5話
「ほう……お願い、か」
「はい、お願いでございます」
無表情に淡々と告げられ内心冷や汗を掻きつつ私は即答した。
私のいつになく、はっきりとした物言いにもお父様はただ不敵に笑っただけ。
まるで私の事など眼中にないと案にそう言われているかのようだった。
「で、お前はこの俺に何を望む」
「桜雪と雪桃の待遇について今一度考え直して頂きたく……。また、そのためにも別邸を用意して頂きたいのです」
「…………意味が分からんな。何故、あれらの待遇の改善からお前の別邸の話になるんだ」
呆れたとでも言わんばかりに鼻で笑ったお父様は再度筆を持ち興味なさげに私から視線を外した。
そして机上にある紙に筆を走らせる。
「意味が分からないのは百も承知です。ですがそれでも、ここで引き下がるわけにはいかないのです。お願い致しますお父様!私の話を聞いて下さい!」
畳に頭をつける勢いで頼み込む。
「……お前のお願いとやらは随分と幅広いものだ。そう易々と全てが叶うわけではないという事くらい、いくら無能なお前でも分かるだろう。理解できたんなら、さっさと部屋へ戻れ。目障りだ」
だが、返ってきたのは拒否の言葉。
本当に邪魔だと思っているような冷たい声音で言われ、身を疎ませるも目だけはお父様から逸らさなかった。
そしてお父様の節くれだった手がゴミを払うように振られる。
「……嫌です。お願いが多いと仰るのであれば交渉をさせて下さい。まだ何もしていないのに諦めたくはありません!」
さっきよりも大きな声でお父様に訴えかけた。
私の命が懸かっているのにここで諦められるわけがない。
それに早く二人をあの寒い場所から出してあげたいのだ。
怖いからと言って逃げていい状況でない事は嫌でも分かる。
本当はすごく逃げたいけどね。
だってお父様の雰囲気がもうすでに怖いし、私が諦めたくないと言ってからお父様は一度も口を開かないし……。
ただ静かな時間が流れていくだけ。
どれくらいの時間が経っただろうか?
不意にお父様の声が、痛いほどの静寂の中で響いた。
「………………仕方がない。面倒だが話だけは聞いてやろう。だが、その話が交渉に値しなければすぐに出て行ってもらう。それは心得ておけ」
「はい、ありがとうございます」
「……してお前の話とは何だ。手短に済ませろ」
紙から目を離したお父様は筆を置くと腕を組んだ。
そして目で私に話せと促す。
「はい、では早速本題に入らせて頂きます。簡潔に申し上げますと桜雪と雪桃の待遇を改善させるべく別荘を頂きたいのです。もちろん、ただで事が進むとは思っておりません。私にできる事であれば、どのような条件ものむ所存です」
「ほう……どのような条件でも、か」
「…………私にできる事に限りますが……」
保険をかけて同じ言葉を繰り返す。
なるべく声が聞こえ震えないように強く言った。
それでもまだダメなのか、お父様は鼻で笑った。
「笑止な事を言う。そのような稚拙な交渉でこの俺と対等に渡り合えると思っていたとは自惚れも甚だしい」
「っ……ですが!」
「だが、おもしろそうだ。気の弱いお前がそこまで言うのだ。その条件とやらを出してみようか……。それができなければ、あれらの解放も何もできなくなるわけだが……覚悟の上だろう」
そう言ってお父様は一度目を閉じると考え込みはじめた。
あらかた私に出す条件を考えているのだろう。
一応、二回は私にできる事に限ると言っておいたから、そうそう無茶な条件は出てこないだろうけどちょっと不安だ。
なんかこう……変なところで意表を突いてきそうなんだよね。
ていうか痛いところを突かれそう。
はぁ……と心の中で溜息を吐きながら私は意味もなく部屋の中を見回した。
いや、見回したといっても首は動かしてないけどね。
ただ目を動かして、見ただけだ。
まあ、それはさておき、落ち着いて室内を見てみれば上品な机と本棚があった。
そして周囲は綺麗に片付けられている。
しかも机の上までもが綺麗に整頓されていた。
そこからお父様の几帳面さが窺い知れる。
もしかしたら使用人の方かもしれないけどなんとなくお父様な気がした……。
だってこの部屋には色々と機密事項が多そうだし、そんな部屋を他の者に任せるだなんてどうしても思えない。
何せお父様は人一倍用心深いからね!
