第3話 王国最強の騎士団寮は、なぜかゴミ屋敷でした
王城の敷地内は、どこを見てもため息が出るほど美しかった。
手入れの行き届いた庭園。
白亜の壁と、太陽の光を反射して輝くステンドグラス。
すれ違う文官や騎士たちの身なりも整っており、まるでおとぎ話の絵本の中に迷い込んだようだった。
「アルディア王国の騎士団は、全部で十二の分隊に分かれているの」
私の少し前を歩きながら、王宮人事官のマチルダさんが説明してくれる。
「その中でも、あなたが配属される『第七分隊』は特別よ。個人の武力、魔法の練度、戦術、どれをとっても王国最強。魔物討伐から他国との国境防衛まで、最も危険で重要な任務を任されているエリート中のエリート集団ね」
「王国最強のエリート……」
その響きに、私は思わず身を縮めた。
私のような、ただ家事しかしてこなかった平凡な主婦が、そんな雲の上の人たちの生活を支えるなんてできるのだろうか。
粗相をして怒鳴られたりしないだろうか。
前世で、テーブルの上の小さな埃を指で拭い、「お前はこんなこともできないのか」と冷たく見下ろしてきた夫の顔がフラッシュバックする。
「心配しなくていいわ。彼らは任務においては確かに『最強』だけれど……」
マチルダさんはそこで言葉を切り、深く、とても深くため息をついた。
その表情には、呆れと疲労が色濃く滲んでいる。
「着いたわ。ここが第七分隊の寮よ」
案内されたのは、王城の敷地内でも少し奥まった場所にある、二階建ての立派な石造りの館だった。
外観は歴史を感じさせる重厚な作りで、ツタが絡まる壁も風情がある。
なんだ、外から見る限りはとても立派じゃないか。
私が少しホッとしたのも束の間だった。
「開けるわよ。……心して入りなさい」
マチルダさんが重い木製の両開き扉を押し開ける。
ギイィィ、と軋む音とともに、中の空気が外へ漏れ出してきた。
「うっ……」
思わず、鼻と口を手で覆ってしまった。
埃っぽさと、獣の革の匂い、それに生乾きの布の匂いが混ざったような、なんとも言えない空気が顔を直撃したのだ。
「……えっ?」
そるおそる玄関の中に足を踏み入れた私は、目の前の光景に絶句した。
床が見えない。
玄関ホールを埋め尽くしていたのは、靴、靴、靴の山だった。
磨かれた革靴から、泥だらけのブーツ、金具のついた重そうな軍靴までが無造作に放り出され、小山を形成している。
「あの……この分隊は、何十人も所属しているんですか? 百足の魔物でも飼っているとか……?」
「いいえ。第七分隊の所属メンバーは、全部で五人だけよ」
「ご、五人!?」
五人でどうやったらこんな靴の山ができるのだろう。
脱いだら脱ぎっぱなし、片付けるという概念が存在しないことは一目で分かった。
「驚くのはまだ早いわよ。中へ入って」
靴の山を器用に避けて進むマチルダさんの後に続き、廊下へ出る。
そこはさらに悲惨な状況だった。
「ひゃっ!」
顔に何かがバサッと当たった。
見上げると、廊下の端から端までロープが張られ、無数の布がぶら下がっている。
「これ……洗濯物、ですか?」
シャツやズボン、マントらしき布が、所狭しと干されている。
いや、『干されている』というより『引っ掛けられている』だけだ。
しかも、どれも生乾きで、ツンとした嫌な匂いを放っている。
日当たりの悪い石造りの廊下に、濡れたままの分厚い布を何日も放置すればどうなるかなど、火を見るより明らかだ。
「ええ。彼らなりの『洗濯』の成果ね。次は台所よ」
案内された厨房スペースに入った瞬間、私は今度こそ悲鳴を上げそうになった。
「焦げてる……!」
石造りの広い厨房は、まるで小規模な爆発事故が起きた後のようだった。
壁の一部は真っ黒に煤け、巨大な鍋の中には、元が何だったのか判別できない炭の塊がこびりついている。
流し台には汚れた皿とコップが地層のように積み重なり、異臭を放っていた。
「そして、ここが彼らの憩いの場。共有の談話室よ」
最後に扉を開けられた広い部屋。
そこはもう、言葉を失うほどの魔境だった。
高そうなソファの上には、脱ぎ捨てられた鎧や剣が無造作に置かれている。
テーブルの上には、書きかけの羊皮紙と、食べかけの干し肉、飲みかけのグラスが散乱。
床には謎の魔導具らしき部品が転がっている。
そして。
「すー……、すー……」
部屋の隅に積み上げられたマントの山の中から、謎の寝息が聞こえてくる。
「……あの、人が埋まってるみたいなんですけど」
