第65話 聖女様は遠くから心配をします
下町での王太子襲撃事件から一か月が経った。
あの事件自体はココの主張通り無かったことにされていて、関係者にも表沙汰にならないように箝口令が敷かれている。
そもそも起きた出来事の全容を知っている者がほとんどおらず、あの日立ち会った関係者でも全体を把握している者はセシルとココ、ウォーレス、ナバロ(と不本意なジャッカル)ぐらいだ。
大勢が目撃した追いかけっこにしても、セシルたちも刺客たちも住民から見ればどちらもよそ者だ。街の誰かが消えたわけでもなく、走っていたのがどこの誰かなど知る由もない。“部外者による派手な逃走劇があった”ぐらいの噂が、あくまで下町の中で囁かれているだけだ。
表面的には街はいつも通りだし、元より闇の者が闇に消えたところで庶民には何の関係もないことだった。
「ふーむ」
ココは大聖堂の尖塔から遠くを眺めた。ゴートランド大聖堂自体が丘の上にある為、その最上部からの眺望は王都でも随一だ。眼下に広がる甍の波は壮観の一語に尽きる。
とはいえココが今見ているのは、王都が誇る大陸有数の街並みではない。
彼女の視線の先にあるのは赤茶色に統一された屋根々々の向こうに立つ、大聖堂に匹敵する壮麗な建築……ビネージュ王宮だった。
王都自体が城砦都市であるが、王宮は域内にある丘をそのまま土台に使った一つの城になっている。元々魔王の復活に備えて整備された計画都市なので、籠城に備えて他国の都よりも防衛線は何重にも考えられていた。外郭の城壁を次々破られた場合に最後に立て籠もる想定なのが、王宮と大聖堂になる。
セシルの部屋は王宮の大聖堂が見える側にあるとの話だが……こちらから眺めても窓が多すぎて、どこがセシルの部屋なのか……顔でも出してくれないと、さすがのココでも見たってわからなかった。
「聖女様」
「ウォーレスか」
不意に教皇秘書に声をかけられたが、階段を上ってくる気配を察知していたココは驚かなかった。
「珍しいですね、こんな所へ」
「まあな。よく私がいると気がついたな」
大聖堂は鐘楼が別にあるので、ほぼ飾りの尖塔に用事がある者なんかほとんどいない。
「ここで教皇聖下が時々考え事をしていることがあるので、注意して見るようにしています」
「あのジジイに人並みに悩む知能がついているのか」
教皇聖下はゴートランド教で実質一番エライ人。
「一応」
秘書の答えも酷い。
「それで、どうされました?」
「うむ。セシルは本当に元気にやっているかと思ってな」
「確かにあんなことがあったのでご訪問はありませんが、殿下よりのお手紙は来ていますよ」
ウォーレスの返事に、ココは王宮を見たまま頭を横に振った。
「手紙なんか、誰にでも出せる」
王族のような高位の身分の人間が公文書を出すとき、だいたいは祐筆が代筆するから自筆はサインくらいだ。そしてそれだけなら偽造も難しくはない。
「それはそうですね」
ウォーレスもそれ以上は逆らわずに頷いた。ココが思いつく程度のことを、教皇庁の裏側を仕切るウォーレスがわかっていない筈は無い。
「それで? 実際のところはどうなんだ」
おまえなら事実か確認をしているだろう? という含みのあるココの言葉に、教皇秘書は苦笑する。
「一週間前の段階では大丈夫でした。情勢は小康状態を保っているようで、殿下は元気に職務をこなしておられます。ただし警戒して、自分のテリトリー以外には出ておられないようで」
セシルの権力が及ぶ範囲。居室や執務室、文官の役所などだろう。逆に現在ココたちが暗殺教唆の容疑者と見ているラグロス公爵が隠然たる力を持っている部署は、騎士団とか衛兵詰所とか宮廷の社交場とか……。
数え上げてみて、さすがのココも憮然とした顔になる。
「おまえこれ、セシルのテリトリーなんて無いに等しいじゃないか。一般家庭で言ったら暖炉の前を叔父貴が占拠していて、家主のバカ息子は寝室から出てこれないようなものだぞ」
「もうちょっと情勢はいいですよ……殿下の動ける範囲に台所も入れていいと思います」
「人目を忍んで寝室と台所を往復する毎日って、いったいどこの引きこもりだよ」
王宮を見るのを止めたココが振り返った。自分の足元を指し示す。
「それで、うちには探りは入ってきているのか?」
