悪魔との3つの取り引きと失われたドーナッツの話
週末。
天気の良い日だった。
散歩をしていた僕は、通りすがりの悪魔と偶然出会い、部屋に呼んで取り引きを持ちかけるのだった。
***
「我との取引を望むとはな。欲深き人間よ……クックック……」
悪魔は嬉しそうに笑っていた。
「このひと、何でも望みがかなえられるんだって」とリンちゃんに紹介する。
すると、リンちゃんは、「えー、何でも!?」と目を輝かせるのだった。
「何でもとは言うが、代償はいただくがな」
悪魔は慌てて付け加えるのだった。
***
悪魔はテーブルにつくと、コッペパンを取り出し、ソーセージを挟み、ケチャップをかけた。
それにかぶりつき、僕たちに向けてニヤリと笑ってみせた。
「このソーセージはな、人間の腸でできている」
「えー!」
「そしてこの赤い液体は、人間の血だ。実に悪魔的だろう……ワッハッハ」
僕は首をかしげて、普通のホットドッグに見えるけどな、と思うのだった。
***
議論の末、取引するものが決まった。
悪魔は「それでいいのか? 本当にいいのか?」と13回確認をした。
「いいです。僕たちが欲しいのは、無限ドーナッツ自動販売機です」
「ドーナッツは……普通に買えばいいだろ……」
悪魔は言った。
「いや、でも、買いに行くよりも近いですよ? この部屋に自動販売機があったほうが」
「それはそうだが……」
「それに、ドーナッツが無限に出てくるもんね!」
「そう! 無限、いいよね!」
僕とリンちゃんはうなずきあう。
「それはそうだが……ほとんどただの自動販売機だからな、それ。ドーナッツの自動販売機は珍しいにしても、そんな願い……まあいいか」
戸惑い顔の悪魔がリビングの一角を指さすと、ドンという音とともに、自動販売機が出現したのだった。
「一応願いはかなえたからな。代償はいただくぞ」
「あっ、代償があったんだった」
「そうだったねー!」
「悪魔との取引で代償を忘れるのは致命的だぞ。今回はしょぼい取引だったから代償もそれほどではないが、気をつけるといいぞ」
親切な悪魔だった。
「それで、代償は何ですか?」
「自動販売機の代償……とはいえ悪魔との取り引きだからな。お前たちの記憶をいただくことにする」
「記憶」
「ああ、お前たちはドーナッツの作り方をきれいさっぱり忘れる。もう自分でドーナッツを作ることができなくなるのだ。ワッハッハ」
「ドーナッツの作り方……」
視線でリンちゃんに問いかけると、ギュッと目をつぶってしばらく考えて、「えっ、全然何も浮かばない!」とビックリした顔をするのだった。
僕も何も浮かばなかった。
悪魔は「ヒャッハッハ」と笑いながら「サラバだ!」と部屋を出ていくのだった。
***
「ところで、リンちゃんはドーナッツの作り方、知ってたの?」
「うんん。知らない。しまうまおじさんは?」
「僕も知らない。作ったことないからね」
僕たちはドーナッツの作り方をもともと知らなかったのだ。
代償があってもなくても同じこと。
こんな代償でいいのかな? と思ったが、悪魔は満足そうだったし、いいのだろう。
「ドーナッツの作り方を知ってるのなんて、ミスタードーナッツで働いてたひとくらいだよね!」
「本当にそうかな?」と僕はじっくり考えて、「うん、そうだね。ほかのひとはドーナッツの作り方なんて、知るわけがないよね」とうなずいた。
「自分で作らなくても、自動販売機から出てくるし」
「たしかに」
あの悪魔、アホなのかもしれないな、と思うのだった。
***
「じゃあ、わたし、これにする! フレンチクルーラー!」
「あー、それ僕もいこうと思ってたのに。じゃあ、どれにしようかな……。チョコチップがいっぱいかかってるやつにしようかな……」
と選んで、さっそく食べ始める。
無限ドーナッツ自動販売機は、ボタンを押せばすぐにドーナッツが出てくる。
思った以上に便利な機械だった。
だが、考えが甘かったことに気づいたのはすぐだった。
二個目のドーナッツ。
半分ほど食べたところで、僕の手は止まった。
