7話
私が勉強を始めてから軽く五時間は経過しただろうか?
もちろん、これはあくまで私の感覚であって本当に五時間が経過したのかどうかは定かではない。
何せこの世界には正確で便利なデジタル時計なんぞ存在しないからね!
まあ、不正確で不便な日時計ならあるけど……それは今どうでもいい。
それよりも私はとても疲れたのだ。
朝、風見先生に起こされてからずっと休憩もなしに勉強を続けてるんだよ?
しかも朝ご飯すら食べてない……。
さすがに集中力が切れた私はちょっとした息抜きに正座を崩し、気づかれない程度に背筋を伸ばした。
そして痺れきった足を片手でほぐしながらちらりと隣を見遣る。
そこには目を伏せ真剣に文字を追う風見先生の姿があった。
細く長い白魚のような指がそっとページを捲る。
かさり……と紙の擦れる音が、この静まり返った部屋の中で小さく響いた。
心の底から楽しんでいるのか時に表情を変える彼女は生き生きとしていて可愛らしい。
色っぽいのに可愛いとは……これいかに?とそんなどうでもいい事を思いつつも勉強を再開した私は見た事のない公式を前に手を止めた。
「……先生」
「あら、どうかなさいましたか?」
風見先生がページをめくった瞬間を見計らって声をかけ、分からない箇所を指差し教科書を見せた。
たったそれだけで彼女は察してくれたらしく手早く本に栞を挟むと教科書を覗き込んでくる。
「ああ……確かにここは少し難しいですわよね」
問題を見るなりそう言った風見先生はそっと教科書に指を添えた。
そしてその添えられた指が教科書をなぞり、ゆっくりとした話し方で丁寧に教えてくれた。
時に例を用いて解説をする彼女の話はとても分かりやすい。
しかも想像しやすい例えばかりだったおかげで理解するのに大した時間はかからなかった。
「……と説明はこれで以上ですけれど、ご理解頂けまして?」
ふわりと微笑んで首を傾げた風見先生に私は是の意味を込めて頷いた。
その時にさり気なく自分の髪を耳にかけた彼女は一つ艶めいた笑みを浮かべ、先ほどの本を手に取り開く。
なんでそこで艶然と微笑んだのか気になるんだけど……。
そしてそんな何気ない仕草に翻弄されてしまう私はまだまだ修行が足りないのだろうか?
はあ……と小さくため息を吐いた私は読書を再開した彼女の隣でただひたすら課題を進めていった。
結局、今日一日ご飯の時以外に休憩が取られる事はなかった。
……というような苛烈な日々を過ごしていたら早くも半年が経とうとしていた。
この半年で私の精神は色んな意味で鍛えられ大人になったと思う。
そして最初は優しかった風見先生も日を改める毎に被っていた優しさと言う名の大きな猫が徐々に剥がれ落ちていき、ドSな小悪魔へと変貌を遂げた。
……もともと小悪魔だったのは言うまでもないけど更に磨きがかかったのだ。
最早、凶器以外の何物でもないと思う。
だって突然上目遣いで私の顔を見つめてきたり、小首を傾げて妖艶に微笑んできたりするんだよ?
しかも無駄に可愛いしエロいしで様になっているから何も言えないというね……。
それに元が美人な先生だから尚更。
本当……この仕草にどれだけ私が惑わされてきた事か…………。
慣れるのに一月はかかったからね!
普通、小悪魔的仕草とかは男の人にしか通用しないはずなのに何故か私にも効果はあったようで散々彼女に弄ばれた。
はたして私に免疫力がないせいなのか、それとも風見先生のレベルが高すぎるせいなのか、少し気になるところだが個人的には後者だと思いたい。
まあ、それはさて置き、私が当主候補専用の勉強を始めてから一日も休む事なく続けて約半年、風見先生に出された山のような課題はほぼ片付いた。
後、残すは礼儀作法の確認と音楽のみ。
どうにも私には音楽の才能がないらしく、未だに終わらない。
どんなに頑張っても途中で音が外れてしまうのだ。
部分事に弾けば上手くできるのに最初から最後まで弾こうとすると必ずそうなるんだからちょっと不思議だ。
それに先生曰く私の音楽に関しての才能は地に堕ちているらしく、努力するだけ無駄だとの事。
それを聞いた時、彼女の笑顔がとても怖かったのを今でも覚えている。
もちろん、口調はとても穏やかだったのだが……。
そうこう考えているとまた一つ音を外した。
間抜けな音が部屋に響く。
すぐさま指で弦を押さえてみるものの、いかんせんもう遅い。
ツゥ……っと冷や汗がこめかみに流れる。
そっと風見先生の顔を見てみると彼女はにこりと微笑を浮かべていた。
そしてその厚い唇をゆっくりと開き艶やかな声を紡ぎ出した。
「こんな簡単な所で音を外すなど……やはり柘榴お嬢様の才能は不良品だったのですね。その恩恵として耳障りの悪さだけは一級品ですけれど……」
「え……まさかの不良品ですか…………?」
「ええ……と言うよりそうとしか考えられませんわ。才能など所詮は道具にしかすぎませんのよ?それが扱えないのであれば、それはただの不良品……いえ、欠陥品だと言っても何ら差し支えはありませんもの」
……それ言い直した意味ありますかね?
ていうか不良品も欠陥品も大して意味は変わらないと思います。
もちろん内心で言うだけで声には出さない。
素直に謝ろうと口を開きかけた時、不意に風見先生は口元に手を当て他人の不幸は蜜の味と言わんばかりに目を細めた。
私の経験上、この類の笑みを浮かべた彼女は何をしでかすのか分からない。
時に本気を出した仕草で私を惑わし、時に言葉で私の精神を嬲り、時に物理的攻撃で私を追い詰める。
特に一番怖いのが物理的な攻撃だ。
風見先生が得意とする雷の能力で行われるのだが、これが結構えげつなかったりする。
だってバリバリッ!て黄緑色に強く光りながら大きな音を立てて近づいてくるんだよ?
最早、恐怖しか感じないよね。
その光景を初めて目にした時は恐ろしさで体が固まり、終わったな……と死すらも覚悟した記憶がある。
その後に体に流れてきた雷は想像を絶するほどに痛く気持ち悪かった。
私が鬼ではなく人間だったら多分死んでいたかもしれない。
いや、多分じゃない確実にだ。
それくらい彼女には遠慮というものがない。
「楽器を上手く扱えず、音楽に関しての才能も人並み以下。この状態でご当主様にお会いしたのなら確実に不合格間違いなしですわね?ふふ……不合格をもらって項垂れる柘榴お嬢様…………見ものですわ!」
ほんのりと頬を染めて手を合わせた彼女の今日のお仕置きは言葉と仕草のようだ。
少女のようなあどけなさで無邪気を装ってやってくるんだから性質が悪い。
これで四十六歳だと言うのだから驚きだ。
もうね……立派な詐欺だよね。
初めてこの事実を知った時は開いた口が塞がらなかった。
だって今まで二十代後半だと思っていたのにいきなりの四十代後半。
思わず風見先生の顔を凝視してしまったのは記憶に新しい。
そして今日もその顔を利用して私の反応を楽しんでいる。
未だに魅せるという点で本気を出した彼女の動作に慣れない私はせめてもの抵抗に顔を伏せた。
きっと目元とか赤いんだろうなと自覚しつつ琴に手を添えると、私は頭を切り替えるべく大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。
とりあえず今日の授業が終わったら久しぶりに癒されに行こうと決め、それを糧に私はただひたすら音楽を奏で続けた。