「で、条件だが……」
一人で納得していると突然低くかすれた声が私の鼓膜を揺らした。
ビクッと肩が跳ねる。
急いでお父様の顔に目線を合わせると金色の瞳が覗いていた。
………………これ……絶対に一部始終見られてた、よね?
そう思いつつも顔には出さずお父様の次の言葉を待った。
「あれらが学ぶ事を全てお前が習得できたならその願いとやらを叶えてやろう。出来損ないのお前には難しいだろうができない事ではないだろう?……まあ、いつになるのかは知らんがな。とりあえず家庭教師は手配してやる」
はなっからお前に期待はしていないと言外に言われたようなものだが、私はそれに気づかないふりをして頭を下げた。
「ありがとうございますお父様」
「ここに来る前に障子を開けっぱなしで来た作法知らずにできるとは思わんが、せいぜい頑張る事だ。……して、話は以上か?ならば去れ。仕事の邪魔だ」
そう言うなり筆を手に取ったお父様。
本当に忙しいのか紙上を滑る筆の動きが異様に早い。
「失礼致しました」
聞こえるか聞こえないかの声量で退室の挨拶をすると私は殊更丁寧に障子を開けた。
そして音を立てないようにして閉めると来た道を引き返した。
「はあ……にしてもまさか勉強が条件だとは思わなかった…………」
一人、薄暗い廊下でぼそりと無意識に呟く。
お父様から出された条件は二人が学ぶ全ての事を習得する事。
つまり計算問題等の一般学問から礼儀作法、音楽、能力の扱い方等を習得せねばならないのだ。
しかも二人は次期当主候補である。
必要な勉強量や知識量は私の想像をはるかに超えるだろう。
一応前世の記憶らしきものがあるからなんとかなりそうだけど……果たしてそれが役に立つのかどうか分からない。
それに前世の記憶と言っても前の自分の名前すら覚えていない薄っすらとしたものだ。
ただ鮮明に覚えているのは一般常識とこの世界の事だけ。
……うん、なんか不安になってきた。
にしても……あのお父様の最後の言葉。
“ここに来る前に障子を開けっぱなしで来た作法知らずにできるとは思わんが、せいぜい頑張る事だ”
なんで障子を開けっぱなしにして来た事を知っているのか気になるんだけど……。
まさか常に監視されているのだろうか?
だとしたら今までの独り言とか全部聞かれてたって事になるんだけど……そこは深く考えないでおいた方が良さそうだ。
じゃないと色々と恥ずかしすぎて死にたくなるからね。
それに箪笥の角に足の小指をぶつけて悶絶してた所とか、ありもしない能力の技名を考えて自室で叫んでいた所とか黒歴史以外の何物でもない。
それを誰かに見られていたかもしれないなんて……しかもお父様の耳に入ってるかもしれないなんて絶対に考えたくない。
やっぱりこれは深く考えちゃダメなこと間違いなしだよね。
いや、私の恥ずかしい話はこの際どうでもいい。
それよりも、気にすべきなのはこれから先の未来についてだ。
もし監視されているのだとしたら今日から気をつけて生活しないといけなくなる。
これは憶測でしかないけど、多分私の礼儀作法なんかも報告されるはずだ。
普段日頃からの立ち振る舞いも条件に含まれるだろうからね。
はあ……全くもって鬼畜すぎる。
どこにいても休まる場所がないとかストレス過多で倒れる予感しかしない。
実際は倒れないと思うけど……。
とにかく、少しでも早く条件を満たす事を目標に当面は頑張っていこうと思う。
もちろん、空いてる時間に二人に会いに行く事も忘れない。
そして私の名前をあの可愛い声で呼んでもらうのだ。
そのためにも先ずは私に慣れてもらわないとだよね。
……ていうか今、気付いたんだけど私の勉強っていつから始まるんだろう?
開いたままの障子を前に私は一人、首を傾げた。
……とりあえずなんか疲れたからちょっとお昼寝でもして休む事にしようかな。
部屋に入り着物の帯を解きながら、そう決めると私はいそいそと布団を敷いた。
そして畳の上に赤い着物を脱ぎ捨てると私は肌襦袢のまま布団に潜り込む。
起きたら部屋の片付けでもしようと心に決め私は襲い来る眠気に抗う事なく目を閉じた。