もうお腹がいっぱいだった。
半分のドーナッツを手に持ち、動かなくなった僕を見て、リンちゃんが言う。
「どうしたの?」
「うーん、お腹がいっぱいになっちゃった……。リンちゃんはどう?」
「わたしはもう一個食べられるよ!」
「すごいね……」
なんとか残りのドーナッツを口に押し込み、リンちゃんも三個目のドーナッツを食べ終わる。
そして、僕たちは動けなくなるのだった。
***
「ふう……」
ため息しか出てこない。
お腹がいっぱいで動きたくない。
もう食べられない。
「ドーナッツ……無限に出てくるのに……もう食べられないなんて……」
バン! とリンちゃんがテーブルを叩いた。
そして、
「こんなのおかしいよ!」
と言うのだった。
***
「さっき取引をしたばかりなのに、さっそく我を呼び出すとはな……。欲深き人間よ……」
「はい。まだ遠くに行ってなくて良かったです」
「また取引がしたいのか? クックック……」
「取引というか……」
僕は事情を説明した。
自動販売機から無限にドーナッツが出てくるのに、お腹がいっぱいで食べられないと。
「うむ、ドーナッツは意外と腹にたまるからな」
「で、思うんですけど、無限にドーナッツが出てくるのに、無限に食べられないのって、おかしくないかなって思うんですよ」
「……? どういうことだ?」
「無限に食べられないのに、無限にドーナッツが出てきたって、意味がないじゃないですか。食べられないんだから。無限自動販売機と、無限に食べられるお腹はセットじゃないといけないんじゃないかなって。これはそっちのミスじゃないかなって思うんです」
悪魔は唖然とした顔になった。
「それは無茶苦茶だろう。どれくらいドーナッツを食べられるかは、そっちサイドの努力次第だろう」
「うーん、そうですかね。僕はそう思わないんですけどね」
結局僕と悪魔との話し合いは平行線に終わるのだった。
「どれだけ言ってもダメだからな! 悪魔はアフターサービスはしない。無限ドーナッツ自動販売機を望んだのはお前たちだからな。我はどちらかというと止めたからな」
「もう……わかりました。じゃあそういうことでもいいですよ」
「そういうことでもいい……?」
「とにかく、僕たちにいま必要なのは、無限に食べられるお腹なんです」
「うむ、そうだな」
「なので取引して、無限にドーナッツを食べられるようにしてください」
「まあ……それはいいが……そんなことのために取り引きするのか?」
その後も13回確認され、渋々悪魔は取り引きを受け入れるのだった。
「それじゃあ、そら! これでお前たちはドーナッツを無限に食べられるようになった。ドーナッツだけだからな。普通のご飯では普通にお腹がいっぱいになるからな。先に言ったからな。あとから聞いてないとごねるのはナシだぞ」
「はい。ずいぶんと手間取りましたが、ありがとうございます」
「いちいち引っかかるやつだな……」
「じゃあ、ドーナッツ食べよう! わたしフレンチクルーラー!」
「うん。僕はシロップがかかってるやつにしようかな」
「待て、まずは代償を支払ってもらおう」
「あっ、そうだった。代償だった」
「そうだったねー!」
「お前たち……そういうところだぞ……」
***
こうして僕たちは無限にドーナッツを食べるのだった。
***
「なんか……」
リンちゃんがモグモグと口を動かしながら言った。
「おいしいんだけど、物足りないよね……」
「わかる」
と僕はうなずいた。
「おいしいんだけど、このまま無限に食べても何になるのかなっていうか……なんだろ……何かが足りない」
僕たちはドーナッツを食べながら悩むのだった。
***
「ねえねえレンちゃん、聞いて」
「ん? どうしたの? リンちゃん」
「あのね、えっと……ほら、忙しい?」
「うん。これから塾があるから」
「そう。そうだよね。あのね、あの……穴のあるやつが……」
「うん? 何の話?」
「そのね、なんて言えばいいんだろう……うーん……」
「説明が難しいの? そしたら、帰ってから聞くからね。もう塾の時間だから」
