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レプリカント

作者: 間宮 榛



 頭を動かすと、カランと音がする。

 空耳かと思ったけれど、その音は頭が動くと聞こえる。

 不思議に思って、右に頭を傾けたとき。

 カツン、何かが落ちる音がした。

 その音は、人のいない部屋に、静かに響いて拡散した。

 板張りの床に落ちたそれは、足元で光を反射している。

 なんだろうと思って、拾おうと右腕を伸ばした。

 ふと、金属のそれが落ちた音を、右耳が拾っていなかったことに気付く。

 どうしたんだろう、そう思いながら、銀色のそれをつまんだ。

 静かな冷たさを湛えたそれは、小さな歯車だった。

 表面になにかが薄く彫ってあって、それをよく見ようと思って、窓辺に移動した。

 もう一度歯車を見る。


 Replicant - ****


 たったひとこと、そう彫ってあった。





   ◆ ◆ ◆





「――――ということで、ロボット……家庭用アンドロイドを使用している家は結構あると思うんだが、どうだ?」

 先生がそう言って、等間隔に並ぶ頭をぐるりと見回す。首を傾げる生徒もいれば、当たり前だという顔をしている生徒もいる。好き勝手に動く黒や茶色、金色の頭の中で、一つだけ窪んでいる個所があった。蜂蜜色の頭の持ち主……サナは、ゆっくりとしたペースで舟を漕いでいる。ブラインド越しに入ってくる太陽の光は適度にあったかいし、眠くなるのもわかる。だけど、先生のほぼ真正面で寝ることのできるその神経は、ただただすばらしいとしか言いようがない。

「……サナ、お前の家はどうだ?」

 コンコンコン、ドアをノックする要領で、先生がサナの頭をノックする。夢でも見ていたのだろうか、急に現実から引き戻されたサナは、現実と夢がごっちゃになっているようだった。

「ぅうん……あ、れ? 川は?」

「川? ……サナ、今は授業中だ。サナの家には家庭用アンドロイドはあるか?」

「アンドロイド……えっと、RG-1200が、一台」

「お、うちと同じ型だな。アンドロイドっていうより、家政婦さんってかんじだよな、あの型は。ところでサナ、授業中に夢でも川に勝手に行かないようにな」

「……はい」

 先生がにっこりと笑って忠告すると、教室に二人を中心にして、笑いがさざなみのように広がる。その波にさらわれるように、僕もおもわず頬が弛んだ。

 ちらり、金の波打つカーテンの隙間から見えたサナの頬は、桜色に染まっていた。



   ◆ ◆ ◆



 授業の終わりを告げるベルが鳴る。

 僕らはそれを合図というように先生にお辞儀をして、教科書を片づけていった。そうしてみんな、思い思いの色のバッグを手に取る。まあるく膨れたそれに入っているのは、水着とタオル、そして水泳帽とゴーグル。前世紀から、このセットは変わっていないらしい。それもそうだ、変化しようもないくらいシンプルな作りなんだから。変わっていくのはプールとか僕らを取り囲む設備ばかりだ。

「タク、早く更衣室行かないと、時間足りなくなるぞ」

「あ、うん」

 クラスで一番仲のいいカイが、青いバッグを斜めにかけて待っている。僕も自分の黒いバッグを持って、肩にかけた。クラスメイト達は続々と更衣室へ移動している。たくさん用意されているロッカーがすべて埋まることはないけれど、早く行って着替えないと先生が怖い。少し先にいるカイに追いつくために、小走りで教室を出ようとした。

「サナ、プール入れるの?」

 サナ、という言葉を耳が拾い、一瞬出かけたスピードが落ちる。黒板の方を見ると、ピンク色のバッグを持ったサナがユリと教室を出ようとしていたところだった。

「うん、入るよ。防水加工なんだって。便利だよね」

「へぇー……すごいね。お風呂はどうしてるの?」

「お風呂? お風呂は……」

 きゃっきゃと楽しそうな声と笑顔を纏って、二人は教室を出ていく。遠ざかっていく声は、そのうち皆の声にかき消されて、聞こえなくなる。

「タク!」

 立ち止まっていた僕の体を引っ張ったのは、カイだった。黒板の上にかけてある時計の針は、残り時間が少ないことを指し示している。急がなくちゃ。

「ごめん、カイ!」

 眉間にしわを寄せて苛立っているカイと、プールサイドで目くじらを立てる先生を重ね合わせ、僕はバッグのひもを落ちないように持って走り出した。小走りなんて生ぬるいことしていたら、間に合わないのはわかりきっていたから。



