第32話 聖女様は箱入り娘に世間というものを教えます
逃げ帰ったテレジアは恐怖と恥辱と痛みで眠れぬ一夜を過ごしたが、身体から痛みが抜けてくるにしたがって持ち前のプライドと怒りが頭をもたげてきた。
「許さない……あいつ、絶対許さない!」
あの聖女、絶対極刑にしなくてはならないわ!
テレジアにここまで無体な暴行を加えた人間が生きていていいはずがない。直ちに、出来うる限り至急で、ヤツを捕らえて明日にでも断頭台に上らせなければ気が済まない!
テレジアはさっそく父侯爵へ手紙を書いた。
聖女がいかに残忍非道で身の程を知らない大罪人であるかを訴え、可及的かつ速やかに王国の秩序を脅かす反逆者として処罰せねばならないことを説いた。
思いのたけをすべて書き出した大作の手紙を出し、テレジアは侯爵が手兵を率いて乗り込んでくるのを待った。
待った。
待った。
二日も待った。
部屋の前をちょうど郵便係が通りかかったので詰め寄った。
「ちょっとあなた!」
「わっ!? ちょちょ、シスター・テレジア? 何か?」
「お父様に手紙を出したのにいまだに返事が来ないんですの! どうなってますの!?」
「そんなことを院内で配達するだけの私に言われても……返事? 出した手紙への?」
「そう言ってるでしょう!」
飲み込みの悪い郵便係にイライラしながらテレジアが叫ぶと、やっと合点がいったらしく若い修道女がほにゃっと笑った。
「なあんだ。そりゃ返事なんか来ないよ」
「………………はっ?」
返事なんか、来ない?
「マルグレード修道院ではね。入ったばかりの修道女が里心がついて修行に身が入らないのを防止するために、入ってから半年は通信禁止だよ。手紙を出したんだったら、家には送られずに修道院長の所で止まってるよ」
◆
廊下をけたたましく走ってくる音がする。
マルグレード女子修道院長のシスター・ベロニカは僅かに眉間に皺を寄せ、注意をしようと席を立ちかけた。
だがその必要もなく、マナーのなっていない愚か者は自ら院長室へと踏み込んできた。
ノックもなしにいきなり扉が開け放たれ、シスター・テレジアが叫びながら入ってくる。
「ちょっと、どういうことですの!?」
ある程度予想していた問題児の問題行動に、修道院長は一つため息をついて向き直った。
「何事ですか。順序だてて説明しなさい」
「だから! どういうこ……」
「順序だてて説明しなさい」
「だから! 私はど」
「順序だてて説明しなさい」
「だ」
「順序だてて説明しなさい」
シスター・ベロニカが四、五回食い気味に繰り返したら、シスター・テレジアはやっと話の経緯を頭から説明した。
「なるほど。聖女様とそういう諍いが」
「諍いなんて軽い話じゃないわ!? あの卑しい女は私を一方的に殴ったのよ! 侯爵家のこの私を!」
わめき散らす新入りに呆れつつシスター・ベロニカは卓上にあった鐘を振り、顔を出した事務方の修道女に指示を出した。
「聖女様に『お聞きしたいことがあるので、この部屋までご足労頂けますか』とお伝えしなさい」
「はい~」
院長の指示を受けた庶務係のシスター・ドロテアが頷いて下がっていくのを、テレジアはこれからの展開に期待しながらワクワクして見送った。
聖女はすぐにやってきた。もう一人、あの時一緒にいた郵便係の修道女も一緒に付いてきている。
「シスター・ベロニカ、何か用事だって聞いたんだけど」
「はい、確認したいことがございまして」
修道院長は無駄を省いて端的に問いかけた。
「シスター・テレジアが聖女様に一方的に殴られたと訴えているのですが、身に覚えはございますか?」
聖女はまるで心当たりがないかのように首をひねった。
「ふむ? 確かに一方的な流れになったが、アレは五分の条件で決闘をしたので一方的に殴ったんじゃないぞ?」
「なっ、しらばっくれるんじゃないですわよ!? 誰が決闘なんて……!」
しれっと正しい喧嘩だと言い逃れる聖女にテレジアが喰ってかかったが……。
「本当ですよ。私が立会人です」
ついてきたシスター・アデリアが口を挟んでくる。