「思ったよりは少ないですけどね」
セシルの危機に、当日の護衛が王宮の本隊へ緊急を知らせる。
これは当然予想していただろうけど、現場にはさらになぜか大聖堂の警備兵が駆け付けた。ココが一緒にいたことを知らない公爵側は、なぜなのかを当然気にするだろう。
「翌々日ぐらいから参拝客や地方の神官を装って、時々大聖堂をうろちょろしています。動くのが遅いうえに偽装がへったくそですねえ……公爵が押さえているのは諜報部でも実行部隊だと殿下が仰っていましたが、本当かもしれません」
同じ諜報部に所属していても、情報収集にあたる要員と破壊工作に従事する要員では技能もやり方もまるで異なる。教団側に簡単に見抜かれるようでは、公爵は完全には諜報部を支配していないと見える。
「そいつらは排除できてるのか?」
「いいえ。一応監視はしていますが、ご自由に観光してお帰りいただいております。門外漢が見て回ったところで、特に実害はございませんので」
ウォーレスが大げさに肩をすくめ、公爵配下の素人仕事を嘲笑った。
「そもそも先日の一件、我々は聖女様から呼ばれるまで完全に無関係でしたからね。何の計画もしていないから、関与していた証拠なんて書類一枚ありません。捕虜を大聖堂に匿うような間抜けな真似は致しませんので、教皇庁を調べたって何も出てくるはずがないのです」
「うむ」
ココは説明に納得して頷いた。
今のところ、教団に火の粉が飛んでくることはなさそうだ。
形勢の悪いセシルを助けてやりたい気持ちはあるが、それはココ個人の意見であって教団を巻き込んでいいものではない。
もちろん、教皇やウォーレスが乗り気なら話は別だ。予期せぬ形で巻き込まれるのと準備万端で殴り返すのは話が違う。
「ウォーレス。実際のところ、教団としてはどうする? セシルに頼まれたら手を貸す気はあるのか?」
「そうですねえ……」
教皇庁たっての切れ者は司祭の円筒帽を取って髪を撫で上げた。
「本来でしたら、ご遠慮したいところですねえ。王国が大陸有数の大国という事情もありますが……ゴートランド教団の二枚看板は『女神からのお声掛かり』と『世俗権力を尊重する』です。我々が内政に介入したとなると、ゴートランド教圏の国々が動揺しますから」
“乗っ取り”を疑われては、これから先の活動が警戒されてやりにくくなる。
ただ、とウォーレスは帽子をかぶりなおしながら続けた。
「このままラグロス公爵の陰謀を傍観するのも、それはそれで良くないですね」
国王と兄弟での王位争いならともかく。
未成年の甥を力のないうちに亡き者にしようとするような小心な野心家では、この先の国家運営はどうなるのか。
ましてビネージュ王国は、教団の存在意義にも関わる魔王復活対策の要。権力の私物化しか頭にない人物に任せるのは非常に怖い。
「それに教団の都合を言わせていただければ、我々に友好的で聡明な王太子殿下と、王国権力の優位を過信してゴートランド教を下に見る公爵では比べ物にならないんですよね」
「結局教団の都合が入るのな」
「それはもう」
ひとしきり笑った後、ウォーレスはいつもの緊張感のない顔に心持ちまじめな表情を乗せた。
「ですので聖女様が思うところがあるのでしたら、まずは教皇聖下と私めに先にご相談下さい」
一回黙ったウォーレスがもう一回口を開く。
「先に! 事前に! 前もって! ご相談下さい」
大事なことなので四度言いました。
「うむ。わかった」
しつこく言い聞かされ、ココも真面目な顔で頷いた。
「善処する」
ココもいつだってココである。
ココは手すりに肘をついて、もう一度王宮を眺めた。
「とりあえず、セシルの意向を確認したいな。このあたりの話、手紙じゃ怖くて送れないし……何か、直に接触する方法は無いものかな」
「そうですねえ」
ウォーレスも横に来て同じところを眺める。
「いつもみたいに定期的に訪問してくれていれば簡単だったんですが……そうか」
教皇秘書が手を叩き合わせる。
「いい手がありますよ」
「おっ? どうするんだ?」
ココに見つめられ、司祭は会心の笑みを返した。
「普段の逆パターンで行きましょう」
「逆パターン?」
「こちらから、愛情の押し売りをするんです」
詳しい話を聞く前から、嫌な予感しかしないココだった。