   ◆ ◆ ◆



 ゴーグルをして、水泳帽をかぶって、僕とカイはプールに向かった。

 プールに入る前の小部屋で、四方八方から僕らの体に消毒液が吹きかけられる。この瞬間は何度経験しても慣れないし、何度やっても苦手だった。ぶぅん、という音の一瞬後に来る、霧状の消毒液。つん、と鼻を突く消毒液の匂いが、嫌いだった。嫌なにおいを全身から漂わせて、鼻の奥が痛いなと思いながら、プールサイドの列へ急ぐ。女子も男子もほとんど揃っていて、僕らはぎりぎりで列に滑り込んだ。

 先生の号令、準備運動、シャワー。それをいつもの手順で済ませて、僕らはプールサイドに散らばった。サナたちは、ちょうど僕とカイの目の前、向こう岸からプールに入ろうとしている。

「じゃあ、ゆっくり入ってー。飛び込まないように」

 先生の声を聞いて、僕らはプールサイドに腰をおろし、そっと足を水につける。水といってもこのプールは完全に温度管理された温水プールだし、そもそもここは室内だから虫や天候の悪さなんてどこ吹く風だ。昔は消毒のために、塩素というあまり肌にも髪にもよくないものを平気で水に混ぜていたらしいが、今そんなことをしたら保護者側から苦情が来るわ、国側から改善命令が出されるわで大変だと思う。そんなどうでもいいことを考えながら、ぬるい水に体を沈めていった。

 最初は足から。温度管理されたそれは体に最大限負担のかからない温度で、正直冷たくも温かくもないこの温度は、自分の体温とほぼ変わらないのだろう。ひたすらに、ぬるい。次は、ふくらはぎ。ふともも。腰。胸。肩。プールサイドの淵から手を離し、首から上も一気に水に潜る。

 どぽん。

 水の中は水色じゃなくて、あくまで透明だった。水面からキラキラと降り注ぐライトの筋が、水の流れで簡単に形を変えて底を照らし出す。僕のように頭からすっぽり潜っている子が何人も見える。僕の正面、サナが水中で、こちらを見つめている気がした。いや、ゴーグルをつけていたから、顔の向きでしか判断できないんだけど。だけど、僕には確かに、サナが僕を見ている気がした。僕もサナを見たから。

 水の中、白く細い足がプールの底を蹴って、サナの顔は水中から消えた。



   ◆ ◆ ◆



 プールのあとの、濡れたままの髪というのが、どうにも気持ち悪い。

 女子の更衣室には、ドライヤーが設置してあるらしい。プールのあとなのに、いつも女子の髪が乾いているのはそのせいだ。僕はそれを少しうらやましく思うけれど、男子はすぐ髪が乾くからと、この学校はいまだにドライヤーを導入してくれない。隣の学校にはあるって聞いて、すごくうらやましかった。

 僕は何度も髪をガシガシとタオルで拭いて、少しでも水気をとる努力をした。こういうときは、髪が短くてよかったと思う。女子みたいに長かったら、きっと大変だ。

「タクってほんとに泳ぐの苦手なんだな」

 タオルを首にかけたまま、隣のロッカーからズボンを取り出し、片足を入れたところでカイが思い出したように笑った。確かに僕は、泳げなかった。今日の授業でも散々で、何度息継ぎのときに水を飲んで立ち上がったことか。

「昔は泳げたんだよ、昔は」

「昔っていつだよ。お前、手術する前は病弱でプールいっつも見学してたくせに」

 かちゃかちゃとベルトを締めながら、カイは呆れた口調で突っ込んできた。

「ばれたか」

 でも、確かに手術する前は、泳げたんだ。五年前に手術するまではとても体が弱くて、よく入退院を繰り返していた。その頃、調子がいい時にプールで泳いだとき、僕は確かに泳げた。ただ、今はどれだけ頑張っても、体が浮かなくなった。手術の時に運動神経も一緒に取り除いてしまったのかと、密かに思っている。

