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鉄腕スクールボーイ 世界ミドル級王者 フレディー・スティール(1912~1984)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2026/06/18

ほとんどの日本人がスティールの姿を初めて見たのはスクリーン上であった。昭和二十八年にわが国でも公開された『GIジョウ』に軍曹役で出演していたのが、スティールである。他にも『凱旋の英雄万歳』、『黒い天使』、『必死の逃避行』など、コメディからアクションまで幅広く出演しているが、その多くは太平洋戦争中から戦後間もない頃までに製作されていたため、日本では未公開のままである

 その昔、銀座四丁目の服部時計店の近くに拳闘ガゼット社というわが国のボクシング雑誌の草分け的存在の雑誌社があった。この雑誌が肩入れして日本のボクシングファンに売り込みをはかったのが、当時世界ミドル級のホープだった二十二歳のフレディー・スティールである。

 元世界ミドル級チャンピオン、フレディー・スティールをご存知のボクシングファンはわが国ではほとんどいないはずだ。一流の世界王者でありながら本国アメリカでも過小評価されているうえ、来日経験があるわけでもないスティールになぜガゼット社がそこまで入れ込んだかというと、日本郵船の浅間丸の名物船長、金子文左エ門の強い推しがあったからである。

 戦前の日本における豪華客船のフラッグシップたる浅間丸は、金子が船長の時分は東京-ロサンジェルス間を就航しており、日本のボクサーも渡米の際には浅間丸に乗船することが多かった。しかも金子は熱狂的なボクシングファンであったため、長い道中金子に厚遇されたボクサーは数多い。

 それが縁で海外のボクシング事情に詳しい金子はガゼット社の顧問のような存在となり、様々な情報を提供してくれた。その金子が寄航先の西海岸に滞在中に親しくなったのが、フレディー・スティールである。

 金子は「近い将来、世界チャンピオンになる」とスティールにベタ惚れだったが、スティールもまた金子の影響か、大変な日本贔屓で、メイドに日本人女性まで雇っていた。

 本場でもヘビー級につぐ人気階級であるミドル級のホープが日本に憧れているという話は、日本のボクシング関係者にとっては嬉しい話だったったに違いない。編集部をあげてスティールを応援しようということになり、昭和十年十一月上旬号ではスティールのグラビア頁まで設けて、まだミドル級世界ランカーの一人に過ぎない異国のボクサーを大々的に宣伝した。

 グラビア写真のスティールはガゼット誌から贈呈されたトランクスを履いて満面の笑顔を見せて見せているが、彼自身もまだ見ぬ異国の雑誌社からの後援は意気に感じるところがあったことだろう。

 それから一年も経たないうちに彼は世界ミドル級の頂点に立ち、金子船長をはじめとするガゼット社編集部の期待に応えたが、不幸なことに、その頃から日米関係は悪化の一途を辿り、スティールが引退した年から日米は太平洋戦争に突入したため、結局日本との縁はそこで途絶えてしまった。

 端正なルックスと運動神経の良さを買われたスティールは、引退後は吹き替えのスタントマンを務めたのを機に何本かの映画に出演し、’50年代からはウエストポットで「フレディー・スティールズ・リングサイドルーム」というレストラン経営に従事していた。しかし、戦争は彼の心に何らかの変化をもたらしたのだろう。平和な世の中が訪れても、かつてはあれだけ憧れていた日本の土を踏むことはなかった。


 フレディー・スティールというのはリングネームで、本名はフレデリック・アール・バーゲットという。出身地はシアトルで少年時代は野球に熱中していたが、高校からはサッカー、バスケット、フットボール、水泳と万能のスポーツマンぶりを発揮した。

 そんな彼が一番熱中していたのがボクシングである。地元の英雄だった世界J・ライト級チャンピオン、トッド・モーガンに憧れたスティールは、近所の友達とひとしきり遊んだ後は自宅の裏庭でモーガンの真似をするのが日課だったという。

両親の反対を振り切って十二歳からボクシングジムに通い始めると、センスの良さがジムオーナーのデイブ・ミラーの目に留まり、彼の勧めで一九二六年十一月十日に十三歳でフェザー級からプロデビューを果たしている。

 前座が中心とはいえ中学から高校にかけて学業と掛けもちでデビューから三十七連勝というのは尋常ではない。情報通信手段が発達した今日なら全米中で天才少年として大騒ぎされるところだ。

 当時の西海岸はメインエベントも六回戦が一般的だったため、十回戦を戦ったのは二十歳を過ぎてからのことである。したがって長らく学業と二足のわらじのローカルファイターだったことも含めて、十代までの六十五勝二敗(二十六KO)十分という成績は過少評価されているのかもしれない。

 スティールのボクシングはオーソドクスでこれといった特徴があるわけではない。変則派が多くなった現在では、クラシックスタイルと呼ばれるアップライト型の構えは、身長一七八センチ、リーチ一八五センチのスティールに適していたのだろう。

