第21話 聖女様は職業選択の不自由で途方にくれます
書庫から式典の過去資料を預かった司祭が急ぎ足で歩いていると、教皇庁の廊下になぜか靴磨きが座っていた。
「え? なんで?」
靴磨きと言う商売自体は知っているが、こういう日銭を稼ぐ商売はだいたい広場か大通りにいると決まっている。祈りの場である大聖堂、どころかその奥の関係者以外立入禁止の教皇庁で営業できる筈がない。
「おっ! お兄さんちょっとお時間ある? 靴磨いてかない?」
立ち止まった司祭を見つけた靴磨きが、気安く声をかけてきた。バンダナを目深に巻いているので顔は良く見えないけれど、声で若い女なのは判った。教皇庁の職員ではありえない威勢の良い声だ。余計に教皇庁をうろうろしていい人間には思えない。
変な者をみつけてどうしたらいいのか逡巡する司祭に、靴磨きはブラシを手に足載せ台を指し示しながら陽気に声をかけてくる。
「これでも修道院御用達、そこらの昨日今日始めたようなのとは腕が違うよ!」
「は、はあ……」
修道院? どこの? と思いつつも、出入りの商人ぽいので司祭はちょっと安心した。気が緩んだところへ、馴れ馴れしい靴磨きは売り文句をつらつら並べ立ててくる。
「なーに、お時間は取らせないよ! ちょっとの時間でピッカピカ。どうよ?」
「いや、私はこれを急いで運んでいるから……」
「ほんのちょっと寄り道ぐらい、いいじゃない! そうそう、知ってるかい? 最近のダウンタウンじゃ、イケてるニイちゃんたちは黒革よりナチュラルな茶革の方が流行りなんだぜ? おっ、お兄さんのはまさに流行のど真ん中ってカンジ?」
「そ、そうかい? ま、これを買うときは結構悩んだからなぁ」
「そうでしょう、そうでしょう! その辺り、女の子は敏感に見てるからね!」
靴磨きの流れるような営業トークに、最初は固辞していた司祭もだんだん乗せられてくる。この辺り、やはり社会経験の少ない人間は騙されやすい。
「いや、モテようと思ったわけじゃないんだけどぉ、私も人前に出る立場として身だしなみに気を遣うっていうかぁ……」
イイ感じにおだてられて浮かれてきている司祭を、靴磨きもさり気に道具の用意を始めながらヨイショしまくった。
「なんだいお兄さん、せっかくビシッと決めているのにもったいないなぁ! 休日は飲みに出たりしないのかい? センスのいい男は酒場でモテ方が違うよ? そう、お兄さんみたいな!」
「えっ、そう? 私が? イケてる?」
「モチのロン! どうだい? 今度の週末辺りに出かけて来るってんなら、今ちょっとダメ押しでお手入れしてさ……酒場に入った途端に女の子たちの目つきが変わるような仕上げにしていこうぜ?」
「えーと、じゃあ……へへ、ひとつそれで」
「らっしぇい!」
とうとう丸め込まれた司祭が足を出した。さっそく靴磨きがいそいそ仕事へ取り掛かりかけたところで……。
「ココ様!? 見つけましたよ!」
「うわっ、もう見つかった!」
「なんだ!?」
美人な修道女がいきなり血相変えて走って来た。
彼女は動転している司祭を無視して靴磨きを捕まえる。
「目を離した隙に、教皇庁まで出てきちゃって何やってるんですか!」
「くそう、ナッツのくせに気づくの早いな!?」
「探し回ったんですよ!? もう許しません!」
「うわー!?」
わけが判らない司祭を無視して、修道女はなぜか靴磨きを引きずってマルグレード女子修道院へと入っていった……。
間抜けに靴を突き出したまま、一人取り残された司祭は茫然と呟いた。
「……なんなの?」
「あー、やっぱりこれもダメなのか」
「当たり前ですよ!」
「ちゃんと聖女とバレないように変装したぞ」
「バレなければいいってものじゃないです!」
引きずられているココがぶつくさ言うけど。問題ばかり起こされては、ナタリアの立場で放置はできない。
「自主的な労働はとてもじゃないけど安心してやらせておけません! やっぱり普通に修行していて下さい!」
「そんなのやだあ……じゃあ靴磨き以外で何かやるよ」
「他人の迷惑にならないものは何かできるんですか?」
「前提条件が酷いな」
全然信用していない目つきでナタリアに睨まれ、ココはうーん……と考える。
「……んーと、ひよこのオスメス判別とか? 私かなり的中率高いんだぞ?」
