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白色青春

作者: 河鹿有海

長い人生のほんのひとコマを切り取って表現しました。

 

今後もいくつかの断片を繰り広げたいと思います。


ヒマつぶしに楽しんでいただけたら幸いです。



       白色青春


「お野菜がこんなに重いなんて、すっかり忘れていたわ」


 野菜だけではない。最近は足が遠のいていた肉売り場へも寄った。

 今夜は鍋にしよう。

 数十年前、夫や子供と囲んだ鍋は蓋が閉まらないくらい具材があふれていたものだ。

 夫が亡くなり、子供が独立して独居となってから鍋は小手鍋になり、野菜はパックに入ってカットされたもので充分になった。

 買い物袋に収めると歩くのがやっとなくらい重い。民江は少しためらってからスーパーの前に待機しているタクシーに近づいた。


「近くで悪いのですけど」


 運転手はそんなスーパーからの客に慣れた様子で、軽く返事をすると荷物をみて「大家族ですねえ」と目を細めた。

 大家族分の食材を買うのには理由がある。

 隣の部屋に越してきた三十半ばの男のためだ。

 男は町村といって、頼りない風体をしていた。痩せていて肩まで伸びた髪は艶がなく、いつも寝ぐせがついていた。おまけに肺活量が少ないのか声に張りがなく、蚊の鳴くような声で挨拶をする何とも頼りない風体だ。

 小雪まじりの風の強い日だった。

 民江のベランダに男物の上着があった。突風で飛ばされてきたのだろう。半畳ほどのベランダに申し訳なさそうに丸まっていた。

 一目で隣の町村のものだとわかった。なぜなら、他に上着を持っていないのか、いつもその上着を着ていた。

 民江はため息まじりに上着をサッと畳むと、隣の部屋をノックした。小さな声がして、町村の顔がぬっとドアのすき間から覗いた。


「これ、うちのベランダに飛んできたわよ」


「あ、ああ。ありがとうございます」


 町村は民江の用件に安心したのか、ドアを大きく開いて上着を受け取った。


「――っ」


 民江は息をのんだ。小さなアパートの部屋はドアから部屋が丸見えの構造になっている。視界に入った部屋はがらんとして全く生活の匂いがしなかった。

 一人分のコタツサイズのテーブルに、オーディオのような機械があって万年床の布団が敷いてあるだけで寒々しい。


「ずいぶんさっぱりしたお部屋ですね」


 思わず口走ってしまった。

 町村は目尻にしわを寄せて、細い指で頭をかきながら答えた。


「まあ死なない程度になんとか。洗濯はコインランドリーだし、食事は外食かコンビニだから、こんなんで足りるのですよ」


 そう言った町村は小さな声をたてて笑った。

 恋とは一瞬で落ちるものだ。

 七十半ばにして灰になったはずの恋愛感情が、息を吹き返した。

 若い頃は町村のような男が好きだった。親の反対を押し切って結婚した夫も同じタイプだ。それによくみると笑顔がすごくいい。照れながら笑う目もとにキュンと心臓が動きだした。


「そうだわ。もらった野菜がたくさんあって食べきれないから、手伝ってもらえるかしら。今夜は部屋にいるの?」


「ここが仕事場でもあるからいつでもいますが……でも、悪いから……」


 遠慮をする町村に、いいから、と押し切ってしまった。

 もらった野菜なんて嘘。すぐにスーパーへ行き野菜をたくさん買いこんだ。

 すっかり埃をかぶった土鍋を取り出し、肉と野菜を煮込む。寒い時は鍋。蓋もあるし温め直しもできる。栄養もつくだろう。

 爪に火を点すように切り詰めた生活をしているというのに、我が子よりも若い男にときめいて、手料理を作っている。おまけにタクシーまで使ってしまった。

 全く何をやっているのだか……。後ろめたい気持ちとは裏腹に包丁が軽やかに動く。


「わあ、鍋ですね。うれしいです」


 町村は素直に喜びの声を上げた。民江の表情に安堵の色がうかんだ。


「土鍋はそのうち返してくれればいいわよ」

 

「あ、ありがとうございます」


 うれしそうな町村の顔をみると、民江は遠い昔、夫に手料理を初めて作った日を思い出した。あの時の夫もこんな顔をしていた。

 恋とは時空を簡単に飛び越える。民江の心は少女に戻っていた。

 あれから数日たったが、土鍋は戻ってこない。町村が部屋にいる気配はある。だが生活の時間帯が違うのか、会うことはなかった。

 トントン。

ノックの音。ドアの向こうには空の土鍋を抱えた町村の姿があるに違いない。「来た」と独り言をつぶやき、笑顔をたたえてドアを開けた。

町村ではなく、カチッと制服を着た警察官が二人立っていてキリッとした口調が告げた。


「実は、お宅の隣の部屋に住む町村、という男を逮捕しました。お年寄りを狙った詐欺の犯人グループの主犯格でして。この部屋は連絡用に使っていたようです」

 

「……え?」


 寝耳に水。


「何か被害はありませんでしたか、盗られたものとか」


 警察官の言葉が外国語に聞こえた。理解できない。いや、したくない。

 ピンクに色づいて育った心臓が一瞬止まって、逆回転を始めた。


「いえ、何も……」といいかけて顔をあげる。

 そうですかと、背を向けかけた警官に


「土鍋が……」


 絞り出すような声は木枯らしに消された。


おつきあいしてくださって、ありがとうございました。


よい一日でありますよう。

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