「あのさ、サナって……本当にプール入れるんだな」

 その言葉に、少し心臓がはねた気がした。隣を見ると、カイは少しうつむいて首もとのボタンを留めていた。頭からタオルをかぶっていて、その表情は見えなかった。

「うん、そうみたいだね」

 僕も首もとのボタンを留めようと、タオルを首にかけて、シャツに手を伸ばす。襟に水が飛んで、コントラストの薄い水玉が散っていた。

「サナの体って、機械なんだろ? あんなに高性能って、最新のじゃないか?」

「たぶんね。サナの家、お金持ちだし、サナは一人娘だしさ。親としては、ベッドの上より、動いててほしいでしょ」

 僕だって、サナにはベッドで一日中じっとしてるより、お日様の下で元気に動いていてもらいたい。そっちのほうが、向日葵みたいなサナにはよく似合う。前みたいに、体中を包帯に巻かれ、たくさんの管をつないで目を閉じている姿は、もう見たくない。声をかけても届かないなんて、そんな切ない思いはもう二度としたくない。

 そんなことはおくびにも出さず、努めて普通の顔で僕はボタンを留めた。

「でもさ、……人造人間、だよな、それって」

「ちがうよ、サイボーグ。改造人間のが正しいんだって言ってた」

 サイボーグ。前世紀では、とてもすごいハイテクなものだって思われていて、SFではよく題材に取り上げられていたらしい。今じゃサイボーグやアンドロイドなんて日常に組み込まれていて、全然珍しくもなんともない。完全に日常風景の一部だ。ただ、性能は確実に上がっていて、かなり人間にそっくりにできている。

 カイはタオルでごしごし頭を拭いて、首にタオルをかけて少しうつむいた。その表情は暗く、何を愁いているのか、何を考えているのかわからない。口は閉ざされたままだ。

「……生きてるだけでも、十分だよな」

「……うん」

 カイは、濡れて重くなったタオルや水着を、ぐちゃぐちゃにバッグに詰め込む。僕も自分のものをバッグにしまった。更衣室の時計の針は、もうそろそろここを出たほうがいいことを知らせてくれている。

 カイが、バンっと強く、ロッカーの戸を閉めた。



   ◆ ◆ ◆



 駐輪場に行ったら、僕の自転車の前で、サナが待っていた。

「タク、帰ろ」

 事故の前と変わらない、笑顔。それはサナの脳が指令を出して動かしているのだから、前となんら変わりなくてもおかしくない。だけど、僕にはそれが、少し不思議だった。体は機械なのに、どうなっているんだろう。平気で食事もするし、水にも入るし、こうやって生身の人間となんら変わりない行為もできる。人間と、区別ができなくなる。

「どこか寄る?」

「んー……アイス、食べたいな」

 僕はナンバーチェーンのロックを外し、自転車を駐輪場から出して引いていく。サナは僕の横に並び、太陽から顔を隠すように手を目の上にかざした。太陽から降り注ぐ白い光に眩しそうに目を細め、空の向こうの入道雲を見ている。白い半袖の制服からのびる白い二の腕の裏には、薄いベージュで『Artinoid - 001』と書いてあった。

 アルティノイド……英語の人工という意味を持つ言葉に、ギリシア語のもどきという言葉を足した造語らしい。どうやら芸術を意味する英語にも掛けているそうだ。セモノという意味なのだと、サナが笑って言っていた。本当は最新型の少女型アンドロイドとして使われるはずだった機械の体に、サナの脳を移植して、機械の体でサナは生き続けている。脳だけが、唯一の生身。半年前の事故で使い物にならなくなった体を、サナは捨てた。

 人間の体に機械を組み込んで改造した人をサイボーグというらしいけれど、サナの場合はどうなんだろう。機械の体に人の脳を組み込んで、機械を改造したといった方が、正しい気がする。それでも、サイボーグになるんだろうか。

 サナは、人間? それとも、機械?