 ガードが固く、ミドル級にしてはフットワークが速かったので、パンチの被弾率が低く、頻繁に試合をこなしても肉体的な負担は抑えられた。今日、重量級で十代のうちに七十戦を超えるキャリアを積めば、健康を害してもおかしくないが、打たせないスティールは三十連勝以上を二回経験した後ですら、さらに五十四連勝するほどの体力が残されていた。

 学生時代は二線級の相手ばかりだったが、高校卒業後にウエルター級に上げてからは世界レベルの相手との対戦が増え、無敵のローカルファイターから全米ミドル級のホープへの階段を昇り始めた。

 その契機となったのが、一九三二年五月十八日のセフェリノ・ガルシア戦である。

 後に世界ミドル級タイトルを制し、東洋人初の重量級チャンピオンとなるガルシアは、ボーロパンチと呼ばれる変則アッパーを得意とする屈強なファイターで、試合前の賭け率も圧倒的に優勢だった。

 ところが二ラウンドにスティールが強烈な右ボディでガードを下げさせたところに左フックを叩き込むと、この一撃で失神したガルシアは、スティールの手を借りて自分のコーナーまで運んでもらった後も五分間も目を覚まさないほどの惨敗で、この劇的勝利によってスティール株は急上昇した。

 ガルシアや一部のファンからすればラッキーパンチによる番狂わせにも見えた試合結果だけに、スティールも真の実力を証明するために四ヶ月後(九月二十日)の再戦に応じることになった。

 ガルシアは前回とうって変わって一ラウンドから猛攻を加え、スティールを防戦一方に追い込んだ。

 ゴングが鳴ったことにも気づかずにガルシアがパンチを振るい続けたため、スティールは慌ててレフェ

リーが割って入る前に少なくとも三発のクリーンヒットを浴びており、ダメージはかなり深刻のように見えた。一気に片をつけようと接近戦を挑むガルシアに対して、冷静沈着なスティールは左フックから返しの右ストレートのコンビネーションで迎え撃つと、これがきれいに決まり逆転KO勝利となった。


 一九三五年四月一日、スティールはサンフランシスコのシビック・オーディトリアムでボクシング人生最大のライバルとグローブを交えることになった。

 同い年で地元出身のフレッド・アポストリは全米アマチュア選手権をはじめとする数々のアマチュアタイトルを獲得したエリートボクサーである。この時点で九十四勝二敗十一分という豊富な戦績を持つ叩き上げのスティールに比べると、プロ入り後六戦全勝とキャリアでは全く劣るとはいえ、次期世界チャンピオンと目される大物新人だけあって、アポストリ本人は自身満々でこの日を迎えていた。

 地元の応援団が見守る中、アポストリは序盤からクラウチングスタイルからの伸びのある強打でスティールに肉薄し、トリッキーな動きにやや戸惑いを見せるスティールはやや押され気味だったが、七ラウンドから徹底的なボディ攻撃に切り替えると、形勢は一転した。

 防御の堅いスティールに決定打を与えられないままスタミナを著しく消耗したアポストリは、ボディへの集中打によって立っていることさえおぼつかなくなり、九ラウンドには自らバランスを崩して二度もキャンバスに倒れ込む有り様だった。結果、十ラウンドの途中でレフェリーストップが入り、アポストリは屈辱的な敗北を喫してしまった。

 大応援団の前でミドル級のホープを倒して第一線に躍り出るという青写真がもろくも崩れ去ったアポストリは、その後は復讐の鬼と化して打倒スティールにボクシング人生を賭けることになる。

 金子船長がスティールと懇意になったのもこの頃だっただろう。もしかしたらこの試合を観戦していて、スティールが世界チャンピオンになる器であることを確信したのかもしれない。

 かくして一九三六年七月十一日、ベイブ・リスコを十五ラウンド判定で破って世界ミドル級の頂点に立ったスティールは、翌年はリスコとの再戦も含めて四度の防衛戦に快勝し、安定王者としての地位を築きあげた。そんな絶頂期の彼の前に再び現れたのが、因縁の相手アポストリだった。

 当時の世界ミドル級はちょっと複雑で、NBA公認の正式王者はスティールだったが、ニューヨーク州だけがそれを認めず、独自の認定王者というのを擁立していた。

 アポストリはまずニューヨーク州公認王者だったマルセル・チルをKOしてから、スティールとの王座統一戦を目論んだが、NBAからすると、アポストリはもとより、新旧の世界王者クラスに軒並み勝利しているスティールは国際的にもミドル級最強の男であり、わざわざ虎の子のタイトルを賭けてまで戦う必要がないという認識を示していた。

