8話
「今日の授業はここまでですわ」
最後の音が琴から紡がれ、淡く部屋に溶け込んだと同時に風見先生から終わりの声がかかった。
酷く疲れているのか、その声からはハリや若々しさなどといったのもは感じられない。
そして彼女のアイデンティティと化しつつある毒舌や小悪魔的仕草も全く見受けられなかった。
そんな彼女を尻目に私は琴から手を離し軽く居住まいを正すと風見先生の方へ体を向けた。
「本日もご指導頂きましてありがとうございました」
そして今まで学んできた礼儀作法に気をつけながら床に手をつき頭を下げた。
そっと顔を上げれば風見先生が一つ頷く。
どうやら、今ので問題はなかったらしい。
心の底から安堵しつつ彼女の美しい顔を見つめる事数秒、風見先生の赤い唇が微かに開いた。
「明日も引き続き琴を弾きますので復習の方、よろしくお願いしますわね」
「はい……」
いつにもまして真剣味を帯びた口調で言われた。
それだけ私の音楽はヤバいのだろう。
下手をすればお父様から合格をもらえないくらいのレベルで……。
いや、下手をすればなんてものじゃない。
むしろ合格する可能性の方が低そうだ。
有無を言わせない笑みで私を一瞥してきた風見先生に再度是の意味を込めて頷いた。
それを確認した彼女は手早く荷物を纏めると帰るべく私の部屋を後にした。
その時に「くれぐれも忘れないで下さいませね」とまで念押しをされたのは言うまでもなく、どこまで信用がないんだと若干泣きたくなるも自業自得なので仕方がないと早々に諦める。
たった一回、復習を忘れただけなんだけどね。
彼女の中ではそれが許せなかったらしい。
全くもって厳しい世の中だよね……。
「さてと……復習の前に癒されに行こうかな…………」
夜も遅いこの時間に会いに行こうだなんて非常識極まりないが兄弟間ならばそれも問題はないであろうと一人納得し部屋を抜け出す。
夜特有の静閑とした時間はいつも通りに歩いても、ギシリ……と嫌な音が鳴る。
極力音を立てないように気をつけながら、私は暗い廊下を淡く照らす月光を頼りに歩いた。
やっと見慣れた大きな扉の前に辿り着き、その中へと身を滑らせる。
その時に感じた重苦しい空気とヒヤッとした冷たい風に内心ドキドキしながらも扉を閉じた。
なんかこう……幽霊とかが出てきそうな……そういう変な雰囲気がここにはある。
そして私はそう言った類のものが少しばかり苦手だ。
だって急に出てくるんだよ?
神出鬼没にもほどがあるよね……!
……元より、今までの人生でその幽霊とやらにはあった事はないんだけど……。
それでも必要以上に身構えてしまうのは周りが真っ暗であるからだろうか?と考え以前より少しだけ大きくなった火で足元を照らす。
ゆっくりと足場の悪い階段を降り、牢の奥へと急ぎ歩く。
何故かいつ来ても寒いはずのそこは前に来た時よりも暖かかった。
この身を包み込むような居心地の良い温もりに首を傾げるもその理由が分からない。
まあ、暖かいに越した事はないんだけどね。
そうしてやっと見えてきた牢の奥。
そこにいるのはもちろんの事、私の癒しである可愛い弟たちだ。
この時間ならば寝ていてもおかしくはないのに起きていた二人は私の姿を確認するなり小さく笑った。
「痛い思いをするかもしれないというのに……また、来て頂けるだなんて……」
「私たちを放置するのではなく約束を守って下さるだなんて……」
「「…………本当に……変な______」」
楽し気に彩られた二人の声が牢内で響く。
距離が少し遠いせいで聞こえなかった部分もあったが、二人の反応からして概ねは歓迎されているようだ。
「こんばんは桜雪、雪桃。まだ、起きてたんだね。もう寝てるかなって思ってたんだけど……早く寝ないと体に悪いよ?」
「えっとまだ起きていた……と言うよりつい先ほど起きたばかりです」
「私もです。それまではちゃんと寝てました。……本当ですよ?」