 僕に、その答えは見つけられない。見つけることは、不可能に思えた。現代では、人と機械の区別さえ、人とアンドロイドの区別さえ曖昧になってきている。損傷して使い物にならなくなった体の一部を機械にして、生活している人は沢山いる。そういう人たちは人間だけど、サイボーグに分類される。機械……アンドロイドに心を持たせるための実験も進んでいるらしい。将来、僕らと同じように感情に左右されるアンドロイドが製品化されるのだと、研究所で働く父さんが言っていた。

 どんどん、ヒトとキカイの境界線が曖昧になっていく。

 サナの他愛もない話に相槌を打ちながら、そんなことを考えていた。足下のアスファルトからは、湯気のように熱気がもわもわと僕らを絶え間なく襲う。門を過ぎて、先生の目が届かない辺りで、僕は自転車に跨った。

「サナ、乗って」

 早くあの甘い冷たさに会いたくて、僕はサナを自転車の後ろに乗せることにした。並んで歩くより、その方がずっと早い。いくら機械の体だといっても、サナだって暑いに違いない。思っていたとおり、サナは素直に自転車の後ろに跨り、立ち上がった。それを確認して、僕は地面を蹴った。ペダルの重さは、前と変わらない。父さんの言っていたように、いくらサナの体が機械だといっても、重さは同年代の子供と変わらないというのは本当らしい。両肩に置かれた手の冷たさが、気持ちよかった。

「なーんのアーイスがいいっかなーぁ」

 歌を歌うように、軽快なリズムでサナは口ずさむ。事故の前も、体が機械になった今も、サナは相変わらずアイスが大好物だ。嗜好が変わらないのはすごいと思う。もちろん、そのアイスの味をちゃんと脳に伝える機械の体も。

「バーニラっかなー、スっトロっベリーかなー、チョっコチップもいっいなー」

「チョコミントは?」

「あれは人間の食べるものじゃないもん。なんで甘いアイスで、歯磨き粉の味を楽しまなきゃいけないのって思うし」

 僕は嫌いじゃないけどな、チョコミント。すっとして、甘すぎないし。はたはたと、風をはらんではためくスカートの音が、耳に届く。風は生ぬるいし、空からは容赦なく日光が降り注ぐし、遠くに見える信号は今まさに赤に変わろうとしている。

 それでも、僕らの気分は上々だった。



   ◆ ◆ ◆



「こちらチョコミントですねー。こちらはストロベリーですねー。ありがとうございましたーまたどうぞー」

 笑顔の店員さんからそれぞれ目的のアイスを受け取って、僕らは店を出た。店を出たといっても、店の前に設置されたベンチが目的地だ。軒先の下、ちょうど二人入れるスペースの日陰に腰をおろし、僕らはアイスに口をつけた。甘さと冷たさとすっとする清涼感が口いっぱいに広がり、そのまま喉をすり抜けて胃へ落ちていく。

「んーっ、やっぱおいしーっ!」

 可愛らしいピンク色のアイスをスプーンですくい取り、幸せそうに顔をくしゃくしゃにしている。その仕草は何度見ても、事故以前と変わらない。おいしいものを食べた時にする、そのプルプルと震えるかんじも、笑顔も、声音も。

「やっぱ夏はアイスですよねー」

「そーですねー」

 ノリをあわせて相槌を打ち、日なたに置き去りにした自転車を眺める。殺人光線といっても過言ではない太陽光の下で、ただひたすらに持ち主を待ち続ける、黒色の自転車。熱をよく吸収する色だから、きっと僕らが食べ終わって乗る頃には、跳びあがってしまうくらい熱くなっているに違いない。日陰に置けばよかったかもしれない、と思ったけれど、移動させるのが面倒だし、もう今更だ。

「タク、たれちゃうよ」

 サナの言葉と同時に、手に冷たさを感じて見ると、ミント色の液体がコーンから垂れてきていた。



   ◆ ◆ ◆



 家の前までサナを送り届けてから、僕は帰宅した。

 半年前、事故があった日は、サナが一人で帰った日だった。僕が委員会の仕事で遅くなるし日が落ちるのも早いから危ないと、先に帰るように頼んだ日だった。サナが機械の体になってから、僕はサナを一人で帰らせないように気をつけた。また、あんな苦い思いは味わいたくなかった。二度と、サナの体を失わせたくなかった。今回はたまたま手に入ったけれど、そうじゃなかったらサナはずっと病院の中で、ディスプレイを通してしかコミュニケーションの出来ない存在になっていた。サナの両親は僕を責めなかったけど、僕は自分を責めた。