「うん……そうだね……いってらっしゃい!」
***
「長田さん、こんにちは!」
「あっ、しまうまさん、こんにちは。どうかしたんですか?」
「あのですね、えっと……あれなんですよね……」
「あれ?」
「その……穴のやつが……」
「はい?」
「あの……長田さんの今日の予定は、教会ですか?」
「そうそう、そうなんですよ。これから行くところでした。もしかして、しまうまさんも行きたいですか?」
「いや、違うんですよ。えっと、でも、そうなんですよね……」
「はい?」
「あのー、それじゃあ、また今度行きましょう。誘ってください」
「そうですね。あ、ちょっと待ってください。しまうまさん、最近心霊スポットとか行きました?」
「いや、行ってないですよ?」
「そうですか。微かに邪悪な気配がしたので。念のためにこれ、持っていってください。聖水です」
「ありがとうございます。いただきますね。それじゃあ、さようなら」
「はい、さようなら」
***
ふたりだけでドーナッツを無限に食べていても、味気ない。
そこで僕たちは知り合いを集めて、ドーナッツパーティーをしようと考えたのだった。
「いい考えだと思ったのになあ」
悪魔との取り引きの代償は、ドーナッツについて、ひとに話せなくなるというもの。
僕とリンちゃんのあいだの会話には、あてはまらないらしい。
話せなくなったとしても、ドーナッツパーティーに誘うことくらいはなんとかなるだろうと考えた僕らは、結局何も伝えられずに帰ってきたのだった。
「うまくいかなかったねー! ドーナッツパーティー!」
「うん。全然伝えられない。聖水もらってきただけだった」
ため息をつきながらドーナッツをかじる。
するとどういうわけか、あれだけおいしかったドーナッツがおいしくない気がしてくるのだった。
「なんか、モシャモシャしてるだけな気がするね……」
「僕もそう思う……。ドーナッツがおいしくないわけがないんだけど……」
モシャモシャと2ダースほどのドーナッツを食べて、僕らはため息をつくのだった。
***
「つくづくお前たちは欲深いな……クックック」
「はい。あなたも暇なんですね。すぐ来るし」
「暇ではないわ! それより、今度は何の願いだ?」
みんなを集めてドーナッツパーティーを開きたい。
一度思いついてしまえば、どうしても、この欲求をとめることはできなかった。
なのにドーナッツについて伝えることができない。
これは悪魔のワナなのではないか、とも思った。
よりによって、この状況で、ドーナッツについて何も伝えられないなんて、できすぎている。
しかし、あの悪魔はアホだから関係ない、とも思える。
ドーナッツについての取引だから、代償もドーナッツについてのものを。
それくらいの考えで決めたのかもしれない。
リンちゃんと話し合って、「やっぱりあの悪魔、アホだよね」という結論に達した僕たちは、三度目の取引を要求することにしたのだった。
「ドーナッツパーティーを開きたい……? お前たちは取引を有効活用しようという気持ちはないのか……?」
「いや、これがいま一番やりたいことですし、悪魔と取引しないとかなえられないことですし」
「ドーナッツにこだわらなければできるだろう……」
「いやでも、ドーナッツでやりたいですし。ドーナッツなら無限に食べられますし。みんなにもドーナッツを食べてほしいですし」
「しかしな……」
こうして13回確認されて、悪魔は渋々と様子でうなずくのだった。
***
「このドーナッツおいしいね! えっ、リンちゃんそんなに食べて大丈夫?」
「大丈夫! まだまだ食べられるよ!」
「じゃあ、わたしももうちょっと食べようかな」
「うん、もっと食べよ! えへへ」
ドーナッツを手に、リンちゃんとレンちゃんがしゃべっていた。
ふたりの前には山盛りになったドーナッツ。
僕はドーナッツの乗った小皿を長田さんに差し出した。
「長田さん、フレンチクルーラーって知ってます?」
「いや、知ってますよ。それくらい。ポンデリングもクリスピー・クリームも、オールドファッションも知ってます」