「放っておきなさい。どうせいつものことよ」
マチルダさんは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「これが、王国最強のエリート騎士たちの実態よ。戦闘や任務に関しては天才的なのに、生活能力に関しては壊滅的。……というより、誰一人として自分の身の回りのことすらできないの」
私は呆然と部屋を見回した。
前世の夫は、家事に対して異常に厳しかった。
アイロンの折り目が少しズレているだけで舌打ちをし、食事の味が少しでも薄いと不機嫌になった。
それなのに、このエリート騎士たちはどうだ。
靴の山に埋もれ、生乾きの服を着て、炭と化した鍋を放置し、ゴミの山で寝息を立てている。
「本当に、ここに人が住んでいるんですか……?」
「ええ。だからこそ、歴代の寮母たちは全員、三日以内に泣いて逃げ出したわ。あまりの惨状に心を病むか、彼らのマイペースさに耐えきれなくなるかでね」
マチルダさんは、散らかったテーブルの上から強引に書類の束を払い落とし(その大雑把さに少し笑ってしまった)、私に向かって一枚の羊皮紙を差し出した。
「香澄。改めて、あなたに第七分隊の寮母をお願いしたいの」
羊皮紙には、美しい文字で何かが書かれている。
『雇用契約書』という文字が、私の目にもはっきりと読めた。
「あなたには、この寮の掃除、洗濯、食事の準備を含めた『生活管理』のすべてを一任するわ」
「生活管理……」
「ええ。これはただの雑用や、奴隷のような奉仕ではないわ。王国が正式にあなたと結ぶ雇用契約よ」
マチルダさんは、私の目を真っすぐに見据えた。
「月に銀貨三十枚と、金貨一枚の給与を約束する。この寮の一階にある一番日当たりの良い部屋を、あなたの私室として提供するわ。もちろん、週に一日の完全な休日も保証する」
給与。私室。休日。
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
「……お給料が、出るんですか?」
信じられなくて、思わず聞き返してしまった。
十二年間、私は毎日朝から晩まで家事をしてきたけれど、一度もお金をもらったことはなかった。
『誰のおかげで飯が食えてると思ってる』と言われ続け、私がやっていることは一円の価値もないのだと思い込まされていた。
「当然よ。あなたは働き手なのだから」
マチルダさんは、当たり前のことのように頷いた。
「栄養のある食事、清潔な衣服、安心して眠れる環境。それらがなければ、いくら最強の騎士でも力を発揮することはできない。あなたがこれから整える『日常』は、彼らの命を支え、ひいてはこのアルディア王国を守ることに直結するのよ」
ドンッ、と胸の奥を強く打たれたような気がした。
『お前は家事しかできない』
『俺の足を引っ張るだけ』
夫の冷たい言葉が、ボロボロと崩れ落ちていく感覚。
目の前の人は、私の家事を『王国を守る力』だと言ってくれた。
誰でもできることだと見下されてきた私の十二年間が、初めて正当な価値を持って認められたのだ。
羊皮紙を受け取る手が、微かに震えていた。
「……汚れた服は、生地に合わせて洗い分ければ匂いは取れます。台所の焦げ付きも、重曹のような削り粉とお湯があれば落とせます。……一日三食、温かいご飯を作ることなら、私にもできます」
私は、顔を上げた。
視界は涙で少し滲んでいたけれど、心の中には不思議なほどの熱が灯っていた。
「やらせてください。私、この寮をちゃんと『帰ってくる場所』にしてみせます」
「ふふ、頼もしいわね。期待しているわよ、香澄」
マチルダさんが満足そうに微笑み、私の肩をポンと叩いた。
よーし。
やるからには、徹底的に綺麗にしてやる。
まずはこの玄関の靴の山を分類して、廊下の生乾き布を全部煮沸して……。
私が腕まくりをして、頭の中で段取りを組み始めた、その時だった。
――バンッ!!
玄関の方で、重い扉が勢いよく開け放たれる大きな音が響いた。
「マチルダさん! 聞いたッスよ!」
廊下の奥から、元気で、ひどく通る男の人の声が近づいてくる。
ドタドタという慌ただしい足音が、靴の山を蹴散らしているのが分かった。
「俺たちの新しい寮母が決まったって本当ッスか!? かすみさんって誰ですか!?」
声の主が、談話室の扉の前に姿を現した。
私は、新しい職場での、最初の『厄介な住人』と顔を合わせることになった。
(続く)