 嫌な記憶に蓋をして、自転車を玄関の横に止め、僕は扉を開けた。

「ただいま」

「おかえりー。丁度よかった、お父さんにお弁当届けてくれる?」

 ぱたぱたと黄色のスリッパで廊下を歩いてきた母さんが、お重のように大きな弁当箱を持ってやってきた。どうやら僕が帰るのを、待っていたようだ。肩にかけていたかばんと交換するように弁当と通行カードを受け取り、僕は再び家を出た。

 父さんの研究所は、家から自転車で十分。その間に弁当が腐るとは思えないが、食べ物はなるべく傷めない方がいいと思って、急いだ。暑さと下から立ち上る熱気のせいで通行量の少ない道路を急ぎつつも、弁当に衝撃がこないように細心の注意を払いながら、走り抜けた。信号に二回引っかかったが、急いだおかげで予想より早めに研究所に着いた。

 制服の胸ポケットに入れてあったカードでロックを外し、すっかり顔見知りになった守衛のおじさんに挨拶をして、研究所に入った。静かで薄暗い廊下を、目的の部屋まで脇目もふらず、まっすぐに進む。父さんの名前が掲げられた研究室の扉をノックし、中の返事を待ってから扉を開けた。いくつもの画面を空中に同時に開き、白衣を着た父さんはその画面の渦の中心で、忙しなく動いては画面の内容を読んでいるようだった。

「タク、来たのか」

「母さんが、夕飯だって。今日も泊まり?」

「ああ、そうだな……そうなりそう、かな」

 画面から視線をはずし、少しだけこちらを向いた父さんの顔は苦笑していた。父さんだって好きで頻繁に泊まっているわけではないのはわかっていたけれど、泊まる日は母さんがどことなく寂しそうになるから、できることなら帰ってきてほしかった。けれど、この忙しさじゃ無理そうだと感じた。諦めの気持ちと一緒に、弁当箱をテーブルの隅に置いた。

「ちゃんと休みなよ。体壊したら、元も子もないし」

「わかってるさ」

「じゃ、帰るから」

「タク、茶でも飲んでいかないか」

 背を向けて帰ろうとした僕を引きとめ、父さんは眼鏡を外した。目頭の辺りをつまんでマッサージをするように揉みながら、こちらに寄ってきた。少し、やつれたように見えた。気のせいかもしれないけれど、激務をこなしているのは知っているから、あながちはずれじゃないと思う。返事をしようと口をあけたとき、研究室の扉がノックもなしに開いた。

「主任、少々よろしいですか」

 同じように白衣を着た人がやってきて、父さんを呼んだ。躊躇うような空気が一瞬流れたけれど、僕が目で父さんを促したら、父さんはその人のところへ行って、小声で何かを話していた。すぐに話は終わり、その人は慌しく研究室を出て行った。父さんは僕の方に向き直り、申し訳なさそうな顔で口を開いた。

「ここで待っててくれるか? すぐ戻るから」

「うん……、わかった」

 ぽん、とすれ違いざまに僕の頭へ手を置いて、父さんは足早に研究室を出ていった。取り残された僕は、そういえばここをじっくり見るのは初めてかもしれないと思い、父さんの職場である研究室をゆっくりと見て回ることにした。



 真っ白な壁一面に備え付けられた棚に、アンドロイドの部品やら試作品が順序良く入れられている。たくさんの歯車とねじと部品でできたその手は、正直見ていてあまり気持ちのいいものではないが、それでもヒトの動きを再現するためにはこんなにたくさんの部品が必要なのかと感心してしまう。「アンドロイドは精密機械で、芸術みたいなもんだ」と前に父さんが言っていた言葉を思い出し、その絶妙なバランスで成り立つアンドロイドを作る父さんはすごいと、純粋に思った。

 組み立て前の手がいくつか置かれている棚の奥、壁に何かが書いてあるのが、一瞬見えた。父さんが壁に落書きでもしたのだろうか。そう思って、部品の手を少しどけて、もう一度覗き込んでみた。