「そうなの?」
「「はい」」
南京錠に鍵を差し込みながら二人の顔色を窺う。
そこからは寝起き特有の雰囲気を纏っているだけで、疲れた様子など見受けられなかった。
跳ねた寝癖が可愛らしく主張し、小さな手が眠た気に目を擦る。
どうやら、さっきまで寝ていたと言う話は嘘ではないらしい。
ただでさえ休める時間が少ないはずなのに起こしてしまうだなんて……と申し訳なく思いながらも私は手を動かし続けた。
「あれ?」
指先が開錠された南京錠に触れたと同時に感じた違和感に私は首を傾げた。
この間までは痛いくらいに冷えていたそれが、何故か今日は触れても痛みを感じなかった。
それどころか冷たいはずなのに温かさすら感じる。
まさかと思い、二人の顔を見てみればそこには嬉しそうに目を細めている姿があった。
「初めてこちらに来た時からとても寒そうにされていたので練習したのです」
「最近できるようになったばかりなので自信はないのですが……」
「「どうですか?」」
そう言って私の顔を見上げてきた二人の大きな目は期待に輝いている。
それを微笑ましく思いながら私は牢の中に入った。
そして二人の温かい体を抱きしめ頭を撫でると、二人の腕が躊躇いがちに私の背中へと回り、抱きつかれた。
「桜雪も雪桃もすごく頑張ったんだね。いつもよりも暖かいよ」
感じた事をそのまま声に出せば二人は顔を上げふわりと微笑んだ。
「とても嬉しいです。……それに、頭を撫でられるのもです」
「褒められたくて頑張ったのです。ですからもっとして頂けますか……?」
ぎゅう……っと腕の力を強め、もっとと頭を胸に擦り付けてくる二人の背をさする。
すると二人は私の背から腕を外し、両手で私の手を片方ずつ掴むと、それを自らの頭へと誘導した。
まるでここを撫でろと言わんばかりに私の手を動かす。
そんな二人が私に見せてきたのは物欲しそうな表情。
初めて見たその表情に私の心は理由もなく急かされた。
そっと頭を撫でてあげれば満足そうにはにかみ、再度私の背中に腕を回してくる。
小さな子供ならではの体温が心地よい。
「桜雪も雪桃も本当にすごいね。もう大好き!」
「私もです。でも、もっと……もっとお願いします」
「もっとぎゅうって……お願いします」
「うん、桜雪と雪桃が寝るまでしてあげるね。寝た後はまた今度。それでいい?」
私がそう言えば二人は嬉しそうに顔を綻ばせた。
どうして二人はこんなにも可愛いのだろうか?とつい分かりきった事を考えてしまうがこればかりは致し方ないと思う。
だって、そう言わずにはいられない程に可愛いのだ。
特に慣れないながらにも甘えてくる、あの愛らしさと言ったら……もう堪らないよね!
しばらくの間、取り留めのない会話をしながら二人の髪を梳かすように撫でていると、二人はおもむろに顔を上げトロンとした眠た気な目で私を見てきた。
何か言いたい事でもあるのかと二人の顔を交互に見やるも、二人はただ安心したように目を細めただけ。
徐々に落ちてきた瞼が二人の大きな目を隠していく。
数分もしない内に穏やかな寝息を立て始めた二人を私は起こさないように気をつけながらそっと地面へ寝かせた。
そして申し訳程度に置いてある掛け布を二人の体に掛け、最後に寝顔を見つめる。
ああ……もう、本当に可愛い。
薄く開いている桜色の唇や薄紅色に色づく頬がとても可愛くて、いつまでも見ていたい衝動に駆られるが、今は時間がないと己に言い聞かせ私はその場を後にした。
とにかく部屋に戻ったら二人から聞いた方法で一度琴を弾いてみようと思う。
もしかしたら上手く弾けるようになるかもしれないしね。
……それにしても、弟に助言される姉って…………どうなんだろう?
ちょっとどころか、かなり頼りなく感じるのは私の思い込みが激しい……のだろうか?
まあ、何はともあれ癒された事に間違いはないので、あまり気にしない事にする。