パラレル・ワールド
この物語はフィクションです。
「僕はこの現実に並行する世界、即ちパラレルワールドの存在を確信し観測した」
平時どちらかというと理屈っぽく唯物主義的な友人が、唐突にそんなことを言い出したものだから、僕の目と口は大きく開き、ぽかんとした阿呆面を晒してしまった。
たっぷり五秒ほど続いた沈黙の後、僕は「ああ」とも「ええと」ともつかない曖昧な唸り声をあげながら返す言葉を探した。
「パラレルワールド?」
十秒ほどの時間を空費した挙げ句に僕ができたのは、その単語をおうむ返しにすることだけだった。
そんなまったくもって情けなくつまらない返事をしてしまった僕に、友人は気分を害した様子も無く鷹揚に頷いてみせる。
「そう、パラレルワールド。並行世界、並行宇宙などとも言うようだけれど、要するに僕らのいるこの現実と酷似するもう一つの現実ということだね。SFなどではポピュラーな概念だから君も耳にしたことくらいはあるだろう。小説の中では何らかの選択の相違によって分岐した世界が登場したりするけれども、今はその発生の概念については割愛しよう。僕が観測したパラレルワールドの発生過程について、僕も具体的に把握しているわけではないからね」
流暢にそんなことを言われるが、SF小説など読んで楽しむだけでその中に現れる概念を突き詰めて考えてみたことがない僕にはピンとこない。
「ええと、つまり?」
「つまり、僕がここで言うパラレルワールドとは、とりあえず僕らの見ているこの現実とよく似ていて、けれど異なっている世界だ、というくらいの意味で、厳密な定義は行わないということだよ」
他愛無い日常会話の筈なのに、話を始める前に用語の定義について断る必要があるのかと僕などは思うが、この友人はいつもこうだ。僕はさほどせっかちな性格ではないので、彼のこういった迂遠な語り口も慣れてしまえば気に障ることは無い。時々呆れはするけれども。
「それで、お前はこの現実と似て非なる世界の存在を見つけた、と?」
「僕が発見したわけではないよ。確信し、観測しただけさ」
この言い回しにどんな意味があるのかよくわからないが、続きを聞けばわかるのかもしれない。僕は黙って先を促した。
「先ほど言ったように、僕もこのパラレルワールドの発生過程や原理を把握しているわけではないから、それがどういう世界であるのか、実際の事象を説明しよう」
彼はそう言って、そのパラレルワールドとやらで起こっていることを話し始めた。
「その世界は僕らの見ているこの現実と酷似している。君がいて、君の友人達がいて、僕らは大学生で、そういった基本事実に変更は無い」
僕は頷いて了解を示す。僕らは僕らの現実において大学生であり、ついでに言うと卒業を間近に控えた学年で、卒業論文もその試問も無事に終わり、進路も決まってあとは卒業を待つばかりの優雅な身分である。
「どこから説き起こすべきか……そうだね、去年のクリスマス辺りからかな」
去年のクリスマス。僕らは論文の制作に追われていて、彼女も居ない僕はその日がクリスマスということにすら気づかないまま資料を漁って過ごしていた気がする。
不毛だ。
「去年の12月24日。ここから話を始めよう。但し、前提に一つだけ相違がある。君の友人である僕は君が去年のクリスマスは勿論今に至るまで恋人どころか好きな人もできないまま寂しく卒業していこうとしていることをよく知っているわけだけれど」
「余計なお世話だ」
僕は思わず口を挟んだ。事実は彼の言う通りではあるが、そんなに遠慮なく僕の心をえぐるようなことを言わなくてもいいじゃないか。
「まあ聞きなよ。ところがそちらの世界では、君には恋人がいるんだよ。とはいっても正式におつきあいをしているわけではない。君は彼女のことがとても好きで、彼女も君を愛しているが、君は論文で忙しく、それに彼女は競争率の高い物件でね、なかなか告白に至らない」
「物件て」
僕は彼の言い回しに苦笑しながらも、概ねの状況を理解した。
そこでは僕には両思いの相手が居て、でも僕は恐らく周囲の男達に勝つ自信が無く、忙しさもあってなかなか打ち明けられずにいる。そういった状況なのだろう。
「因みにその世界では僕も彼女のことを狙っていたらしい。しかし君が本気であるのを見て親友として身を引いた。それが去年の12月24日の話だ」
「お前がそんなタマかよ」