『T - space』

 一言、そう書かれていた。白い壁にマッチして、見にくいくらい薄い灰色の文字だった。なんだろう、これ。よくわからないまま、手を元の位置に戻そうと、どけた手の部品を元あった位置に置く。その中のひとつ、手首から先が完成した部品の、卵を持っているような形の手のひらにも、うっすらとだが『T - space』と書いてある。

 指でそっとその文字をなでると、目の前の棚が動いて、ぽっかりと真っ暗な口を開けた。



   ◆ ◆ ◆



 真っ暗な口の先には、真っ暗な空間が広がっていた。

 ここは父さんの隠し部屋なのだろうか。僕は、こんな部屋の存在を知らなかった。何か秘密にしたいものがあるのだろうか。確証のない憶測ばかりが、頭を満たしていく。自分の指ですら見えない闇の果て、ぼんやりと若葉色に光る円柱があった。中を液体で満たされたそれの中には、人影が見える。アンドロイドだろうか。誰もいないのに、僕は泥棒のように忍び足で円柱まで歩を進めた。ぶうううん、機械のうなるような音がする。

 円柱の中に閉じ込められていたのは、男の子だった。

 僕より、五つほど下だろうか。口の部分に酸素マスクのようなものを取り付け、そこから一定のリズムでぶくぶくと泡を出している。あのマスクを介して、呼吸をしているのだろうか。体にはたくさんの管がつけられていて、事故の後に会ったサナを思い出してしまう。着ているものは、真っ白なパジャマ。裾や袖から、青白く細い四肢が見えていて、そこを見ただけだと生きているのかわからないくらいだ。下からの水流に、脳波を測定するパッチのようなものをつけた髪がふわりふわりと、風をはらんでいるかのように動いている。

 若葉色の光を出す下のほうを見ると、銀色のプレートが埋め込まれている。刻み込まれた文字を見るために、近づいた。

『Taku』

 そう、書いてあった。僕と同じ名前だった。……ああ、そういえば、僕に似ているかもしれない。病弱で、体の弱かった、幼いころの自分に。五年前手術したおかげですっかり体は元気になって、元が病弱だったなんて信じられないくらいに、普通の生活を送れるようになった。そんな、過去の記憶。うん、似てる。幼いころの僕に似てる。


 瞬間、鮮やかな画が、脳裏で弾けて消えた。

 驚きと覚えのない記憶に、体が動かなくなる。頭が、見たことのない記憶と行動命令を混ぜてしまって、混乱する。

 ぶうううん、うなるような音が、いやに耳につく。

 フラッシュをたかれたような、一瞬だけ見えた画には、僕がいた。僕が見つめる、もうひとりの僕。真っ白なベッドの上に寝かされて、目を閉じたまま。鏡に映った僕よりも、もっと僕にそっくりで。僕よりも、僕らしくて。

 不意に、画から父さんの声が響く。驚いて振り向いても、そこには闇が広がるばかりで、誰もいない。

〈タク、これがレプリカントだ〉

〈この体が、タクを自由にしてくれる〉

 耳をふさいでも、頭の中で強く響く、父さんの声。

〈タクの体は、父さんが守るよ〉

〈タクは、この体を使って思いっきり生きるんだ〉

 これは、記憶の中の、父さんの声だ。

〈いつか、病気が治せる日が来るから、それまでの辛抱だ〉

〈普通の生活が、これでできるぞ〉

 僕は、僕は――……。

〈タクの記憶と意識をこのレプリカントに入れれば、タクはこの不自由のない体で生きていけるんだ。何でも好きなことができるぞ。プールだって入れるし、ごはんを食べることだってできる。父さんが頑張ってつくった、最高のレプリカントだぞ〉

