第50話 ココとしてはトラブルは外から眺めていたい
今話から唐突に新展開始まります。
下町の裏路地は生活の場だ。
家が暗く狭いから主婦は家事の一部を外でやったりするし、そもそも私有地の概念があいまいなので狭い道にはやたらと物が置いてある。住んでいるのが貧乏人ばかりだから迂闊に外に置いておけばなんでも盗まれるのに、どうしたわけか住民たちは家の前も収納の一部と考えているようだ。
だから、急いでいる時は足元を確認するのがめんどくさい。
「あーもう、邪魔だなあ!」
転がっている桶を避けながら、ココは思わず悪態をついた。後ろから付いてくる王子様がぼそりと呟く。
「実家の連中にちゃんと片付けるように言っとけよ。走りにくくてかなわない」
「親戚もいないのに近所付き合いしてると思うか!? それにこれだけ散らかっているおかげで」
ココがさり気に突き出しているほうきの柄をひょいっと避けた。続くセシルも当たり前のように最小限の動きで躱す。しかし少し離れて追って来ていた黒ずくめのヤツは、二人の自然な動きが見えていなかったらしく……。
「ぐわっ!?」
見事に足を引っかけて民家の壁に顔面から突っ込んでいった。
「……追っ手が勝手に脱落してくれるんだろ!?」
「メリットとデメリットのどちらが重いかなあ……コレで撒けるか?」
「先頭がコケたぐらいで見失ってくれるような連中なら楽でいいんだけどな……」
ココがチラっと肩越しに後ろを見ると、偽装もかなぐり捨てて全力疾走で追いかけてくる人影が何人か見えた。
「ダメだな。呼吸二つ分間合いが空いたってところか」
「重畳だ。僅かでも余裕ができるのは良いことだ」
「ほんっとーにチョビッとだけどな! ……それにしても」
ココは走りながら、器用にため息をついた。
「出先でセシルに会うなんてなぁ。我ながら、なんてツイてないんだ……」
「そっちかよ」
聖女の中での自分の立ち位置に、王子様もため息をついた。
◆
ゴートランド教の聖女ココとビネージュ王国王太子のセシル王子の関係は、常に微妙な緊張を含んでいた。
世俗権力と宗教権力の若手代表者。
生まれついての王族と根っからの庶民。
信仰対象と崇拝者。
いろいろな意味でこの二人は対極の立場にある。
水と油と言うよりそもそも、両者は昼と夜のように並び立たない存在だと言っていい。それぞれの損得がちょうど正反対に置かれているのだから、本来ならば歩み寄りのしようもない。
そんな平行線にしか見えない聖女と王子の間柄に、歴代の前任者より更にややこしい問題が一つ付きまとっていた。
……セシル王子が聖女ココに、個人的に好意を持っているのだ。
内心思慕しているなんてレベルではなく、堂々と表立って結婚してほしいとまで言っている。公人としての対立軸がプライベートの感情にまで及ばない、珍しい事例になる。
聖女の出身身分と貴族としての下地が無いのを考えれば、本来は王子が希望したって彼女と結婚なんてありえない。一笑に付されて当たり前。
なのだけど……今の現実は当たり前の常識を吹っ飛ばすほど複雑だった。
一つ。
聖女という立場は考えようによっては大国の王女、いや女王に匹敵する。
聖女を擁するゴートランド教団は王国内にありながら半独立し、王国の手が及ばない大陸全土に影響力を持っている。歴代の教団執行部が王国との融和政策をとっているので目立たないものの、その気になれば対抗できる力は十分にある。
出身母体が王家に圧力をかけられるほどに大きいのだ。現聖女が元平民であろうと、彼女の今の立場は王太子と席を並べて遜色がない。
一つ。
聖女が王太子妃に“ふさわしくない”と言う発想が、王国側に従来無かった。
実に四百年近く、歴代の聖女のほとんどがビネージュ王国の上流階級から選ばれていた。それも政治決着とかではなく、女神の神託が王国の姫や令嬢を指名するという文句のつけようもない形で。
いつもなら自国の姫君たちが独占してきた地位なのだから、王子の結婚相手として元々聖女はふさわしかった。当代が特殊なだけで、「聖女だからダメ!」とは口が裂けても言えない。