僕はちょっと呆れた。
基本唯物主義的なこの友人は、本当に欲しいものをあっさり譲ったりはしない。僕と衝突しそうだとなれば、真っ向から勝負を申し入れてくるに違いない。そういう奴なのだ。
「それともお前を説得できたのか?この僕が?」
「いや、説得とは少し違う」
目の前で湯気の勢いを失いつつあったコーヒーを口に流し込み、友人はほんの少し嫌そうな顔をした。あまり内心を表現しない彼にしては珍しい表情だ。
「僕が引き下がったのは、その、つまり、いや、これは飽くまでその世界でのことであって、今ここにいる僕の意思とは全く関係ないことだ。それを忘れないで聞いてくれよ、頼むから」
なんだその、「この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。」というおなじみのテロップのような断りは。第一、こういう風に歯切れの悪い物言いは彼らしくない。一体、何がそれほど話し難いのだろう。僕は内心首を傾げながら、カフェオレを一口啜った。
「僕が引き下がったのは、彼女に対する恋心と同等かそれを上回るくらいに、僕が君に好意を抱いていたからだ。……そういう意味で」
「ぶっ」
危うく、彼のきっちりアイロンのかかった白いシャツにカフェオレを吹きかけるところだった。同時に、あれほどの前置きをしたくなった彼の気持ちが痛いほど理解できた。
「それはまた……何がどうなった世界なんだ、それは」
「僕にも原理はわからないと言ったろう。僕だって多大な心理的ダメージを受けたんだ。掘り下げないでくれ」
一体彼がどういう経緯でその世界の存在を確信し観測したのかが知りたくなってきたが、とりあえず先を促すこととする。
「12月24日、君は図書館で論文の為の資料を探していた。そして僕と立ち話をした。それは覚えているか」
「ああ、そういえば」
僕は回想する。
彼と出くわしたのは、図書館で必要な資料が見つからず、恐らくそれを持っているであろう教授に借りに行こうかと考えている時だった。
「どうしたんだ、思い詰めたような顔をして」
彼はそう声をかけてきた。だから僕は簡単に事情を説明し、資料を持っていそうな教授の名前を挙げた。
「ただ、そんなに話したこともない人だからなあ……今日会えるかもわからないし」
「アポは取っていないのか」
不安で愚痴る僕に対して、友人は冷静だった。
「取ってないよ」
「それは難しいかもしれないね」
「だよなあ……」
頭を抱える僕の肩を、友人はぽんと叩いた。
「まあ、駄目元で突撃してみて損は無い筈だよ。ほら、これやるよ」
互いに頭の使い過ぎで糖分補給が必要だろうから、なんて言いながら、コンビニで買ったチョコを一粒くれたのを覚えているが、概ねそういった、他愛も無い会話だった筈だ。
「その世界でも、大枠は同じだ。但し君が僕に相談したのは、彼女をデートに誘うことだった。そして僕は君の気持ちを知り、何も言わずに引き下がる。君を励まし、元気づけにチョコを渡してね」
「なるほど」
僕はひとまず頷いた。
「そうして君は彼女を誘おうとしていたわけだが、結局資料を借りに行った教授との話が長引いて果たせなかった」
「そういえば、あの先生話が長かったな」
アポも取らずに資料を貸してくれと突撃してきた特に親しくもない学生を暖かく迎え入れてくれたのは有り難かったけれど、そのまま捕まってしまい、結局講義まるまる一こま分ほどの話を聞くはめになった。そちらの世界の僕も、だいたい同じ経緯で捕まったに違いない。御愁傷様。
「その後も、彼女と君のすれ違いは続いた。具体的な事件は割愛するが、君は論文の問題や彼女の周囲の男達の妨害により彼女になかなか気持ちを伝えられず、控えめな彼女もまた君の学業を邪魔してしまうのではないかと心配し、飽くまで『君の為に』君に近づけずにいる」
僕は呻いた。
確かにあり得そうな状況ではある。この世界の僕も、女性との縁はないくせにゼミの男子学生達とは仲が良く、学校へ行くと大体誰かが声をかけてくるし、省みてみればほぼ常に誰か男子学生と一緒にいる。その中でも特によくつるんでいるのが目の前の友人というわけだけれど。
「彼女は『君の為に』我慢を続けた。もし自分が君への好意を示せば君が周囲の男子学生から恨まれてしまうだろうと考えると何もできず、『君の為に』近づけない。友人に告白を促されても『君の為に』実行できず、だが『君の為に』何かしたくて、君の親友である僕に相談した」
