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江島は、その話を妻の咲江にも相談しなかった。

やりぬくだけの自信がなかったのである。

「ちょっとしたアルバイトだ」という言い訳も考えていた。


その後、何度か店主と相談をした。もちろん、店の営業時間外にである。

江島も素面で真剣に聞いて考えようとしていたのだ。


そうした相談の結果、「とりあえず」ということなのだから、と、店の賃貸契約は店主がオーナーとの間で行ってくれることになった。

江島は、書類の上では、店主に雇われた従業員なのだが、実質的にはその家賃さえ店主に渡してくれるのだったら、後はすべて自由にしてくれて良い、という好条件で決まった。

「長年のご愛顧に対する恩返しのマネ事です」と店主は言ってくれた。


それから半月。江島は「バーテンダー教室」に通った。

授業料の20万円は、あの退職時に貰った150万円から出した。

そして、1ヵ月後には、店をオープンしていた。


まさに素人商売である。

金も無いから、派手な宣伝が出来るわけではない。

店の名前も看板も、すべて「前の店」のものを使っていた。

少しでも経費を抑えたかったのだ。

だが、オープン初日から、客が入った。

駅前とは言え、雑居ビルの地下一階である。

江島は「狐に抓まれた」気分だった。


もちろん江島も自分で出来る範囲での宣伝はやった。そのつもりだった。

斉藤をはじめとする元の会社関係者には、口頭で伝えに歩いた。

表向いてはあくまでも使われの身なのだからと、挨拶状などはおこがましくて出せなかった。

それを後で店主が聞いて、「実質的に江島さんが店主なんだから」とは言ってくれたが、律儀な性格はその辺りを融通しては考えられなかったのだ。


それでも、客足は、コンスタントだった。

多少は天候に左右されることはあったが、曜日に関係なく、一定の客はあった。

安過ぎないか?との声もあったが、バーボーンウイスキーで1ショット500円というワンコイン戦略で押し通したことが幸いしたのか、中年オヤジがたった一人でやっている店なのに、20代、30代の若い世代の客も結構多かった。


最初の1ヶ月で、売上が75万、そこから家賃25万と仕入れ15万強を差し引くとざっと35万の儲けとなった。

それを帳簿に整理して、布袋に入れた現金とともに店主のところへ持っていった。

「江島さん、がんばりましたねぇ。凄いじゃないですか」と大層褒めてくれた。

そして、こう言った。

「家賃は確かに頂戴しました。で、残りの35万円ほどは、江島さん、あなたの取り分ですよ。持って帰ってください。」


江島は嬉しかった。

あの会社倒産があってからは、失業手当以外に収入は無かったから、少ない金であっても、自分で稼げたことが何より嬉しかった。


それからは、江島は人が変わった様に丸くなった。

今までは、自分の仕事へのプライドがあって、なかなか他の仕事へ踏み出せなかったし、職人気質を捨て去ることは出来なかった。

だが、まったく知らなかった世界なのだが、こうして人の好意に支えられながらも、45歳という人生の折り返し地点で新たな自分、新たな可能性というものに出会えたという思いが強く作用していた。


「ありがたいことだ。」

江島は、その言葉を頻繁に口にするようになった。


(つづく)




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