「そんな馬鹿な! 私は決闘なんて承諾してませんわ!」
「またまたー。シスター・テレジア、入ってきた日の晩にココ様に喧嘩売っていたじゃない。ココ様はそれを買ったまでだよ」
「え? 入った晩……?」
テレジアが思い出している間に、そっちの話は勝手に片が付いてしまった。
「なるほど、わかりました。ではこの件は合意の上と言うことで問題ありませんね」
「うむ」
「ちょっ、私は納得してないわよ!」
「では、聖女様はもうお帰り頂いて結構です。淑女が決闘なぞやっていたことについては、また後ほどシスター・アデリアも一緒に改めてお話しさせていただきます」
「うぇっ!?」
「そんなぁ!?」
「ま、待ちなさいよ!?」
テレジアの抗議にもかかわらず、聖女は無罪? 放免されてもう帰されてしまった。
修道院長が憤懣やるかたないテレジアに向き直る。
「さて。あなたが訴えてきた件につきましては、特段の問題は認められませんでした」
「問題がなかったですって!? 今ので話が終わりだなんておかしいでしょ!? 侯爵家令嬢の私が賤民に暴行を受けたのよ!」
「それです」
猛烈な抗議にも表情筋をピクリとも動かさず、シスター・ベロニカは騒ぎ立てるシスター・テレジアを見据えた。
「ここはただ一心に女神様に仕えるマルグレード女子修道院。神の前では我らは一介の修道女でしかなく、元の身分がなんであろうと皆一様にただ一人の求道者として扱われます」
一回言葉を切った修道院長の視線が厳しいものになる。
「然るにあなたは外での身分をいつまでも引きずっておりますね。仮にもこのマルグレードの修道女がそんなことでは困ります」
「だって私はサルボワ侯爵家の……!」
「マルグレード女子修道院は世俗から切り離され、また教団内でも男子不入の場所として認められた場所です。従って、侯爵閣下であろうと教皇猊下であろうと……マルグレードに口を出すことは認められません。つまり」
もう灰色熊が怯えて逃げ出すようなオーラを隠そうともしないシスター・ベロニカ。実力をもってこの狭き女子の園を抑えてきたベテランの怒気は聖女どころではない。
「この修道院では、正しいかどうかは院長たる私の判断に委ねられているのです」
絶対権力者は、プレッシャーに負けて口をつぐんだひよっ子に申し渡した。
「あなたはまだまだ真摯に女神様へ向き合えていないようですね……あなたの心根について、一から見直していきましょうか。そこに座りなさい」
襲い掛かる冷気に、膝が笑ってしまって座りたい気持ちはテレジアもあるのだけど……しかし院長の机の前には何もない。
「あ、あの……座れと言われても、椅子が無……」
「何を言っているのですか。私の前で座れと言われたら」
シスター・ベロニカは机の前を指し示した。
「床に膝を揃えて座るのに決まっているでしょう」
◆
回廊でバッタリ会ったシスター・アデリアとシスター・ドロテアはどちらからともなしに、中庭の反対側にある事務棟の二階を見上げた。
「まだシスター・テレジアのお説教が続いているのかな? もう日暮れだよね」
「お昼からだから~長いわよねえ~」
「あのお嬢ちゃんじゃねぇ」
二人とも、なんとなく憐憫がこもっている。
「あの能天気な身分発言をシスター・ベロニカにもするんだから、大したもんだよね」
「もうちょっと~物を考えて生きてかないとね~」
シスター・ベロニカは(他人には)厳正な人だ。
《聖女に喧嘩を売ったら反撃してきた。侯爵家令嬢様に対して貧民出身の聖女ごときがけしからん!》
そんな理屈が通ると、シスター・テレジアは本気で思ったのだろうか。
「出身身分を言うんならさ。聖女と修道女見習いのどっちが偉いかって話にもなるよね」
「それを教会の中で訊いたら~、そりゃ聖女の方が貴族より上よね~」
宮廷で女官長に喧嘩を売り、
教会で聖女に喧嘩を売り、
審問の場で教団の序列に喧嘩を売ったら……。
「あの娘、一生デビューせずに屋敷の奥で隠されていた方が良かったんじゃないかな」
「そうよね~」