「おお」
なんて健気な子だろう。現実に居ないのが悲しいくらいだ。
「僕は直接告白するのが『彼の為』だと助言したが、彼女は彼女から告白すると君は受け入れられないから、『君の為に』告白できないと言う」
「うん?」
両思いなのに、何故僕が受け入れないというのだろう。
「その世界の君は、彼女と付き合いたいと思っていはいるが、同時に告白は男からしなければならないとも思っているし、男から告白するまで女の方から近づいて貰いたくないと思っている、らしい。故に、彼女の方から近づいたり告白したりすれば、君は己の見栄の為に彼女を受け入れることができなくなる。彼女と付き合うことができることが『君の為に』なるのだから、彼女が告白することは『君の為に』できないわけだ」
「なるほ……ど?」
どうやらあちらの世界の僕は、この僕よりも少々難儀な性格をしているらしい。
「ところがそんな中、決定的な事件が起こってしまう」
友人は重い口ぶりで言った。
「君の就職後の配属先が決まった。それは彼女のいる場所からはとても遠く離れた場所だった」
実際、この世界の僕も、つい先日電話を貰い、赴任先を告げられた。大学からは遠く離れた地方都市。この友人は進学を選んだから、彼とも四月からは遠く離れてしまうわけだ。そう考えると、少し寂しい気もする。
「そういえば、僕もここを離れてしまうな。卒業しても友人辞めないで、たまには遊びにきてくれよ。不便だと思うけど、いいところらしいし」
「今は僕らの今後の話をしているわけではないのだけれど……まあ、その件は了承した」
友人は少しだけ苦笑して、話をもとに戻した。
「彼女と離ればなれになってしまう君は、大変思い悩んだ。連日酒浸りになり、それでも心が晴れず、彼女と離ればなれになってしまうならば死んだ方がましだと思い詰めた」
「情熱的だな」
僕は感心した。
因みにこの世界の僕も、最近毎日送別会やら友人との惜別やらで飲み会が続いている。そろそろ二日酔いの辛さが堪え始めたところだ。
「そんな君を見ている彼女も悩んだ。どうすればいいのか。死んだ方がましだとまで思い詰めている『君の為に』何ができるのか」
もう一つの世界の僕というのは、この僕とは似ても似つかない大変な人生を生きているらしい。僕だったら恐らくなりふり構わず玉砕覚悟で告白して遠距離を頑張るか、さっぱりと割り切って赴任先で新しい恋を探そうと切り替えるだろう。あまりうじうじ思い悩む方ではないし、第一そんなに繊細ではこの友人の親友は務まらないのではないかと思う。感傷的なことをあまり理解しないこの友人は、時折無意識に暴言を吐いてくるのだ。いちいち気にしていられない。
「それで、どうしたんだ、その彼女は」
続きが気になった僕は、自ら続きを催促した。もうパラレルワールドがどうとかいう話は頭の隅に追いやられてしまって、僕とは全く関係のない物語を聞いている気分だ。まあ、並行世界の僕なんてこの僕とは関わりがないのだから、実際関係ないといえばないのだろうけれど。
「君は死にたいほど思い悩んでいる。だから、彼女は、『君の為に』」
その次に続いた友人の声は、奇妙に暗く聞こえた。
「飽くまで『君の為に』、君を殺してやることにした」
僕は絶句した。
すっかり冷めたカフェオレのカップを無意味に指先でなで回し、乱れてもいない髪を撫で付け、痛くもない首を擦り、漸く息を吐き出す。
「すごい結末だな、その世界の物語は」
「そう思うか」
「思うよ。少なくともこの世界の僕は、いくら恋してもそんなことにはならないと思うなあ」
そもそも、アピールは女からされてはならない、なんて妙なプライドも無いし。
「まあ、物語としては結構面白かったかな。あまりにぶっとんでて」
ぶっとびすぎだ。僕は歯を見せて笑った。
「で、それってパラレルワールドの物語なんだろ?その存在を、お前はどこで観測したんだ?」
僕は軽い気持ちで聞いた。口調も軽かった。
なのに、友人の顔は妙だった。強ばって、青ざめて、見たこともないほど絶望的な表情をしていた。
「……これは」
ほとんど吐息のように、彼は言葉を吐き出した。
「今、君の後ろにナイフを握って立っている人の見ている世界だ」
この物語はフィクションです。たぶん。