 レプリカントの僕を見てそう口にする、父さんの笑顔が哀しかったんだ。

 僕が隣にいるのに、父さんが見ていたのは、父さんに見えていたのは、横たわっている僕だった。

 それは僕だけど、僕じゃない。



 世界が歪む。

 若葉色の光が、僕を嘲笑う。

 目を閉じた僕が、膝をつく僕を見下している。

 息がうまく吐き出せなくなって、息の仕方がわからなくなって。目の前が、暗くなっていく。体が、小刻みに震えている。震えが止まらない。止められない。

 僕はそもそも、今までちゃんと息をしていたのだろうか。機械の体になってから一度だって、本当に息をしていたのだろうか。心臓は、汗は、涙は、どうなっていただろうか。夏の太陽の熱さも、サナの手の冷たさも、ペダルの重さも、消毒液のつんとする嫌なにおいも、濡れた髪の気持ち悪さも、チョコミントアイスのすっとする甘さも、サナの声も笑顔も、ぜんぶぜんぶ、僕は感じていた。感じているのだと思っていた。けれど、それは本当の感覚だったのだろうか。本当に、そう感じていたのだろうか。ただ機械が感知していただけだったのだろうか。

 わからなかった。

 僕には、それがすべてで、それが真実で。

 それ以外の現実を、ほんとうを、僕は知らなかった。

 僕は、僕の体が機械だなんて、一度だって思ったことはなかった。

 それが、僕にとってのリアルだったから。



「タク!」

 父さんの声が、からっぽの僕に、強く反響する。

 大きな足音が近づいてきて、体が誰かに抱き締められる。

 このにおいは、父さんのにおい。このあたたかさは、父さんの体温。

「タク、タク……」

 父さんが、いつまでも僕の名前を呼んでいる。

 だけど、父さんが呼んでいるのは、どっちの僕なのか、わからない。僕には、わからなかった。

 僕を抱き締める腕に、力がこもる。

「……タク…………すまない……」

 僕がレプリカントの体になった記憶に蓋をしたのは、きっと父さんだろう。研究所で一目置かれるくらい優秀な科学者の父さんに、それくらいわけないのかもしれない。レプリカントに僕の記憶と人格を完全に移す手術の記憶を、普通の手術だったという記憶にすり替えて、父さんは僕を守ってくれていたのだろうか。

 父さんがどんな表情だったのか、僕には見えなかった。体も、動かなかった。だんだん、父さんの声が、遠ざかっていく。ぶうううん、という音が、僕を包み込む。


 たった一粒の涙さえ、今の僕には流せなかった。





    ◆ ◆ ◆





 頭を動かすと、カランと音がする。

 空耳かと思ったけれど、その音は頭が動くと聞こえる。

 不思議に思って、右に頭を傾けたとき。

 カツン、何かが落ちた音がした。

 その音は、僕しかいない部屋に、静かに響いて拡散した。

 板張りの床に落ちたそれは、僕の足元で光を反射している。

 なんだろうと思って、拾おうと右腕を伸ばした。

 ふと、金属のそれが落ちた音を、右耳が拾っていなかったことに気付く。

 どうしたんだろう、そう思いながら、銀色のそれをそっとつまんだ。

 静かな冷たさを湛えたそれは、小さな歯車だった。

 表面になにかが薄く彫ってあって、それをよく見ようと思って、窓辺に移動した。

 もう一度歯車を見る。


 Replicant - Taku


 たったひとこと、そう彫ってあった。



 聞こえないはずの右耳が、なにかが崩れる音を感知した気がした。











 僕は、ヒトですか?


 ヒトでは、ありませんか?






レプリカント(replicant):レプリカ(replica)から生み出した造語。実際にこのような言葉は存在しません。意味合いとしては、作中に出てきたアルティノイドの「セモノ」という意味が一番近い。


アルティノイド(artinoid):英語の人工(artificiality)にギリシア語のもどき(oid:接尾語)を合成した造語。実際にこのような言葉は存在しません。意味合いとしてはアンドロイドとほぼ同義だが、その機体の繊細さゆえに芸術(art)の域に達している、との見方からこのような名称をつけた……という裏話。


サイボーグ(cyborg):人間の体に機械を組み込んだ人間を指す。人間の体の機能を機械などに代替させた人間のことを指すため、現代の人工臓器使用者は基本的にサイボーグともいえる。


アンドロイド(android):人造人間。人を模した機械や人工生命体。作中では人型の機械のことを指し、人間の生活を支えるロボットとして使役される存在。ギリシア語の男(andro)ともどき(oid)の合成語。

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