10話
「こ、こちらに凍夜さんはいらっしゃいますでしょうか!!」
バンッと乱暴な手つきで籠屋の戸口を開けた私は半ば叫ぶようにして尋ねた。
乱れに乱れた息を無理やり押さえつけながら目の前に座っている鬼を見つめる。
けれどもどことなく凍夜さんに似た彼はポカン……と口を開いたまま微動だにせずただ無言を貫くのみ。
そして何を思ったのか軽く頭を振ると奥へ引っ込んでしまった。
「え……?ちょっと待って……!!」
慌てて引き止めの声を上げ、手を伸ばしてももう遅い。
足早に私の前からいなくなった彼の塩辛い対応に泣きそうになりながら最後にもう一度だけ凍夜の名前を呼んだ。
シンと静まり返った室内に取り残され、ポタポタ……と涙がひとりでに溢れてくる。
どうにかして早く二人を助けたいのに何もできない自分が恨めしく、それでいて悔しい。
ぎゅっときつく手を握り、この行き場のない感情をどうにかやり過ごそうと堪えてもどうにもならなくて……。
無力である事にもどかしさを感じ唇を強く噛みしめると鉄の味が口内に広がった。
「あー……誰だ俺を指名してくれたっつぅ美人はって、おい!何やってんだ!?」
どこか焦ったような声音で私の顎を掴んだ凍夜さんが大きな声を上げる。
そして乱暴な手つきで私の唇に布を押し当てたかと思うと彼は「血が出てるじゃねぇか」とぶっきらぼうに言った。
何も変わらない……。
その優しさも怖い顔も全てあの時のままだ。
それが存外に嬉しくて……さらに涙がこみ上げてきた。
「おい、大丈夫か?……つぅかお前、あの時のお嬢だろ?」
思わず座り込みそうになった私を抱きとめ片腕に乗せてくれた彼が確信めいた顔でそう断言した。
硬い親指が私の頬を拭う。
慣れないながらも慰めようとしてくれているのか、その動きはぎこちなかった。
「……あの、時…………」
「ああ、黒髪紅眼なんて月影家のお嬢以外、見覚えがないからな。で、どうしたんだ?」
「あ……つ、月影家……!私を、そこに連れてってくだ、下さい!!」
「そりゃあまたずいぶんと急な話だな……。ま、困ってんだろ?いいぜ連れてってやるよ。その代わりもう泣くんじゃねぇぞ?」
痛いくらいに頭を撫でながらそう言った凍夜さんは私を抱き上げたまま外へと向かう。
「籠はこれでいいんだろ?兄貴」
戸口を開けた瞬間に聞こえてきたのは凍夜さんによく似た声で。
目線を上に上げればそこには、さきほど私を無視した男がいた。
まあ、実際には無視されたわけではなく凍夜さんを呼びに行ってくれていただけだったわけだけども……。
それでも私が絶望した事には変わりない。
大人気ないと分かっていても今はとてもじゃないがお礼を言う気にはなれなかった。
「ああ、ありがとな洸牙。んじゃ、行ってくるわ」
「ああ」
そっと壊れ物を扱うかのように籠の中に私を下ろした凍夜さんが明るく笑う。
そして再度頭を撫でられ、せっかく止まりかけていた涙がまたもや頬を伝った。
「ちょっとばかし飛ばす事になるが……我慢しろよお嬢?」
その言葉を皮切りに籠が動き出す。
途中何度も籠が大きく跳ね上がり、その度に体の至る所を強打した。
痛い……けど今はそんな事を言っている場合ではない。
グッと手に力を込め覚悟を決めた私は家に着くまでただひたすらそれに耐え続けた。
ほどなくして辿り着いた目的の場所。
震える足で玄関の前に立つ。
そっと戸を開けてみれば当時と変わらない光景がそこには広がっていた。
一歩一歩と足を踏み入れ草履を脱ぐ。
誰も出迎えてくれない事にほんの少しだけ寂しさを感じるもそれは一瞬で……。
今はそれどころじゃないと廊下を駆け抜けお父様の元へと真っ直ぐ向かう。
普段運動をしないせいで息が上がって苦しいのはもちろん、着物の裾もはっきり言って邪魔だ。
それでも少しずつ前に進めているのは紛れもない事実で、奥にはお父様がいるであろう執務室が見えている。
あと、もう少しで着く……。
そう思い、まだ遠くにある執務室へ手を伸ばした瞬間、何故か体が宙を舞った。
ガンッと鈍い音を立てて壁に叩きつけられる。
そして痛みに喘ぐ暇もなく首を押さえつけられた。
「は、あ……ぐっ!」
「どこからか害獣が入り込んできたかと思い様子を見にくればお前か」
聞き慣れない低い声が私の鼓膜を揺らす。
どんどん強くなっていく首の締め付けと骨がたわんでいくような感覚に死が現実味を帯び私を蝕む。
『苦しい』
『痛い』
『助けて』
それだけが頭を占める。
あまりの苦しさに首元にある手を引き離そうと足掻けば少しだけ力が緩んだ。
「……気に入らないな。お前の存在もあいつらも……」
苛立った様子で低く笑った彼が再度指に力を込める。
意識が遠のきかけ、最後の足掻きと言わんばかりに薄っすらと目を開けてみればそこにいたのは薄紫色の色彩を持った鬼。
つまりは私のお兄様。
明確な殺意を瞳に宿したお兄様の表情が愉悦に彩られる。
狂気を孕んだ熱い指先が私の唇に触れる。
最初は優しく撫でるように……。
そして徐々にその傷跡を抉るように爪を立てていく。
切り裂かれる痛みに声なき悲鳴を上げた私の目から反射的に涙が溢れた。
「ああ……常々お前はこの家にとって邪魔な存在、落ちこぼれだとは思っていたが……なるほど、いい表情をするじゃないか。そこだけは誇っていい…………だが、お前から強く臭うこれはなんだ?何故お前から他の男の臭いがする?」
不愉快そうに眉を顰めたお兄様が続けて言う。
「それも似た臭いが二つ、か……。気分が悪い…………」
ギリギリ……と本格的に首を締められ抵抗を試みるも体が言う事を聞かない。
このまま死んでしまうのかと意識を失いかけた時、深みのある厳かな声が廊下全体に響いた。
「何をやっている」
たった一言。
それだけでお兄様の指から力が抜けた。
その場に崩れ落ちるようにして倒れこみそうになった私を誰かが支える。
意識が朦朧とする中、力を振り絞って顔を上げれば目の前にはお父様の姿が。
ヒュー……ヒュー……と呼吸が乱れ喘ぐ事しかできない私の頬を撫でてくれたのもお父様で、私が何かを言わんとしている事に気づいたのか耳を近づけてくれた。
「ぁ……た、たすけ……。さ、ゆき……と…………ゆきと、を……たす、けて…………くだ、さ……ぃ」
血に塗れた唇をパクパクと開閉させながらなんとか言葉を紡ぐ。
動かす度に鋭く痛むそれ。
涙で視界がぼやける。
それに加え周りから黒く染まっていき視野が狭まる。
見えづらい、そのはずなのに不思議とお父様が頷いてくれた事だけは分かった。
「ああ……」
確かな返事が……責任を纏う者の声で約束される。
優しい手つきで髪を梳かれ抱き上げられる。
たったそれだけで安心できた私はお父様に身を委ね、そのまま意識を手放した。
次に目を覚ました時は二人に会える事を祈って……。
しかし、そのすぐ側でお兄様が怒りに体を震わせていた事など、この時の私は気づきもしなかった。