「本当に? これ、すごくおいしんですよ」
「知ってますけど、しまうまさんがそんなにおすすめするなら食べますけど……」
長田さんがドーナッツを口に運び、「あっ、おいしい」とつぶやく。
「でしょう! これもおいしいんです。あと、これとこれとこれも!」
「ちょっと待って! しまうまさん、食べるペースが速すぎます。それにさっきから信じられない量を食べてますよ?」
「大丈夫、僕は無限に食べられるんです」
「無限に……?」
長田さんは首をかしげながら、「とにかく、ちょっと待ってください」とドーナッツをほおばるのだった。
やはり、みんなでドーナッツを食べるのは楽しい。
取引をしてよかったなあと思うのだった。
「ところで、あそこのひと。ドーナッツを2個同時に食べているひと」
と長田さんが指さす。
「すごく邪悪な気配がしますよ? 聖水かけてきてもいいですか?」
「いや、あのひとはそういうひとなんです。聖水をかけると死んじゃうかもしれないから、やめてあげてください。それより、こっちのドーナッツを食べましょう」
「そうですか?」
こうして、僕たちはドーナッツパーティーを楽しむのだった。
***
「わかった。だが、ドーナッツパーティーの代償は大きいぞ?」
「そうなんですか?」
「ああ。大勢の人間が関わる取引だからな。代償は時間と記憶とすべてだ」
「時間と記憶とすべて?」
「ドーナッツパーティーが終わったとき、お前たちが我と出会ってから手に入れたもの、すべてを失う。無限ドーナッツ自動販売機も、無限にドーナッツを食べられるお腹も、ドーナッツを食べた記憶も、すべてだ」
「ドーナッツの作り方と、ひとに話すことができなくなるのはどうなりますか?」
「それは元通りになる。すべてなかったことになって、我と取引をする前の時間に戻ってしまうのだ。ワッハッハ」
「なら、それでお願いします」
「いいのか? ドーナッツパーティーにしては大きな代償だぞ。すべて失うのだ。失ったことすら忘れてしまうのだぞ?」
「うーん、でも、まあいいかなって。ふたりでずっとドーナッツを食べてたって仕方ないですし」
「クックック……悪魔との取引を甘く見ているな……。だが、わかった。望みどおりにしてやろう」
***
僕とリンちゃんは無言で顔を見合わせた。
何が起きたというわけでもない。
だが、何かがたしかに失われてしまった。
「ない」というのがわかる。
たとえるなら、ドーナッツの穴のような。
「何かがそこにない」というのがたしかにわかる、そんな気分だった。
「なんだかわかんないけど……なんか……ねえ……」
「うん……わかるよ」
僕らはため息をついた。
失いたくないものを失ってしまった。
そんな気持ちだ。
たとえるなら、楽しみにしていたドーナッツを食べ終えてしまったときのような。
もうドーナッツはない、というときのような。
「何があったんだろう……何も思い出せない……」
もとから覚えていないことなら、気にならない。
たとえばドーナッツの作り方だ。
もともと知らないから、思い浮かばなくても、どうということはない。
だが、僕らは何かを忘れてしまった。
楽しくて、大切な何かを。
それが何かすら思い出せなくて、心にポッカリと、ドーナッツの穴が空いたような気分だった。
「うーん……思い出せないね……」
「……うん、僕も。ちょっと無理みたい……」
僕らは呆然としていた。
「でも、このまま考えてても、仕方ないよね」
「うん……」
「何かおやつ買ってこようか」
リンちゃんはしばらく考えて、ハッとつぶやいた。
「ドーナッツ……食べたい」
「ドーナッツ?」
なんだかすごくいいアイデアのように思えた。
「いいね! ドーナッツ買ってこよう!」
「うん! ドーナッツいっぱい買おうね!」
「いっぱい買うと食べきれないから、僕は2個、リンちゃんは3個ね」
「うん!」
***
ドーナッツを買ってきて、ふたりで食べていると、ほんの少し、何かが満たされたような気分になるのだった。