(9)
見ると、名前は確かではないが、何度か来てくれたことのある女性である。
以前の江島だったら、きっと、「看板ですから」と追い返していたかもしれない。
だが、今は違う。少しでも売上に繋がるのであれば、時間は厭わない。
「いいですよ。どうぞ。」
江島は、もう一度ジャンパーを脱いで、黒の上着を着る。
「良かった!・・・ねぇ、いっちゃん、言ってた人、このマスターなんだけど・・・。」
いっちゃんと呼ばれた男が、おもむろにポケットから名刺を取り出して言う。
「突然で申し訳ございません。私、こういうものでして・・・」
受け取ってみると、そこには「御陵重工業専務取締役 片野健一郎」とあった。
御陵重工といえば、ロケットなどの宇宙機械、護衛艦などの重船舶、戦闘機などの防衛機器を製造する企業群を率いる超一流企業である。
江島には、何のことやらさっぱり分からない。
どうやら、この女性に連れられて、江島に会いに来たようなのだが、なぜにそのような大企業の、しかも専務取締役などという大物が来るのか、さっぱり分らない。
「ひょっとすると、こいつ偽者かも知れん」などと考えたりもした。
「何になさいます?」
江島は様子を見る目的もあって、そう訊ねる。
「いっちゃんの奢りだよね。・・・だったらさ、マスター、このお店で一番高いものをボトルキープ。」
男に尋ねたつもりだったが、女の方が先にそう答える。
「まあ、いきなりではこちら様もお困りですよ。まずはショットからで・・・。」
江島の店は、基本的にはボトルキープはしていない。
それこそ、素人が始めた店なのだから、プロのようにお客の名前と顔をセットで覚えるなどという芸当は出来ないと思っていた。
グラス1杯でいくら、というシンプルさで売っていた。
その代わり、掛売りもカード支払も一切お断り。
「今日もニコニコ現金払い」をモットウとしていた。
斉藤らの元部下に言わせると、それがいかにも江島らしいという評である。
「いえ、お話さえ聞いていただけるなら、このお店の売上の10年分をお支払いしても構いません。」
その男、片野は、真剣な顔でそう言う。
「どのようにお聴きになって来られたのかは存じませんが、私は、しがないバーのマスターです。御社のような超一流の会社様からお声を掛けていただくような人間ではありませんよ。どなたかとお間違いになっておられるのでは?」
江島は受け取った名刺を再度確認するかのように手に持って、そう答える。
本心からそう思っている。
「江島さんですよね。あの旋盤の魔術師と言われた生田さんの下におられた・・・。」
片野のその言葉に、江島は一瞬にして固まってしまった。
「生田作業長をご存知なのですか?」
「はい、親しくさせていただいておりました。・・・・過日、お亡くなりになって・・・・。我が社にとっても、本当に大きな痛手です。」
「一体、どういうことなんです?」
もはや江島は商売を離れてしまっていた。
「実は・・・。」
片野は、そこまで言いかけて、横にいた女の子の存在に気がつく。
「千佳ちゃん、有難う。・・・これ、少ないけれど。」
と言って、財布から数万円を取り出して手渡した。
「悪いんだけど、これからちょっと込み入った話になるんでね。」
「ふ〜ん、なんだか知らないけれど、私が居ては邪魔ってことね。分ったわ。今日は帰る。でも、いっちゃん、またお店には絶対に来てよね。」
片野は、大きく頷いて見せる。
「じゃあ、マスター、また寄らせてもらいますね。お先に!」
千佳と呼ばれた女が、軽く一礼をして店を出て行った。
(つづく)