ビネージュ王国は教団の拠点を抱え、聖女を独占してきたおかげで“女神に愛された国”という立場を誇り、外交利益を甘受してきた。自分で散々“特別な地位”を自慢してきておいて、たまたま一度聖女が庶民から選ばれたぐらいで掌を返せるわけがない。内心はともかく諸外国の手前、元庶民だろうと元貧民だろうと生まれを理由に反対はできない。
そして最後に。
身の上に対する嫌悪感を除けば、困ったことに王太子と(任期明けの)聖女が結婚するというのは政治的には大きく利益になる。
毎回王国の王侯貴族から選ばれていた聖女が今回は無関係な平民だったことで、親戚付き合いしてきた両者の関係が少しギクシャクしていた。
その“よそ者”聖女も王子と結婚すれば“身内”になる。家同士の結婚と考えれば、花嫁の経歴に「ちょっと傷がある」ぐらいで婚姻を止めるなんてもったいない。この縁談が成立すれば、外国から見て王国と教団は再び二人三脚の親密さに……それが判っている教団側も、王子と聖女の「世紀の結婚」をプッシュしてきている。
そういう国単位の理由以外にも。
さらに言えば王国側……というか王太子個人には、ココを嫁にするとかなり“美味しい”理由もある。
他国の姫を母に持つセシル王子は、貴族の派閥抗争では蚊帳の外に置かれている。中立と言えば聞こえがいいが、軽く見られていると言っても過言じゃない。なので国内に支持基盤の無い王子が国王になった時に、どこまで貴族たちに睨みが効くのかを中小貴族どころか富裕市民層にまで不安視されていた。
現国王に子供はセシル一人だけ。なので家督争いは無いのだけど、逆に言えば次代はセシル一択の国王権力は絶対に弱体化する。
今の王国は国王が病がちで、ただでさえ貴族の発言力が強い。
このままの流れで行けばセシル王子がお飾りの国王になって内紛で弱体化するか、嫁の出身派閥に取り込まれて政界のバランスが崩れるかで王国はろくなことにならない。
……そこへ、聖女ココとの結婚が成立すれば。
大貴族どころか一国に匹敵するゴートランド教団を後援者にすれば、無視できる諸侯など存在しない。教団は安定政権を求めるだろうが、他国との関係もあるので王国を乗っ取るわけにもいかない。セシルにしてみれば大貴族の婿になるより、よっぽどマシな未来が来る。
聖女との結婚で、セシル新国王は一気に形勢を逆転できる。
だがそれを各派閥の領袖とて判らないはずがない。かといってセシル個人だけではなく国家としても得するだけに、表立って反対するわけにもいかない。ならばどうするか……。
まだココの聖女退任まで四年あるだけに、今はまだ政争は現実味のある話にはなっていない。なので誰もが暖炉に熾火が燻っているのに気が付いていながら、ただ漫然と時間が過ぎ去るのを見守っていた……。
◆
「という状況で、どっかのバカが最初の一手を打ってきたってワケだ」
「それぐらい判ってるよ! くだらん話で体力を使うな!」
なぜ追われているのかを説明するセシルを遮り、ココは洗濯物を入れたままのたらいを飛び越える。
「だというのにココ、おまえの感想は『俺の顔を見て気分が台無し』? 呑気すぎないか?」
セシルも危なげなく飛び越えた。
「逃走中に説明し始めるおまえほどは呑気じゃないわ! 息継ぎが間に合わなくなってついて来れなくなったら笑ってやる!」
「誠意を見せてやろうと思ったら、コレだ!」
残念ながら二番手の追っ手はちゃんと足元を見ていたらしく、まだ一緒についてくる。
「誠意を見せるって言うんなら、自主外出中の私を巻き込むな!」
「追っ手がついているのはともかく、おまえを見つけたのに無視して通り過ぎるなんて愛情が無さ過ぎると思わないか!?」
「危険に巻き込まない方が愛情があるって普通は思うだろう!? おまえの判断力はどうなってるんだ!?」
「ココを巻き込んだほうが生き延びられる確率が上がる」
「それだよ! おまえの気に食わない所!」
ココがわざと後ろに蹴り飛ばした砥石に当たり、追っ手その二が転倒する音が狭い路地に響いた。