序文
様々な知識や経験、物語が詰まった『本』と言う存在を別の何かに置き換えるとしたら、それは分かり易く例えるならある意味『食欲』であり、『睡眠欲』であり、『性欲』である三大欲求に等しくも全く異なる、他の『何か』では無いのかな? と私は思う。
いや、遠回しに何言ってんだこいつ。等と無粋な指摘をする方々は居ないだろうけど、概ね何を言いたいのか分かる筈だ。
今でこそ当たり前の様に書物を扱う専門店が街路に建ち並び、ふらりと立ち寄った店先で本を手に取り、時には一目惚れの如く人々が衝動買いする時代になったけど、学識豊かな方は御存知の通り彼の文化圏では書物一冊で数百万円も必要としたし、かつての日本でも文庫も書籍も今の倍程の金額だった。
広辞苑なんか大雑把にキリ良くぶった斬ると、一万円も支払わなければならず、近代のちょっと偏屈な難しい御客様が耳にしたら、「はあ? ぼったくりにも程があるんじゃボケェ!」等と罵詈雑言を浴びせる程だと断言しても良い。(実際にこんな御客様ばかりだよ!)
こうして金銭価値と比較すると尚更、現代の懐に優しい金額を有り難く感じると同時に、『安過ぎる』からこそ本の売れ行きが芳しく無いのではないか、と深読みしてしまうのは書店員だからこそとも言える。
然程変わり映えの無い本屋の日常とやらを鑑みるに、紙を媒体とした『本』自体の存在価値はずっと不変で、それこそ貴方や貴女の本棚に収まる『本』が『本』として、如何にして遥か遠い時代から受け継がれて来たのか、きっと知りたいとも知ろうともしない人が大半なのかも知れない。
まあ、私も博学多識と誇れる程知識を持つ訳では無いので簡潔な説明になる点は先に御免なさいしておくが、(「詳細プリーズ!」の方は自分で調べてね。)そうして紆余曲折を経て生まれた本を読まない世代を知る度に「人生損してるね」と勝手ながら嘆きちょっぴりもやっとしてしまう。
けれども幸いと言うべきか、そうした『読書』をする人が減る中で、本をこよなく愛する人は日々お目に掛かる。
それは私の様な人間に限らず、村の、市街地の、ショッピングモール内の、都心部の、『本屋』に一歩足を踏み入れれば、誰でも分かる。
男でも女でも、子供だろうが大人だろうが、何のジャンルの本を読んでいようと、誰であろうとそこで出会った本に向ける眼差しが確かなら、彼等も自分と同じだと実感するだろう。
試しに御目当ての本だけでなく、ちょっと周りに視線を向けると良い。
児童書コーナーなら小さな男の子が絵本の中で暴れる怪獣と同じ様に駄々をこね、その斜め前には女の子が地べたに座り込む程挿絵のお姫様を見詰めてにこにこしているし、奥まった漫画コーナーでは仲睦まじく寄り添ったカップルの内の女性が高い上の棚を指差し、二人の後ろを通り過ぎた学生服の男子達は壁のアニメ化ポスターを眺めて会話が白熱、横の新刊コーナーでは一人おじいさんが眉間に皺を寄せて文庫の背表紙に目を走らせていたり、エッセイ棚ではOLらしき女性が無表情でファッション系の本を立ち読み、逆通路ではスーツ姿の男性が自己啓発本を手に颯爽とレジに向かったり……なーんて何れかの様子で佇む方々に巡り合うかも知れない。
中には書店側から見るとたまったもんじゃないと愚痴りたくなる様な人も居るけど(笑)、そんな同類の御客様を見ていると、彼や彼女にとって『本』はどう言う存在なのかな? と常々考える。
当然ながら個々人によって好き嫌いが存在する様に、その価値観の大小は千差万別だ。漫画だけ、小説だけ、雑誌だけ、エッセイだけ、実用書だけ。と言うと、時折「そんなの読書と呼べるのか?」と批判する人間も居るが、私はこう言いたい。
「文章の意味を読み取り、時には思考して、影響を受けて実行して、物語に没入する程真剣に読んでいるなら、それは読書に決まってるし、そもそも重要な部分はそこじゃない」
勿論、ジャンルに囚われなければ多種多様な作品に出会えるだろうけど、あれこれ小難しい議論は基本的に要らないと思う。
その人にとって本はきっと、甘く透明な飴玉が沢山詰まった『宝箱』であり、一面に散りばめられた夜空で輝く『星』、或いは心の闇を照らし火を灯す『太陽』で(恥ずかしくとも敢えて言う!)、どんな存在として心の中に在るのか、それだけが重要で、それだけで十分なのだ。
……差し迫って最後に主張しておきたい事は、つまりこれから綴られる事は「全国書店員の総意じゃないからね!」である。(著者「反応こわい。がくぶる」)
副書名「のほほん徒然記」→「時々豆知識」に変更しました。である口調で、のほほんとしてるか? と疑問に感じてしまったので……orz
※初見の方は気にせずお読み下さい。