第41話 ナタリアの回想
ゴートランド教団の象徴たる聖女に、お世話係としてナタリアが侍ることになったのは本当にたまたまのことだった。
ナタリアは十四歳を過ぎた頃に、結婚前の花嫁修業としてマルグレード女子修道院へ入ることになった。
本当は宮廷へ行儀見習いに上がるのが、後々コネが出来て良いと言われていたけれど……残念ながら良くも悪くも下級貴族の父には、高位の女官たちに娘を頼めるようなコネが無かった。
当時はちょっと政界がギスギスしていて、大貴族の家に奉公に上がるのも派閥争いに巻き込まれそうで危険。
そういう観点から消去法で、ナタリアの行儀見習いは無難な修道院になった。
……入ってみてから大いに後悔する事になるのだけど。
◆
そんなよくある経緯で修道院で仮出家したナタリアに、“名誉ある仕事”という名の不幸が降りかかったのはやっと中での生活に慣れてきた頃だった。
「……私が聖女様の付き人に、でございますか?」
「そうです」
執務机に肘をついた修道院長が重々しく頷いた。
「聖女様の身の回りのお世話を一手に取り仕切るお付きを、あなたにお願いしたいと思っています。シスター・ナタリア」
「そ、それは名誉なお話ですが……」
いきなりとんでもない辞令を出されたナタリアは、即答しかねて言い淀んだ。
高位聖職者の側付きはただの雑用係ではない。
もちろん主な仕事は寝起きの介助や身支度の手伝い、外出の荷物持ち等なのは間違いない。
だがそれ以外にもやる事は多い。スケジュール管理や伝令役など機密事項にも触れることになるし、貴人との面会が頻繁なので礼儀作法や上流階級の事情に通じている必要もある。
まして教団最上位の聖女のお付きともなれば、これはもう役職級の肩書と言ってもいい。
宮中や大貴族家へ行儀見習いに行く目的の一つがコネづくりであるのを考えると、修道院では望めない筈のそれができるのはオイシイ仕事ではある。しかもただの見習いではなく、最重要人物の秘書・執事に匹敵する立場で。そんな仕事、普通は望んだって得られない。喜んで受けるべきだろう。
ただし。
そつなくこなせるだけの自信があれば、だが。
側付きは当然ながら、幹部を務められるようなベテランの修道女が充てられる仕事になる。
だけどご指名された当のナタリアは。
「あの……私はこちらへお世話になってから、まだ二か月でしかございませんが」
ナタリアが修道院に入って、わずか二か月。
「高貴なお方のお世話をできるほど、所作のあれこれに通じているわけでは……」
ナタリアは貴族としては社交界にデビューもしていない未成年でしかなく、修道女としても教会の慣例どころか聖典の目次の暗記さえ出来てないひよっこだ。
なにしろ修道女になって、まだたった二か月なんだもの……。
あらゆる面で初心者のナタリアが、貴人のお付きをするなんて……ありえない。
しかし。
「それは承知の上です」
修道院長は全てわかった上での事だと言う。
「実は、前任者が辞意を申し出て参りまして」
サラッと言われた言葉を深呼吸二回分のあいだ噛みしめ、意味を理解したナタリアは顔色を変えて上司の顔を見た。
「……今お付きをなさっているシスター・フィリアは確か」
「ええ」
全く無表情のシスター・ベロニカに動揺は見られない。
「三週間で投げ出すなど、修行が足りませんね」
当代の聖女様が“特別である”との噂は、ナタリアも修道院に入る前から聞いていた。
いわく。
『貧民の出である』
『あまりに幼い』
『まるで無教養』
なぜあんなのが、という憤慨までがセットで付いて来る。
ナタリアは自身に無関係の話だし、そんな悪評も聞き流していたが……。
まさかお付きが三週間で逃げ出すほど酷い人物だとは。
そしてその穴埋めに自分!? 冗談もほどほどにして欲しかった。
……だけど目の前の煮ても焼いても食えない修道院長が、冗談など一言も言わない人なのはこの二か月で身に染みていた。
「……それにしても、私より先任の方は何人も……」
言っては何だが、ナタリアはこの修道院で一番新入りの修道女。普通順番が回ってくるのは一番最後では? と思ったが。
「人選は教皇庁とも相談しました」
「はあ」
「その検討の結果、作法や教義に長じた者よりも……」
物音に気が付いた修道院長が目を細めて窓を眺めた。つられてナタリアも外を見る。
