コーヒーと人生。
「いらっしゃい」と薄暗い店内に負けず劣らず陰鬱な挨拶がしんっとした空間の中に小さく響く。
昔ながらの喫茶店のカウンターに腰をおろし、私はいつもと同じ「マンデリン」を注文する。
マスターも、いつもと同じように何を言うでもなく頷き、静かにカップの支度を始める。
お客は私以外に誰もいない。
こんな状態でやっていけるのだろうかと心配になったりもするが、下手な詮索をするよりも私は静かにコーヒーを楽しみたい。
そんなことを聞いたとしても、何が変わるわけでもないのだから。
余計な話をするより、この一杯のコーヒーを心置きなく楽しむことが、このお店のためでありまた私のためなのでもある。
最近はスターバックスみたいなカフェというものがそこかしこに店を構え、そこそこにおいしいコーヒーが安価で飲めるようになった。
豆の銘柄もわかって、ちょっとした時間でも気軽に入れて、何より煙草の煙の心配をする必要もないありがたいお店。
それでもやはり、私にはあの「カフェ」という場所の開放的な雰囲気が性にあわない。
どこか華やかで、楽しげで、そしてお洒落な雰囲気は、気軽ではありながらも同時に何か気後れするものを感じてしまうのだ。
歳の性だろうか……
そんなことも考えてしまうが、それだけではないだろう。
私は小さい頃から、落ち着くところが好きだった。
遊園地より博物館を、運動会よりプラネタリウムを、居酒屋に足を運ぶことより読書を、そうやって今まで生きてきた。
そして、それはこれからもかわらないということなのかもしれない。
だから私は、薄暗くて無愛想でほとんどお客のいない、それでもとびきりおいしいコーヒーを出すこの店に通うのだ。
薄暗いとはいっても、お店が汚いわけではない。
隅々まできれいに掃除が行き届いているし、年季の入ったこのカウンターも、私の顔が映りこむくらいにきれいに磨き上げられている。
真っ白でシンプルなコーヒーカップだって、いつもシミのひとつ残っていない。
私にはなぜこのお店にこれだけお客がいないのかよくわからないくらいだった。
お洒落なカフェにあってこのお店にないものといえば、人の話声と「お洒落」くらいのものである。
「案外、そんなもんなんだろうな」と私は一人ごちた。
私にとってどうでもいいもの、必要ないもの、物事の本質を捉えていないもの。
世の中に求められているものはそういったものなのかもしれない。
「……以上で私からのプレゼンを終了させていただきます。」と彼は自らの企画をきれいに締めくくった。
饒舌に、スマートに、時間きっかりで企画発表をまとめてみせた。
彼のこういった才能はどこに出しても誰にも引けをとらないだろう。
しかし、その素晴らしいプレゼンとは裏腹に、実際のプロジェクト内容はかなり危ういものだった。
ギャンブル的な要素を多分に含み、先行きは不透明で、おまけに下手をすれば違法行為にもなりかねない。
確かに成功すれば見返りは大きいが、リスクの大きさも半端ではないのだ。
それでも彼は、そんなことを微塵も感じさせぬよう上の人間にプロジェクトの内容を説明してみせた。
私よりもずっと若く、それでいて私の上司というべき存在の彼は、私の反対意見もよそに、見事にそのプロジェクトの立ち上げを了承させたのである。
そして、仲間達は企画の了承を祝って派手に街へ繰り出していった。
私は、晴れない心を抱えて一人、コーヒーを飲みにきた。
薄暗くて無愛想で、ほとんどお客のいない、それでもとびきりおいしいコーヒーを出すこの店に。
企画の反対を申し出たとき……
今でも彼の言葉が私の頭に蘇る。
「危ないプロジェクト?そんなことはわかってますよ。でも作業をするのは僕じゃないですから。失敗したら作業をする人間が責任をとればいい。いいですか?僕らがしなくちゃならないことはアピールなんです。責任を取ることでも作業をすることでもない。うまくアピールをして上の人間を納得させる。それが僕らの仕事なんです。他のことは他の人に任せればいい。そんなこと気にしてるから、僕みたいな年下に使われるようになるんですよ。」
年下が上司でも、どんなにそれが偉そうでも、私は一向にかまわない。
そんなことはどうでもいい。
ただ、本当に僕らは自分のことだけを考えていればいいのだろか?
ダメだとわかっているものを、うまいこと誤魔化して立派にみせられればそれでよいのだろうか?
今回の一件で彼はまたひとつ出世の道を進んだことになる。
私には何が正しいことなのかわからなくなっていた。
彼の言っている事も、あながち間違いじゃないのかもしれない。
いや、すべては彼が正しくて、私の周りにあるものがすべて間違えているのかもしれない……
「おまちどうさま。」
マスターが私の前にコーヒーを差し出した。
相変わらず静かに、顔色ひとつ変えはしない。
「花でも飾ってみたら?」
ふと私の口から言葉がこぼれた。
「花……ですか?」とマスターは言った。
「ほら、なんか殺風景だしさ、少しでも洒落た感じにすればもっとお客さんもくるんじゃないの?こんなにおいしいコーヒー出すんだし。」
やっぱり私の周りにあるものが間違えているのかもしれない。
私だってこのお店だって、彼のようになればもっとずっと素晴らしい人生が待っているのかもしれない。
明るく、楽しく、派手な人生……
「……殺しますから」
「え?」
余計なことを考えていたために、私はマスターの小さく発せられた言葉を聞き漏らしそうになった。
ようやく耳に入ったその言葉に、私は一瞬ドキリとした。
「花の香りはコーヒーの香りを殺してしまいますから。だから花は飾りません。」
私の反応に気がついたのか、彼はもう一度丁寧に説明してくれた。
「でも、普通の人はそんなところまで気にしないでしょ?こんなにおいしいコーヒー、もっとたくさんの人に飲んでもらわないともったいないんじゃない?」と、私は続けて聞いてみた。
「でもそうなったら、あなたはこのコーヒーを飲みにきてくれますか?私は、自分の納得できるものを、自分の納得できる人に味わっていただきたいのです。100人がそこそこ満足するより、1人が心から満足してくれる方が、私には性にあってるんですよ。」
そういってマスターはまた黙ってしまった。
私も黙って、コーヒーを味わった。
そのコーヒーは、冷えた身体だけではなく心の底まで暖めてくれるような香りがした。
「ありがとうございました。」
マスターのいつもと変わらない挨拶は、それでも陰鬱な空気を感じさせることはなく、どこまでもしんっとした店内に小さく響いていた。