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それから10分ほどして、眞子姉さんは「お店に出る時間だ」と出て行った。
勘定をするとき、眞子姉さんは
「マスターの知ってるお客さん?」
と小声で訊いた。
江島は、にっこり笑って大きく頷く。
江島は、彼女が飲んでいたグラス等を片付け、カウンターの上を綺麗に拭いた。
そして、洗い物をする。
その間、カウンターの端に座っている客の様子にそれとなく気を配る。
それは、相手がどう出てくるかを予測するためではなく、江島が次にどう話しかけるかを考える時間でもあった。
静かである。
この時間帯にこうした静寂の一瞬があるとは、江島にもあまり経験は無かった。
洗い物が終わって、それをクッキングタオルで拭いて、棚に片付ける。
江島は、その片付けが終わって直ぐに折りたたみ椅子を取り出す。
いつもは、カウンターの中では立ちっぱなしで仕事をするが、ふと客が途切れたときや、常連のお客が1人だけ残った場合などには、その椅子を出して座ることがあった。
「小出さん、お元気でしたか?」
江島は、折りたたみ椅子を客の前に持って行って、それを座れるように広げた。
「こんな私に、・・・・こんな私にチャンスを与えてくださって・・・・・。」
客の男は、そう言って、また頭を深く下げた。
「いえいえ、それは私が決めたことじゃないんですよ。生田作業長のご指示なんです。」
「いえ、最終的な決定をされたのは、江島さんだとお聞きしました。ありがたいと思う一方で、こんな私に果たして務まるのかどうか、自信のひとかけらもないのが実感なんです。
あの当時の自分を思い出すだけで、身が震えます。」
男は、そのやせ細った両手でグラスを包み込んだままで言う。
まだ、一口も飲んでいない。
「もう、とっくの昔に終わったことですよ。もう、いいじゃないですか。」
江島は、本心からそう言えた。
「いえ、そうは行きません。私は未熟でした。若いからだというそう言った単純なことではなく、私は狂ってました、見栄ばかりを張っていて。
伯父貴が死んで、そのあとの社長の椅子が転がり込んできた。サラリーマンだった私は、有頂天になりました。
でも、それはたまたま伯父貴に子供がいなかっただけの理由だったのに、自分の力が認められてそうなったと思ったんです。
そんな筈はないのですけれど、そう思いたかったんだろうと思います。
ですから、生田さんの存在は正直、うっとうしかったんです。
一から十まで、細かなことまで口を出されました。
社長というポジションに舞い上がっていた私は、次第に生田さんを排除したいと思うようになったんです。
それが、私を、いえ、あの伯父貴が一からその腕一本で作り上げた会社を、あのような惨めなことにしてしまったんです。
あの会社を愛し、仕事を愛されてきた社員の皆さんを裏切ることになったんだと思います。
生田さんに教えを請う、そうしておれば、最悪の結果は防げたと、今でも自分のふがいなさを情けなく思っています。」
客の男、つまり小出孝雄は、視線を両手の中のグラスに落としたままで、言葉を続ける。
(つづく)