シスター・ナタリアが歩いてきたのでドロテアが手を振る。気づいたナタリアがやってきた。
「あの子、院長の前でもつべこべ言ってね。今面談中」
「ああ……アレやっちゃったのね」
お堅い修道院長は、ごねるのも、不承不承頷くなんて甘い考えも許さない。それ以前にしょうもない言い訳を聞くのに時間を取られるのが凄い嫌いだ。院長、実は気が短いのだ。
「面談……面談かあ」
微に入り細に入り、今度の件だけでなく虚栄心から生活信条まであらゆる考えを根掘り葉掘り問い正されて一々ダメ出しを食らう恐怖の面談。シスター・ベロニカが全部掘り返すまで、時間制限なくいつまでも続く。あの尋問&説教は教皇秘書が恐れるくらいきついのだ。
「あれやられるとね~。心のよりどころを~全否定されるからね~」
「昼からもう何時間? しかも初めてだよね……プライドをバッキバキにへし折られて、踏みにじられるからね……終わった時に精神崩壊してないといいけど」
「あれで折れなかったの、ココ様ぐらいよ」
ココには信念はあってもプライドはない。そしてココの守銭奴ぶりはシスター・ベロニカでも立ち入れない。
「でもまあ、院長のお説教の何がつらいって……」
アデリアが執務室の窓を見ながら呟いた。
「根本の基準が院長の匙加減なんだよね」
一見理念に沿ったきれいごとを言ってるように聞こえるけれど、根っこの部分はシスター・ベロニカの虫の居所。
お小言を言われている最中に『あ、院長いまむしゃくしゃしてるだけだな……』とか理解できるようになると、マルグレードの修道女として一人前と言えよう。
そこから社会の理不尽に慣れ親しみ、少女たちは大人になって行儀見習いを終えるのだ。
そんな話の最中に、その本人が姿を現した。後ろにシスター・テレジアを連れている。
いや……テレジアだったモノを連れている。
「ああ、シスター・ナタリア。ちょうど良かった」
「はい、院長」
答えて頭を下げながらも、三人の視線はついついテレジアを向いてしまう。
「……ごめんなさい、私が悪かったです……すみません、生きててすみません……そうです、私はウジ虫です。社会の寄生虫です……」
虚ろな表情で延々謝罪を垂れ流している新入りに、三人は「やっぱり……」という顔になる。親にも叱られたことがないお嬢様に、あの心を抉る尋問はきつかろう。
「シスター・ナタリア、聞いていますか?」
「あ、はい! 聞いております」
慌てて向き直ったナタリアへ、院長の視線が突き刺さる。
「シスター・テレジアも、今後は心を入れ替えて修行に励むとのことです。聖女様にも迷惑をかけたと謝っていたとお伝えしてください」
「心を入れ替え……」
再び三人の視線がテレジアに集まる。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……私は豚です……生きている価値のないゴキブリです……」
自主的に、とはとても思えない……。
「それでですね、シスター・ナタリア」
「はいっ」
背筋を伸ばしたナタリアに、心なしか気晴らしでもしたみたいにツヤツヤした顔のシスター・ベロニカが自分の執務室を指し示した。
「お願いした件がきちんと履行されていなかった件について、ちょっとお話があります」
「…………はい」
手間をかけさせんなと念を押されていたって、非常識聖女と高慢令嬢に挟まれた凡人に何ができたというのだろうか……出来るわけがない。
不可抗力なのに怒られる。世の中の理不尽さを噛みしめながら、苦労人は院長室へ向けてトボトボと歩き出した。
その哀愁漂う背中を見送るドロテアとアデリア……の方へ、院長がくるっと振り返った。
「そうそう。シスター・アデリア。決闘の件について、シスター・ナタリアの後であなたと聖女様にお話があります。あなたは今から聖女様の所へ行って、逃げないように捕まえておいて下さい」
「…………はい、承知しました」
項垂れてココのもとへ向かうアデリアを見送り……回廊に一人取り残されたドロテアは呟いた。
「明日は~我が身ね~……」




