて、子供にはあんな思いしてほしくないんだよ……。」
「いや、だとしても、だとしてもだ。取り残される者の身にもなって」
「じゃあ何?中年になってからのこのこ都会に出ていくの?そんなことしたって仕事は見つからないよね。今のうちに出ていくしかなかったんだ。っはあ、あんたなら分かってくれると思ったのに無駄だったみたいだな。俺はもうそろそろ行くよ。」
「思浩……? 違う!おい、待てっ。おい!」
畜生! なぜあんなことを言ってしまったんだ。ずっと家族に、思浩に会いたかった。家出まがいで日本に来たものの、解放されたような気分になったことはなかった。お前のことを忘れたことなんて、片時もなかったんだ――っ。ああ、俺はいつもそうだ。いつも言いたいことは言えずに、言わなくて良いことばかり言ってしまう。まだ行くなよ。話は終わってないんだ。待てよ。一分で良いからその足を止めてくれえっ! 叫びも虚しく、思浩の背中は遠ざかり視界はどんどん暗くなってくる。
「啊……」
夢、だったのか……。口から息が細く漏れ、俺は体中が重く沈むような感覚を味わった。
「!?」
否?夢などなどでは――なかった!?俺は知らない一室に寝かされているようだった。隣には確かに男が横たわっている。 開けた薄目の間から見えるのは閉じられたカーテン。弟でもなければ、同じ空間、しかも一つ布団で眠ることなどありえない。本当に、思浩なのか。いや、それにしてもなぜ!? あの早々に故郷に見切りをつけ、日本で就職した思浩が。お前も一緒に来いと言われても自分に故郷を捨てることはできないと言ったところ哀れなものを見るような目つきで見てきた思浩が。そんなやつの家が俺を泊めるなんて思えないし、俺が知らないうちに泊まっていたなど考えられない。偶然にしてはできすぎている。だが、今の俺にはそんなことはどうだってよかった。
「思浩……! 当时在哪里?」
「え……?」
困惑したようなつぶやきが聞こえたような気がしたが、俺の耳には届かない。俺は、こちらを向いた思浩に覆いかぶさるようにして抱き着き胸に顔をうずめた。
「……っ……っぅ……」
温かい……。長らく感じていない人肌の温もりを皮切りに、涙が堰を切ったように溢れ出す。やっと、会えたんだ――。俺より先に村を飛び出し日本で職を探す、と突然音信不通になった思浩。連絡先は一切明かしてもらえず、どこで何をしているかもわからなかった。故郷を捨てた弟とはいえ、俺自身も数年後見切りをつけて日本に出てきたので人のことを言えたものではない。そして、最低だと罵り軽蔑していても思浩はたった一人の弟だ。ちゃんと仕事は成功しているのか、悪の道に堕ちていないか、まともな生活は送れているのかとどこか心配する心もあった。
会いたかった、会いたかったよ……っ。温かい思浩の腕の中で、俺は溢れ出しそうになる嗚咽を必死に堪えていた。酔いつぶれた俺を善意で泊めた同僚が弟と間違えられて抱きつかれたことなど俺の知る由もない。
(完)
視点が逆の続編をこの後も含めて書きます。感想・評価、批評コメントお願いします。