第1話 「お前は家事しかできない」そう言って夫は離婚届を置いていった
湯気の消えた食卓に、一枚の白い紙が置かれていた。
私、香澄は専業主婦で、目の前の夫から十二年間の結婚生活を否定されている最中だった。
「――お前、家事しかできないだろ」
出汁の香りがふわりと立つ肉じゃがも。
彩りを考えて丁寧に巻いた卵焼きも。
彼が好きだと言っていた、ワカメと豆腐のお味噌汁も。
すっかり冷え切って、部屋の空気ごと沈み込んでいるように感じた。
「もう、無理だから」
夫の健一は、声を荒らげることはなかった。
ただ淡々と、まるで不要になった業務用の書類を処分するような、冷たくて慣れた口調だった。
その無機質な響きが、余計に私の胸を深く突き刺した。
「これから先も、お前を養う意味ある? 俺の足を引っ張るだけだし」
返す言葉が見つからず、私はただ俯くしかなかった。
喉の奥がぎゅっと締まって、呼吸をするのさえ苦しい。
結婚して十二年。
最初の数年は私も共働きだったけれど、彼が昇進し「家のことをしっかりやってほしい」と言われて、仕事を辞めた。
それからの十年間、私はずっと専業主婦として彼を支えてきたつもりだった。
毎日、彼が帰ってくる時間に合わせて温かいご飯を作り、ワイシャツにはアイロンをかけ、家の中を清潔に保つ。
それが私の仕事であり、彼への愛情の表現だった。
けれど、彼にとってそれは「誰でもできること」でしかなかったのだ。
『これ、味薄いな。もっと濃くできないの?』
手間暇かけて作った煮物を一口食べただけで、彼はスマートフォンに目を落としたまま言った。
『すみません、次から気をつけますね』
そう謝る私に、彼はもう興味を示さず、無言で食事という作業をこなすだけ。
私が三十八度の高熱を出して、ベッドから起き上がれなかった日のことも思い出す。
『俺の飯は? まさか用意してないの?』
寝室のドアを開けて放たれたのは、心配する言葉ではなく、不満げな声だった。
不機嫌な足音を立てる彼のために、私は熱でふらつく体を引きずって台所に立ち、レトルトのお粥を温めた。
フライパンの重さが、あの時は石のように感じられた。
彼は私が苦しそうに息をしていることなど、気にも留めずにそれを平らげた。
私の三十歳の誕生日。
彼が好きだと言っていたケーキ屋で、小さなホールケーキを買って待っていた。
夜遅くに帰ってきた彼は、テーブルの上のケーキを一瞥しただけで、ため息をついた。
『今日、私の誕生日なんだけど……』
勇気を出してそう言った私に、彼は呆れたような目を向けた。
『忙しいの、分かってるだろ? 大体、誰のおかげで毎日生活できてると思ってるんだよ。お前は家でのんびりしてるだけなんだから、俺の邪魔はしないでくれ』
そして極めつけは、些細な口論になった時のことだ。
『お前、本当に家事しかできないのな。俺がいなかったら、お前は一人じゃ何もできないんだぞ』
その言葉は、呪いのように私の中に染み込んでいた。
反論できなかった。
実際に私は彼のお金で生活していて、彼がいないと生きていけないのだと思い込まされていたからだ。
――ああ。
私という人間は、彼にとってただの『便利な家政婦』以下の存在だったのだ。
家事しかできない。
誰でもできることを、やっているだけ。
そう言われ続けて、いつしか私自身も「私なんて」と自分を卑下するようになっていた。
誰かの役に立てないと、私には生きている価値がない。
そう思わなければ、心が壊れてしまいそうだった。
「サインして、明日には出しておいて。俺はしばらくホテルに泊まるから」
健一は、あらかじめ用意していたのだろう。
玄関の隅に置いてあったボストンバッグを手に取ると、一度も私を振り返ることなく、扉の向こうへ消えていった。
ガチャン、と無機質な金属音が響き、痛いほどの静寂が降りてきた。
広いリビングに、私一人。
テーブルの上には、離婚届と、手つかずの冷たい夕食。
「……はいはい」
口をついて出たのは、いつもの癖だった。
「もう、しょうがないですね……」
言葉とは裏腹に、涙がボロボロと溢れて、視界がぐにゃりと滲んだ。
膝から力が抜け、冷たいフローリングに手をついた。
私には、何もない。
仕事もない。貯金もない。誇れるスキルなんて一つもない。
十二年間の結婚生活は、何だったのだろう。
彼が心地よく過ごせるようにと、自分をすり減らしてきた時間は、すべて無駄だったのだろうか。
「う……あぁっ……」
声にならない嗚咽が漏れた。
自分の存在そのものが、足元から崩れ去っていくような感覚だった。
ただ家事をこなして、ただ歳を取って。
そして、捨てられた。
息が詰まって、この部屋にいることすら耐えられなくなった。
私は財布も持たず、スマートフォンのことすら忘れ、ただ玄関を飛び出した。
外は、冷たい雨が降っていた。
傘もささず、濡れるままに歩いた。
夜の住宅街は静かで、私の足音と、雨がアスファルトを叩く音だけが響いていた。
どこへ向かえばいいのか分からなかった。
帰る実家はもうなく、こんな夜中に頼れる友人もいない。
健一の言う通り、私には一人で生きていく力なんてないのだ。
雨水が髪を伝い、頬を濡らす。
涙なのか、雨なのか、もう分からなかった。
街灯の明かりが、水たまりに反射して白く光っている。
――もう、疲れたな。
誰の役にも立てないなら、私なんて生きている価値があるのだろうか。
「私なんて……」
呟いた言葉は、雨音に吸い込まれて消えた。
視界がぼやけたまま、ふらふらと交差点に足を踏み入れる。
点滅する黄色い信号が、ひどく遠くに見えた。
パァァァァンッ!!
けたたましいクラクションの音が、鼓膜を劈いた。
ハッとして横を向くと、眩しいほどのヘッドライトが目の前に迫っていた。
白い光が、私の全身を容赦なく包み込む。
急ブレーキの甲高い摩擦音。
アスファルトを滑るタイヤの焦げた匂い。
フロントガラスの向こうで、目を見開く運転手の顔がスローモーションのように見えた。
次の瞬間、ドンッという鈍い衝撃が私の体を跳ね飛ばした。
――痛い。
そう感じる暇もなかった。
ただ、ふっと体が軽くなり、意識が深く、深く沈んでいく。
暗闇の中で、不思議なほど静かな感覚だけが残った。
これで終わるんだ。
もう、誰も私の料理を無視しない。
もう、誰の冷たい言葉にも怯えなくていい。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
雨の冷たさも、アスファルトの焦げた匂いも消えていた。
代わりに鼻を突いたのは、土と埃、そしてかすかな獣のような匂い。
「……ん」
重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。
最初に視界に入ったのは、見慣れたリビングの天井でも、夜空の暗闇でもなかった。
薄暗い空と、苔むした古いレンガの壁。
背中に感じるのは、雨に濡れた道路ではなく、硬くて冷たい石畳の感触だった。
私は、ゆっくりと身を起こした。
痛みはない。
けれど、周りの景色は、私の知っている日本の街並みではなかった。
中世のヨーロッパ映画で見るような、石造りの建物が並ぶ裏路地。
見知らぬ人々のざわめきが、遠くから聞こえてくる。
――次に目を開けたとき、私は見知らぬ石畳の上に倒れていた。
そして気がつけば、そこはもう日本ではなかった。
その夜、私は異世界へ落ちた。
(続く)