「特技としてはすごいですが、それを修道院のどこでやるんですか」
「野菜や肉がどの程度までなら食えるか、臭いで選別するのも得意だ」
「新鮮なものを適宜消費してますから、消費期限のチェックはいりません」
「魚の内臓を抜いて塩干していた時は、ガキのくせに手が早いって褒められた」
「だから、それを修道院のどこでやるんですか……」
◆
自室に引き戻されたココは、分厚い聖典を前に全然やる気のない顔で顎を机についていた。
「あ~あ……またクッソ下らん勉強か」
「何をとんでもない事言ってるんですか……」
「いや、勘違いするなよ?」
引いているナタリアのツッコミに、ココが頭を上げて言葉を取り消した。
「勉強全般が嫌いなわけじゃない。文字とか計算とか動植物とか習うのは好きなんだ」
そして大真面目に宣言する。
「哲学思想とか神の教えとかが、覚える意味が判らない」
「大惨事じゃないですか!?」
「なんで?」
「ココ様は聖女なんですよ!? 聖女が神の教えを否定するなんて……」
「別に否定はしていないぞ。必要だったら読めばいい。だが、なんで人生に迷ってから調べればいい事を特に困ってもいないのに習うんだ?」
「ええ!? ……えーと、それは……」
ココも神官なのだから必須科目だと言い返せばいいんだけど、人の良いナタリアはあれこれ言われるとそんなものかという気になってしまう。そして自身が好きで修道女をやっているわけじゃないので、人に押し付ける強い意志を持ってない。
ココの考えに違和感は感じるんだけど……。
はっきり指摘できないもどかしさで首を捻っているナタリアを背に、頬杖を突いているココがボソッと呟いた。
「だいたい、言ったはずの本人が聞いて爆笑しているような聖典をなんで有難がって読まにゃならないんだ」
「え? ココ様何か言いました?」
「うーんん、こっちの話」
「とにかく! ココ様は聖女なんですから、女神様について見識を深め修行するのが一番のお仕事なんです!」
やっとその理論に行きついたナタリアを、最初から分かっていたココが半目で眺める。
「そうは言っても、つまんないんだよなあ」
「どんなお仕事でも、面白いかつまらないかでやる事ではないです」
「分かっちゃいるが」
ココがため息をついた。
「それにしたって、興味が無いことを延々一日中やっているのも苦痛なんだ。なにか私のやる気を掻き立ててくれる、修道院らしい仕事がないかな」
「修道院らしい、ですか……」
迷惑しかないココのやる気だけど、ショボンとしているのを見ると可哀そうにも思える。
せっかくココがまじめに働きたいと言うのに、ダメ出しばかりでやる気を折るのも違うんじゃないだろうか?
ナタリアも考えてみた。
一つ、発想を変えてみるのはどうだろう……。
「……ココ様。例えばですけど」
◆
数日後。
役付きの修道女が集まって今月の予定を打ち合わせている最中に、修道院長がココの騒ぎをふと思い出した。
「そう言えばシスター・ナタリア。聖女様が“働きたい”とおっしゃっておられたのはどうなりました?」
「あ、あれはですね」
聞かれたナタリアは少し口ごもった。
「結局なんとか妥協してもらいまして、聖典の書き取りをしてもらっています」
「書写ですか。それであの聖女様が納得しましたか?」
「綺麗にレタリングする事とか条件を付けましたら、面白いみたいで熱中して取り組んでおられます」
「そうですか。やれやれ、ご苦労でした」
院長はそれで納得したらしく、議題は次に移った。ナタリアはそっと安堵の息を吐く。
院長が興味を持ってあれこれ細部まで聞きたがったら、顔に出しやすいナタリアはとても全部を隠し通すことなどできない。
そう、ナタリアは面白くもない聖典の筆写に難色を示すココに、彼女がやる気になるような条件を出した。
一つ。書けばいいのではなく、綺麗に清書すること。
一つ。他の課業を圧迫しない空き時間にやること。
一つ。書けたものは元の聖典で一ページ分を、銅貨一枚でナタリアが買い取ること。
……条件が条件なので、全部をシスター・ベロニカに報告するような勇気はナタリアには無い。
今現在、ココは類稀なる集中力で空き時間を全てつぎ込んで内職に没頭している。もう寝食を忘れそうな勢いで……三日ですでに五十ページ以上を仕上げた。
今月中には写本が一冊完成しそうだ。