 とはいえ、アポストリはスティールとの第一戦以降、急速に成長しており、好試合が期待できることは間違いない。それでもスティールというミドル級の人気王者の集客力をフイにするリスクは負いたくない。そこで考え出したのが、同じ体重で試合をした場合はタイトルが移動することを逆手にとって、アポストリがミドル級リミットをオーバーした状態でリミット内のスティールと試合をさせるという裏技である。これならタイトルマッチは成立しないからである。

 スティールに借りを返したい一心のアポストリはこの条件を飲んだ。

 一九三八年一月八日のMSGでは屋外の寒さを吹き飛ばすような手に汗握る熱戦が展開された。序盤は一進一退の攻防だったが、中盤以降はアポストリの右で左目がシャッターを下してしまったスティールが次第に劣勢となり、七ラウンドに喰らったローブローでほぼ戦闘能力を喪失してしまった。

 九ラウンドにレフェリーにストップされたスティールは、生涯初のKO負けに加え、連勝も五十四で阻止されたが、試合自体はミッキー・ウォーカー対ハリー・グレブによる血みどろの死闘を彷彿させる名勝負で、観客の大半から「これまで見た中で最高の試合」と大絶賛された。

 当然のごとくラバーマッチが企画されたが、二人ともこの激闘で燃え尽きたのか、急に輝きを失い、その話はいつの間にか立ち消えとなった。


 実質的にミドル級最強の男となったアポストリは、それからわすか一ヶ月後にノンタイトル戦で伏兵のヤング・コーベット3世に番狂わせの判定負けを喫した後、接戦ながらビリー・コンにも連敗したことで、商品価値は大幅に下落した。幸いタイトルがかかっていない試合だったため、ニューヨーク州公認ミドル級チャンピオンの肩書きだけは残っていたものの、一九三九年十月二日の防衛戦でスティールに二度までもKOされたガルシアに全く歯が立たず(七ラウンドKO負け)、ついに無冠となった。

 一方のスティールもアポストリの強打で骨折した胸骨が治癒していない状態で、一ヶ月後に五度目の防衛戦に強行出場し、カルメン・バースを七ラウンドで沈めたものの、患部はさらに悪化していた。

 七月二十六日のアル・ホスタックとの六度目の防衛戦の時には、もうアップライトで構えることすら困難な状態になっていたため、試合前から勝負はついていたようなものだった。一ラウンドに立て続けに三度のダウンを奪われたスティールはレフェリーのデンプシーからストップされたが、もっと早く止めるべきだったという意見が多いほど一方的な試合だった。

 なにしろ、試合開始のゴングが鳴った後も、腕が上がらないスティールはノーガード状態だったのだから無理もない。

 よもやの惨敗を喫した二十六歳のスティールはここで潔くリングを去るが、怪我が原因で不本意な負け方をしたことがよほど心残りだったのか、三年後に再びリングに帰ってきた。

 しかしブランクによってすでに錆び付いていた元王者は、二線級のジミー・カジノに一方的に打たれて五ラウンドTKO負け。華々しい復活劇を披露するはずのハリウッド・リジョン・スタジアムでのメインエベントも茶番に終わってしまった。

 堅いガードと強烈なブロー、欠点らしい欠点もないところが高い勝率に繋がっていたが、チャンピオンになってからも、防衛戦以外に頻繁にノンタイトル戦を消化するハードスケジュールが続いたため、現役生活の末期はコンディション作りに苦慮していたとも言われる。

 打たれ強かったスティールの終盤の三敗がいずれもKO負けだったのは、コンディション不良のせいもあったかもしれないが、三度のKO負けという事実が過去の経歴まで汚し、評価を下げる要因となったことは惜しまれてならない。なまじ勝率が高いだけに負け方がクローズアップされてしまったのだろう。記録だけ見れば生涯五敗のうち三敗がKO負けというと、打たれ弱いという先入観を持ってしまいがちだが、リング上でカウントアウトされたことは一度もないように、むしろ打たれ強い方で、ダウンを喫してからもそこから立ち直って逆転勝利を収めるだけのメンタルタフネスも兼ね備えていた。

 連勝の内容にしても、選手生活中盤から後半にかけての五十四連勝中は、新旧の世界チャンピオン六名を相手に十一戦全勝(五KO)と対戦者のクオリティも高い。中でも後の世界ライトヘビー級チャンピオン、ガズ・レスネビッチを二ラウンドでKOした星は光る。

 選手生活晩年の敗け方が引退後の評価に大きな影響を及ぼすのは、全てのチャンピオンボクサーの宿命かも知れないが、全盛期の強さ、安定感は一九三〇年代のミドル級の中では傑出していたと思う。

 生涯戦績 124勝5敗11分(58KO)

フレディー・スティールは素晴らしい生涯戦績にもかかわらず、なぜか過小評価されており、私生活や試合経過などの情報が極めて少なかったが、古い資料の中から日本贔屓という記事を見つけたのを機に色々調べたが、英語版の資料も少なく選手としての特徴が明確にできなかったことが悔やまれる。また新たな資料が発見できれば加筆訂正してゆきたい。

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