12
俺の先祖はと口火を切り、ジオルドさんは語りだした。それは私が知るものより詳細な熊人の歴史。私を胸に抱えたまま、低く響く声。
――この地に追われた者の近衛だった。追放されたのは王位争いに負けた王弟で、彼は心の優しい男だったらしい。先祖をはじめ城下の民たちまで慕う者が多く、彼に付き従ってここまで来た者は六十余名もいたと聞いている。
付いてきた者たちは、この地で王弟の統治を願った。彼はしかし国を興さなかった。誰か一人が治める形ではいずれまた争いを生むと、身分を捨て、民は全て平等だと説いたという。だから獣人に国はない。今後もできることはないだろう。
その後は昔話にあるように黒い獣と娘が恋に落ち、触発されたように獣とひとの番ができ、やがて街ができた。先祖は王弟亡き後は近衛から狩人となり、俺も親の跡を継いで狩人となった。
そして、独り立ちする時、これだけは誓わされた。――騎士の末裔として、いざという時には人間という敵から民と街を守れ、と。
ふっと息をつき、逡巡する気配。じっとしたまま続きを待てば、しばらく経ってからまた話し出す。
「……お前が人間だと知ったあの瞬間、ひどく戸惑った。お前は人間で、人間らしく嘘も誤魔化しもしたが、誰かを陥れようとしたり傷つけたりすることはなかった。むしろ、いつも一生懸命で」
――お前にどう接したらいいのかわからなかった。気落ちの整理が必要だった。そのために、お前から距離をとった。
言い切って、また深く息を吐く。すまなかった。小さく呟いて。
「ずっと隠していたものをどんな思いで俺に明かしたのか、ということまでは考えていなかった。俺を信頼してくれたから、あの時見せてくれたんだろう。それなのにろくに話もせず遠ざけた。俺の行動は、お前を傷つけたはずだ」
――だから悪かった。すまない。それと、ありがとう。
冷えた私を内側から温めるように、じんわり染み渡っていくその言葉。熱くなった頬はきっと、花のように赤く色づいている。
「……こちらこそ」
――ありがとうございます。
囁き返した声が水面みたいに揺れているのは、嬉しいからだ。何だか、泣きそうなほど。
ぴったりと寄り添って、しばらく私たちはそのままでいた。
※
気付けば、窓から見える空が白み始めている。夜が明けようとしているようだ。
暖炉を前に、毛皮のラグの上で二人並んで腰を下ろしている。冷えた体を温めるために抱えてくれていた、その温度は離れてしまったけれど、手を伸ばせば触れる距離にいるだけでも安心できた。信頼して、守られている感覚。いい大人でも、頼れるひとがそばにいることは絶対的な安堵感をもたらしてくれた。
「この際だから、聞いておきたいんだが」
柔らかな空気にまどろみそうな心地でいれば、空気をそっと震わせるような、ジオルドさんの問いかけ。何でしょうか、と私。
「ずっと、不思議に思っていた。どうしてお前は、あれほど『見回り』にこだわったんだ。どんな天候でも、体調が悪くとも、一日たりとも欠かすことなく行かなければと、そういう……どこか強迫観念じみたものを感じた」
「……そう見えましたか」
「ああ。そう見えた」
そうですかと頷きながら、強迫観念とは言い得て妙だと納得してしまう。確かに私は、『見回り』を忘れたり休んだりしたら何かが起きるかもしれないと、自分の身の安全よりそちらを優先していたきらいがある。心の落ち着いている今ならば、そのおかしな理論にも気付けるけれど。……熊人の冬眠は、思っていた以上に私のトラウマになっていたのだろう。
「――この街に来るより前、熊人の老夫婦のところでお世話になっていた期間があったんです」
私は、私のトラウマに思いを馳せながら、口を開く。
とても、よくしてもらいました。自分の娘みたいに可愛がってもらえて。幸せでした。二人と過ごした時間は。でも。
「去年の春。おばあさんは、冬眠から、目覚められなかった」
冬眠は危険なものだと、その時知った。眠ったまま緩やかに死んでいく姿が、今でも脳裏に焼き付いて消えない。ただただ恐ろしくて、悲しくて、何もできない自分を心から呪った。そして、もしレイナートさんが亡くなれば、私はこの世界で頼る者もなく一人きりになってしまうことに、気付いてしまった。
「……だから、『見回り』をちゃんとやらなきゃと」
――私にとりついていたのは、冬眠に対する恐怖感と、この世界で一人きりになることへの絶望感。
「……そうか」
短い相槌一つのジオルドさんの返答。代わりとばかりに軽く背に添えられた手の熱。
「つらかったな。だが、彼女はきっと、笑って逝っただろう?お前と一緒にいた時間を、最期の思い出にして、死出の旅に出たことだろう」
そっと、寄り添うような、支えるような。そんな声音は、本当に不思議なほど私の心を響かせる。つらかった、と思いながら、同時に思い出すサリュースさんの笑顔。そう、最期まで、可愛らしく微笑んでいた。幸せな夢を見ているんだろうね。死に向かうサリュースさんを見つめるレイナートさんのそんな言葉がよみがえる。
「お前のせいではない。誰のせいでもない。彼女はその命を最期まで輝かせて、幸せに逝ったんだ」
――だからお前も、ただ幸せになればいい。
耳元で静かに囁かれて、体からふっと何かが抜けていく。ずっと抱えていた重しが、その一言でなくなったのが自分でもわかった。
「……はい」
だから素直に、頷けた。
そっと隣を見やる。窓の向こうは日が昇り、早朝の清らかな空気に青が浮かんでいる。ジオルドさんは柔らかな光を受けながら穏やかに笑んでいる。その笑顔に、私は。
……見惚れて、多分、落ちた。