窓の外、二人が眺める高い石壁の上を。
追いかける人々の悲鳴や金切り声とともに、黒い法衣を着た銀髪の少女が走り抜けていった。
厨房で盗んだらしいパンをくわえて。
「そういう段階以前の問題ということで……まずは子守りに慣れた人間が良いのではないか。そう結論に達しました」
ナタリアの家は子爵家とはいえ、それほど作法や慣習に堅苦しくない家だ。
そんな事情もあって、母性の強いナタリアは乳母だけに任せず幼い弟妹の面倒をよく見ていた。修道院に入る時、そういう経験があるのを話したのは自分だけど……まさかそれが貧乏くじを引く原因になるとは。
「……院長。私が、あの子の面倒を見るんですか?」
横を見なくても、妖怪ババアが頷いたのが気配で分かった。
「そうです」
返答を簡潔に一言で済ませた院長が、やや時間を置いてもう少し付け加えた。
「あの方のお世話をするのは、あなたにとって何よりの修行となるでしょう」
◆
誰にとっても不本意な形で始まったナタリアの側付き任務。
しかし意外なことにナタリアは、山猿のような聖女様と相性の点で上手い事はまった。
ナタリアだと聖女様が言う事……というか話を聞いてくれるのだ。
皆に驚かれたけど、ナタリアは仕えているうちに今まで上手くいかなかった原因が……なんとなく掴めたような気がした。
聖女とされている少女ココはいかにも下町の住民だったらしく、たしかに粗暴で言葉も行儀も悪い。それらは未だに矯正できないでいるが……ナタリアの見たところ根は素直なところもあって、筋道立てて説明すればそれなりに判ってくれる。
思えば今までの世話係は優秀なベテランが任じられただけあって、融通の利かない教条主義的な人間が多かったのかもしれない。前例に疑いを持たず上意下達を押し付けるばかりで、そこに含まれた意義を教えることをしなかったようだ。
歴代の聖女以上に違う世界から教会へ入って来た少女に、基礎知識などあるはずもない。不思議な習慣を学ばせるのに、なぜそうするのかを先に教えなければ反発されてもおかしくない。そのことにナタリアも後から気が付いた。
そういう点では、幼児の「どうして?」攻勢に晒されてきたナタリアはうってつけの人選だったと言える。
それにナタリアの見たところ、この聖女様は意外と聡い。
教養は無い。それは間違いないけれど、頭の良さと知識の幅は必ずしも比例しない。
何かを見た時。
何かを聞いた時。
聖女様に意見を聞くと、鋭く本質を突いて来る回答が何度も出てくる。少ない情報から事情を推測するのは、年上で家庭教育を受けて来たナタリアに勝る。先例・慣例に囚われるナタリアより、本質が何かを考えるからだろう。
ただ、理詰めで考え過ぎて時々教えを否定するような発想が出てくる。立場的にマズいので、それを柔らかくさせるのにナタリアは苦労した。
それと。
なんでも素直に真に受けてしまうナタリアを、心配してくれているのは判るのだけど。
「ナッツは騙されやすいなあ……私が守ってやらないと」
六歳も年下の聖女様に哀れんだ目で見られると、なんだかモニャモニャしてくる……。こればっかりは何とか矯正したいと、ナタリアは今でも思っている。
◆
そんな出会いから始まって。
「もう、お付きになって六年かあ……」
ナタリアは過ぎ去った日々を省みて、ちょっと感慨にふけった。
長いような、短いような。
期間的には長いけど、いつもバタバタ走り廻らされているのであっという間だった気がする。改めて考えると、ほぼ素人の自分がよく今までクビにもならずに続いているものだと思う。
そんなことを考えていたら、背後から声がかかった。
「なあナッツ。風呂から上がってきたら、ここに置いといた下着が無くなってるんだけど」
「まさかココ様、今日着ていたのをまた着る気でした!?」
聖女様、こういう所は相変わらずだ。
「脱衣所にちゃんと新しいのが……」
回想を振り払い、ナタリアが上司を見たら。
「ひゃああああ!? せめてタオルを巻いて来て下さい!?」
「タオルなら首から下げとるだろう」
「ココ様ももう十四歳なんですからね!? 乙女の恥じらいを持ってください!」
聖女様の(常識)教育、いまだ道半ば。
本当に、お世話係をよく今までクビになっていないものだとナタリアは思った。